第43話 黒い霧の向こう側
霧の壁の外側。
朔が、印鑑を構えたまま見据えた先には桃果と対峙していた筈の荒覇が居た。
今まで感じていた気配とは違った。使いでも陰摩羅鬼でもない。
本体だった。黒い着物。乱れた長い髪。
その存在が纏う気配が——空気を塗り替えていた。
黒い荒野が、さらに深く、重くなっていた。
「……でかい」
朔が小声で言う隣で雪哉が印鑑を握り直した。
「気を抜くな」
「抜いてないですよ——ただ、正直に言っただけです」
天廻が、二人の前に出、荒覇を——まっすぐ、見ていた。
荒覇も、天廻を見ていた。
「……天廻」
荒覇が、口を開いた。
低い声だった。でも——その声の奥に、何かがあった気がした。
朔の耳が、その光景に警戒してかぴんと立つ。
「久しぶりだな」
天廻が、静かに言った。
「……ああ」
荒覇が答えた。でも一瞬だけ荒覇の気配が——揺れた気がした。
次の瞬間。黒い霧が、爆けた。
「来るぞ——!」
朔が叫んだ。荒覇の霧が、三人に向かって押し寄せてきた。
壁の様に厚い波のような霧だった。
触れれば——全てを飲み込もうとするかの霧。
「法令第三条——!」
雪哉が踏み込んだ。印鑑が青白く光る。
足元から白い紋様が走り、霧の前に薄い膜が張られた。霧が膜に触れた。
押された。
「っ——!」
雪哉の足が、後退った。膜が、じわじわと侵食されていく。
今まで封じてきた使いたちとは——次元が違った。
荒覇本体の力が、法令を正面から押し潰してくる。
「雪哉さん——!」
朔が飛び込んだ。大きな白い犬の姿に変化しながら荒覇の霧に向かって吠えた。
遠吠えが、黒い荒野に響いた。狗賓本来の力が音となって霧を押し返す。
霧が、一瞬——退いた。
「今です、雪哉さん!」
「——法令第七条!」
雪哉が印鑑を深く押し込むと紋様が広がった。
霧を包むように光の網が張り巡らされていく。
でも。
荒覇が、一歩踏み出した。
たった一歩だった。
光の網が——砕け紋様が消えた。
雪哉の印鑑に亀裂が走ったその時、朔が吹き飛んだ。
白い毛並みが、黒い荒野を転がって行く。
「朔——!」
「……大丈夫、です」
朔が人の姿に戻りながら、立ち上がった。
膝が震えていたが印鑑は手放していなかった。
雪哉が、亀裂の入った印鑑を見た。
(法令が——届かない)
初めて、雪哉の表情が動いた。
動揺ではなかったが——確かに何かが揺れていた。
「規則では……届かないのか」
天廻が、前に出て両手から光を放ち、結ぶ神の力が荒覇に向かって走った。
白い光が黒い霧を切り裂いて霧が散ったが——すぐに集まってくる。
天廻が、光を放ちながら——荒覇に、語りかけた。
「荒覇」
荒覇が、天廻を見た。
「覚えているか。社の縁側で——よく、話をしたことを」
荒覇の動きが、わずかに——止まった。
「参拝者が帰った後の静けさが好きだと、お前は言っていた。あの頃の——」
「黙れ」
荒覇が言った。
低く。静かに。でも——その声の奥が、揺れていた。
「過去の話をするな」
霧がまた押し寄せてきたが天廻が光で受け止める。
朔が印鑑を重ね、雪哉が亀裂の入った印鑑で、もう一度法令を構えた。
三人が、押されていた。
力では——届かなかった。
(桃果……)
天廻が、霧を押し返しながら思った。
(お前が幻の中で何をしているか、私にはわからない。
でも——お前を信じる。お前が差し出すその瞬間まで、ここで——)
荒覇の霧がまた弾け、三人が同時に吹き飛んだ。
黒い荒野に三人が叩きつけられた。
朔が地面を転がった。雪哉が片膝をついた傍で天廻が腕で衝撃を受け止めた。
荒覇が、三人を見下ろした。
感情のない目だった。でも——その奥にほんの少しだけ。何かが——
「立てますか、雪哉さん」
朔が、雪哉に手を差し出した。
「……立てる」
雪哉が朔の手を取って立ち上がるや亀裂の入った印鑑をもう一度握り直した。
「もう一度、行くぞ」
「……規則通りにいかない時は?」
朔が聞いた。
雪哉が少し黙った。
「……その時は、手順を変える」
「それ、雪哉さんらしくないですね」
「桃果に言われた。手順通りでは足りないものがある、と」
朔が、笑った。疲れた笑いだったが——確かに、笑った。
「じゃあ——行きましょう」
天廻が立ち上がった。
三人が、また荒覇に向かった。
押されていた。でも——止まらなかった。
その時だった。
霧の壁の内側から——僅かな光が、滲み出し朔の耳がぴんと立った。
(……あれっ?)
小さな光だった。白く、穏やかな光だった。
でも——確かに、そこにあった。
雪哉が目を細めた。
「桃果の——結び飯の光だ」
天廻が、霧の壁を見た。
光が、じわじわと広がっていた。
黒い霧の壁が——内側から、押されていた。
(桃果……無事、差し出したのか)
天廻が、目を細めたその瞬間。荒覇が——止まった。
霧が、揺れた。大きく。不規則に。
まるで荒覇自身が——内側から揺さぶられているように。
朔が、その隙を見た。
「今——!」
印鑑を構えた。
「——ここより先、穢れの拡散を禁ず!」
白い紋様が、地面を走った。雪哉が重ねた。
「法令第七条——全点同時執行!」
光の網が、荒覇を包んだ。今度は——砕けなかった。
荒覇が、動けなかった。霧が、抑えられていた。
「……なぜ」
荒覇が、低く言った。
「なぜ——動きが」
天廻が、静かに言った。
「桃果が——差し出したからだ」
荒覇が、霧の壁の内側を——見ると
小さな、温かい光がそこにあった。
「……何を」
「おにぎりだ」
天廻が言った。
「お前の分の——おにぎりを、握ってきた」
荒覇が、動かなかった。
霧が——また、揺れた。




