最終話 明日の結び飯
桃果が帰る日は、朝から忙しかった。
桃果が目を覚ました時、厨房からすでに何かの音がしていた。
鍋がぶつかる音。誰かが米を研いでいる音。
そして——小さな舌打ちが一つ。
桃果が起き上がって厨房を覗くと、茨が腕まくりをして飯釜と格闘していた。
「茨……?」
「炊き方が分からなくなったわけじゃない。計量が少し……多かっただけだ」
「米、あふれそうだよ」
「見ればわかる」
桃果が横に入って、飯釜の水加減を直してやった。
茨が黙っていた。それが感謝の代わりだと、桃果はもう知っていた。
今日、桃果は現世に帰る。
鬼灯家の血と結び飯の力が、幽世と現世の境に一本だけ橋をかけることができた。
天廻と荒覇が共に力を合わせて開いた、たった一度だけの道。
「荒覇さんも、一緒に力を出してくれるなんて」
桃果がぽつりと言うと、茨が少し間を置いた。
「あいつは……変わった」
「うん」
「俺には分からん。おにぎりひとつで何がそんなに変わるのかが」
「茨だって変わったじゃん」
「受け取ってくれた時から、変わってたよ。ちゃんと知ってる」
茨が、また黙った。視線を飯釜に戻す。それでも耳の先が少し赤かった。
昼過ぎ、全員が店の前に集まった。
いつもの石畳。いつもの提灯。
「おにぎり屋・ほおず喜」の暖簾が、午後の風に揺れていた。
そんな桃果の姿は、初めに幽世にきたパジャマ姿に戻っていた。
「はい。朔くん……袴ありがとうね」
腕を組んでいた朔の目が明らかに赤かった。
「俺、泣かないからね……っ」
「泣いてるじゃん、もう」
「泣いてない。目が潤んでいるだけだよっ」
「同じだよ……」
「あとこの袴はあげる。おにちゃん似合ってたから」
「ええ良いの?ありがとう。大事にするね!」
朔の横に居た雪哉が懐から折りたたんだ紙を取り出した。
「これを持っていけ。現世に戻った後の鑑定書だ。
幽世に滞在した人間に対して、鎮守庁が正式に発行するものだ」
「こんなのあるの?」
「今回、桃果のために作った。前例がなかったので、書式を一から作成した」
「……ありがとうございます」
「書類仕事は得意だからな」
朔が「顔が生き生きしてる」と囁いたが雪哉は聞こえないふりをした。
狛が、桃果の隣に来た。
何も言わなかった。ただ——桃果の頭に、ぽんと手を置いた。
一瞬だけ。それだけだった。
「……元気でな」
「うん。狛ちゃんも」
「ちゃん付けは——」
「嫌だ。言わせて」
狛が、桃果の答えに口元をわずかに動かした。笑ったように見えた。
もふが桃果の肩から降りて、地面に座った。丸い目が桃果を見上げている。
「……行くのか」
「うん」
「おにぎり……現世でも握るのか」
「もちろん」
もふが尻尾を丸めた。
「そうか」
それだけ言ったが、でも——もふの尻尾はゆっくりと揺れていた。
「……また来たら、マヨ昆布を作れ」
「作る。絶対作る」
「約束だぞ」
「約束」
もふが、桃果の足元に前足を置いた。小さくて、温かかった。
茨が笹の葉に包んだ何かを差し出してきた。
桃果が両手で支えたそれは、結び目を解かなくても分かる。
手に伝わる、じんわり伝わる暖かさ。
「桃果が現世で頑張ってる間は、俺がおにぎり屋がんばるからな!」
これは土産だ。そう笹の葉に包まれたおにぎりが三つ。
「ありがとう茨。後はお店の事、宜しくね」
そう最後に天廻が桃果の前に来た。
しばらく——黙って、桃果を見ていた。
数百年分の時間を持つ目が、桃果を見ていた。
「鬼灯桃果」
「はい」
「よく、やった」
桃果が、天廻を見た。
「ありがとうございます。天廻の事も、ちゃんと知れてよかった」
天廻が目を細めた。
「現世に戻っても——おにぎりを、握り続けるのだろうな」
「もちろん」
「ならば——必ず、届く。どこへでも」
桃果が、うんと頷いた。
それから深呼吸をして、目の前の橋の前に立った。
天廻と荒覇が力を合わせて作った光の橋。
石畳の延長のように続いていて、
遠くで現世の空気に繋がっているのがわかった。
「行ってきます!」
桃果の声が出た。力強く、元気よく。
「また来るから!」
笑顔で言った。
朔の尻尾が、ぶんぶん振れた。雪哉の耳の先が白くなった。
茨が腕を組んで上を向いた。狛が小さく頷いた。もふが前足を上げた。
天廻が……静かに微笑んだ。
桃果が橋を踏み出す。
一歩。二歩。
光が、ゆっくりと体を包んでいく。
(——行ってきます。お婆ちゃん!現世のみんな、待っててね!)
