第41話 振り返らずに、ただ前へ
鳥居をくぐった、瞬間だった。
景色が——消えた。
廃社の石畳が、消えた。朽ちた屋根が、消えた。木々が、消えた。
代わりに広がったのは——荒野だった。
地面は黒く乾いていた。草も、石も、何もない。
空は——完全に塞がれていた。星もない。月もない。
ただ黒い雲が、低く垂れ込めていた。遠くで何かが燃えていた。
炎の色が、赤ではなく——黒かった。
「……荒覇の世界だ」
天廻が静かに言った。
「鳥居をくぐった瞬間、荒覇の気の中に入った。
ここでは——荒覇の意志が、全てを決める」
「つまり」
朔が周囲を見渡しながら言った。
「荒覇の本拠地ってことですか」
「そうだ」
「……最悪だ」
朔が耳を伏せた。でも印鑑は、構えたままだった。
その時、地面が——割れた。
黒い地面の亀裂から、使いが溢れ出してきた。一体、二体ではなかった。
数え切れないほどの使いが、地の底から湧き出すように現れた。
顔のない輪郭。黒い霧の腕。全員が——桃果たちに向かってきた。
「来た——!」
朔が印鑑を構えた瞬間、先に狛が桃果の前に滑り出た。
印鑑を青く光らせながら、使いの群れに向かって踏み込んだ。
「——風刃封印、第一式!」
風の刃が走った。使いが散った。
でも——また来る。また来る。数が、減らない。
「狛——」
「行け」
狛が振り返らずに言った。
「桃果が行かなきゃ意味がない。俺は残る」
「でも——」
「行け、と言っている!」
狛の声が、静かだった。
でも——その背中が、確かだった。揺れていなかった。
桃果が、狛の背中を見た。
(狛……)
「……絶対、負けないで」
狛が、一瞬だけ動きを止めた。
「……ああ」
それだけ言ってまた使いに向かい、群れを食い止めていた。
「行こう、おにちゃん!」
朔が桃果の腕を引いた。天廻が先頭で走っていた。
雪哉が後方を守りながら続いた。もふが桃果の肩にしがみついた。
走った。黒い荒野を、走った。
足元が不安定だった。地面が揺れていた。狛の印鑑が光るのが見えた。
(まだ見えてる。まだ大丈夫)
桃果は走りながら、後ろを確認するのをやめた。
前だけを見た。
その時——前方の黒い空気が裂けた大きな翼が、広がった。
黒い翼。青白い肌。整いすぎた顔。
陰摩羅鬼だった。
全員の足が、止まった。
陰摩羅鬼が、ゆっくりと降り立った。
黒い荒野に、足音もなく。腐食の霧が、足元から広がっていく。
「……また会ったな、鬼灯の娘」
感情のない声だった。でも——前より、重かった。
「ここより先には——行かせない」
翼が、広がった。腐食の波が、全員に向かってくる——
「俺が残る」
茨が前に出、全員が茨を見た。茨が陰摩羅鬼を見ていた。
目が——静かだった。
「一騎打ちだ」
茨が、陰摩羅鬼に言った。
「お前も、俺と戦いたいだろ。前回は決着がついてない」
陰摩羅鬼が、わずかに目を細めた。
「……鬼か」
「そうだ。荒覇の元を離れた鬼だ。文句があるなら、俺に言え」
茨が拳を握った。赤い紋様が、腕から肩まで浮かび上がった。
陰摩羅鬼が——翼を畳んだ。
「……いいだろう。お前だけ相手をしてやる」
茨が、後ろを振り返った。桃果を見た。
「行け」
「茨——」
「勝つから」
茨が言ったが、声は揺れていなかった。
「絶対に、勝つ」
桃果が唇を噛んだ。
「……絶対、戻ってきて」
茨が、鼻で笑った。
「当たり前だ。お前のおにぎり、まだ食い足りてない」
茨が、陰摩羅鬼に向き直り同時に朔が桃果の手を引いた。
走った。
茨と陰摩羅鬼の衝突音が、背後で響き地面が揺れ黒い空気が、爆けた。
でも桃果は振り返らなかった。
振り返りたかった。でも——振り返ったら、止まってしまう気がした。
(茨。狛。待ってて)
走った。
黒い荒野の中心が、近づいてきた。
空気が——変わって重くなり冷たくなった。呼吸する度に肺が痛かった。
足が重く変化する。でも——止まらなかった。
と、幾つか走った先……天廻が足を止め、全員が止まった。
目の前に——黒い霧の壁があった。
「荒覇の中心部だこの先に——荒覇がいる」
天廻の声に桃果が霧の壁を見た。
分厚い。重い。でも——鞄の中が、温かかった。
(まだ、温かい)
「行こう」
桃果の言葉が一歩——また踏み込んだ。
壁を通過して行く間にも霧が体に絡みついてきて冷たく息が詰まった。
でも——止まらなかった。
全員が、霧の壁を抜けたその瞬間、世界が——変わった。
音が、消えた。茨の戦う音が消えた。狛の印鑑の光が消えた。全部——消えた。
代わりに。
桃果の目の前に——広場が……見覚えのある広場だった。
(……え、どうして?どうしてここに?)
幽世の都の広場だった。いつもの石畳。いつもの提灯。いつもの——
でも。
石畳が、赤く染まっていた。
朔が、倒れていた。
雪哉が、膝をついていた。
茨が、俯せになって動かなかった。
狛が、俯いたまま立ち上がれなかった。
天廻が——目を閉じて、動かなかった。
「……っ」
声が、出なかった。
「みんな——みんな!」
駆け寄ろうとした。足が動かなかった。地面に縫い付けられたように、動かない。
と、黒い霧の中から——声が、聞こえた。
「お前の所為だ」
低く。静かに。でも——確かに。
「お前が幽世に来たから、こうなった」
荒覇の声だった。
「お前が結び飯を使ったから、あの者たちは戦った」
「違う——!」
「お前の所為で、仲間は死んだ」
桃果の足元が、黒く染まっていく。
朔の顔が、遠ざかっていく。天廻が、消えていく。
「違う——違う、違う——!」
視界が滲んだ。手が震えた。鞄の中の温もりが——冷たくなっていく気がした。
(違う。みんなは生きてる。
今、ここにいる。さっきまで一緒にいた。茨は戦ってる。狛は——)
でも目の前の光景が——消えてくれない。
朔が、動かない。
雪哉が、動かない。
みんなが——
「やめて——!」
桃果が叫んだ。
桃果の声が、黒い霧に吸い込まれていった。
霧が、濃くなった。
朔が、動かない。雪哉が、動かない。天廻が、動かない。
全員が——赤く染まった石畳の上に、静かに横たわっていた。