そう思って足を踏み出した三歩目——
「……あ」
橋が、消えた。
いや、正確には——桃果の足元が、消えた。
「え?」「え?!」
「おにちゃん——!!」
朔の叫び声が聞こえた。
でも桃果の体はすでに落ちていた。
さっき立っていた橋の場所から奈落のように真っ逆さまに。
(——また、この感じ)
どこか既視感のある落下の感覚の中で桃果は思った。
幽世に最初に来た時と、同じだ。
遠ざかっていく皆の顔が見えた。全員が、口を大きく開けていた。
雪哉だけが「法令——」と何かを叫んでいたが間に合わなかった。
暗闇。
それから数秒待って——どさり。
石畳に落ちた衝撃で、桃果の意識が戻ってきた。
「……いた……た」
起き上がると、見覚えのある場所だった。
幽世の都の迷い路地。提灯が並んでいる。石畳が続いている。
朔の家の前、あの辺りだった。
「え……なんで」
桃果は自分の手を見た。
手が一瞬うっすらと透けて見えた。光が足りないかの様に輪郭が薄かった。
(——気が足りない)
桃果は直感的に理解した。
荒覇を浄化するために使い果たした結び飯の力が、
まだ完全に戻っていなかった。橋を渡り切るには——足りなかった。
「あーあ」
桃果は座り込んだまま、少し笑った。
(もう少しだったのに)
でも——不思議と、怖くなかった。
立ち上がった。
どうすれば気が戻るか、体が知っていた。
また——おにぎりを握ればいい。
走ってきた朔が路地の角で桃果を見つけた時、
桃果は店の厨房に向かって歩いていた。
パジャマ姿で、頭の後ろに寝ぐせをつけたまま、でも歩調は迷っていなかった。
「おにちゃん!!」
「朔くん、ただいま」
「いや待って——ただいまじゃないよ!帰る途中だったのに!!」
「気が足りなかったみたい。橋の途中で落ちた」
「見てたよ全員で!!」
「ごめん、でも大丈夫。気が戻ったら帰れる。だから——」
桃果が、暖簾を手で押さえた。
「おにぎり屋、もう少しだけ続けさせて下さい!」
朔が、しばらく何も言えなかった。
耳が、ぴんと立つ。尻尾が、また振れ始める。
「それは……確かめてから言ってください」
「確かめた」
「そんな即答で」
「だって——」
桃果が振り返って、笑った。
「まだみんなと一緒にいられるんだから。悪くないでしょ」
朔が、また目が赤くなった。今度は泣きながら怒っているような顔だった。
「……悪くはないけど!でも!」
「あと少しだけ。気が戻ったら、ちゃんと帰るから」
「……あと少しって、どのくらい」
「わからない。でも——」
桃果が暖簾をくぐった。
厨房に向かいながら、声だけで言った。
「毎日おにぎりを握るから、きっと早いよ」
*
全員が戻ってきた時、桃果はすでに米を炊いていた。
雪哉が額に手を当てた。茨が腕を組んで天井を見た。
狛が桃果の隣に来た。もふが棚の上に乗った。天廻が、入口から静かに見ていた。
「……また仕込みが始まった」
朔が力なく言った。
「明日から、また開店します」
桃果が振り返って言った。
「今日は全員分のおにぎりが食べ放題です。その代わり手伝ってね」
「……条件が都合よすぎる」
「文句がある人は書類でどうぞ」
そんな桃果の答えに雪哉がぴくりと動いた。
「書類なら——」
「雪哉さんは書かなくていいです!」
朔が叫んだ。店の中に、笑い声が広がった。
炊き立てのご飯の匂いが、厨房から漏れてくる。
提灯の光が、石畳に温かく落ちている。暖簾が、夜風に揺れていた。
桃果は飯台の前に立って、手を洗った。塩をつけた。
米を取った。
握り始めた。
一個目は朔の焼きおかか。
二個目は雪哉の鮭。
三個目は天廻の塩。
四個目は茨の梅。
五個目は狛の梅おかか。
六個目は、もふのマヨ昆布。
そして最後に——だし結びを一個。
具のない、素直な一個。
光が、おにぎりを握る度に段々と手から滲み出してきた。
桃果が、手を見るや透けていた輪郭が——少しずつ、戻ってきていた。
「……やっぱり」
「何が?」
朔が覗いてきた。
「握ると気が戻ってくる。分かった」
「……それはよかったけど」
「うん。だから——」
桃果が全員にお辞儀をした上げた顔は笑顔だった。
「皆さんもう少しだけ、よろしくお願いします!」
全員が、顔を見合わせた。
それから——全員が、頷いた。
渋々と。呆れながら。でも、確かに。
桃果は全員に向かって、また深々と頭を下げた。
「ありがとう!」
それから顔を上げて、再びにっこり笑った。
(お婆ちゃん、現世に帰るまでもう少し待っててね!)
店の明かりが、夜の石畳に溢れていた。
「おにぎり屋・ほおず喜」の暖簾が、風に揺れた。
鬼灯家の家紋が、提灯の光を受けて輝いた。
厨房から、おにぎりの光が溢れている。
そこから温かく、真っ直ぐな光が、幽世の夜に満ちていった。
——了




