第40話 黒い霧の道標
朔が印鑑の状態を確認し始めた。
茨が腕の紋様を確かめるように袖を捲った。
狛が懐の印鑑を取り出して刃を確かめた。
もふが桃果の鞄の中を覗いて、笹の葉の枚数を数えていた。
天廻が窓の外——都の外れの方角を、静かに見ていた。
厨房では、桃果がおにぎりを握り続けていた。
一個ずつ。丁寧に。心を込めて。
おにぎり一つ一つに光が、滲み出していた。
(朔くんの分。雪哉さんの分。茨の分。狛ちゃんの分。もふの分。天廻の分)
全員の顔を思い浮かべながら、握った。
そして最後に——もう一個……手を止めた。具材に、手が伸びなかった。
梅でも、鮭でも、昆布マヨでも——違う気がした。
(荒覇の分は)
桃果は少し考えた。何を好きか、わからない。
何が嫌いか、わからない。どんな味が、
あの神の胸の奥まで届くのか——何もわからない。
でも。
(婆ちゃんが言ってた。具がわからない相手には、一番素直な味を出す——って)
桃果は具材に伸ばしかけた手を、引いた。
代わりに昆布と鰹節を手に取り――
出汁を、取った。出汁が一番決めてのだし結び。
米と塩と出汁だけ。何も入れない。誤魔化しが利かない。
握る人間の気持ちが、そのまま出る一番素直なおにぎり。
桃果は握り始めた。
光が——他のどのおにぎりより、ゆっくりと滲み出した。
急がなかった。丁寧に。一回、一回。
(荒覇。あなたの好きなものは知らない。
でも——温かいご飯と塩と出汁だけは、誰でも知ってる味でしょ)
だし結びが出来、光が静かに満ちていた。
桃果は笹の葉にそっと包んで、他のおにぎりとは別に鞄の一番奥にしまった。
厨房から出ると、全員が準備を終えて待っていた。
桃果が全員におにぎりを渡す。
「持っていって。戦いながらでも食べられるように、小さめに握ったから」
朔が受け取った。雪哉が受け取った。茨が、無言で受け取った。
狛が——桃果の手から、静かに受け取ったが密かに笑みを返してくれた。
もふが前足で抱え小さな風呂敷に結んで肩に掛けた。
天廻が、両手で受け取った。
「荒覇の分は?」
天廻が聞くや桃果が鞄を軽く撫でた。
「ここに。最後まで、温かいといいんだけど」
天廻が桃果を見て頷いた。
(鬼灯の始祖も——こうして、握ってきたのだろうか)
「……行こう」
天廻が見渡して言うや全員が頷く。桃果が暖簾を手で触れた。
「おにぎり屋・ほおず喜」の文字が、夕暮れの光を受けて揺れている。
(行ってきます。お婆ちゃん!)
桃果が暖簾から手を離し振り返らずに歩き出した。
全員が後に続く。幽世の都に夜が近づいていた都の石畳を全員で歩いた。
いつもと同じ道だった。でも——いつもと違った。
提灯の火が、弱かった。風もないのに、揺れていた。
屋台の煙が消えていた。店の扉が、どこも閉まっていた。
妖怪たちの気配が——静かだった。完全に消えたわけではない。
でも、息を潜めているような。嵐の前に、鳥が鳴かなくなるような——
そういう静けさだった。
石畳の色が、少しずつ変わっていった。
都の中心では温かい橙色だった石が、外れに向かうほど——灰色になっていった。
提灯の明かりが届かなくなった。空の星が、また少なかった。
誰も喋らなかった。
足音だけが、重なって響いた。
朔が印鑑を握ったまま歩いていたがいつもの軽口がなかった。
でも——耳はぴんと立っていた。
前を向いたまま周囲の気配を拾い続けていた。
雪哉が、手帳を懐にしまったまま歩いていた。
制服の襟が、乱れていなかった。いつも通りだった。
でも——歩く速度が、桃果に合わせて、少しだけ遅かった。
茨が、一番外側を歩いていた。誰かが桃果に近づけないように。
無言で。でも——確かに。
狛が、桃果のすぐ隣を歩いていた。一言も言わなかった。
でも——桃果が躓きそうになった石畳の継ぎ目を
先に踏んで確かめていた。
もふが桃果の肩の上で、丸くなっていた。
眠っているように見えたが耳が、小さく動き続けていた。
天廻が、先頭を歩き桃果が、天廻の隣に並んだ。
「天廻」
「……なんだ」
「荒覇の社、どんな場所だったの」
天廻が少し黙った。足音が、石畳を踏む音が続いた。
「賑やかな場所だった」
静かに、言った。
「今では想像もできないだろうが——かつては、参拝する者が絶えなかった。
縁を断つ神を、人間は恐れながらも頼っていた。
腐れ縁を切りたい者。悪い流れを断ち切りたい者。
荒覇は——そういう者たちの願いを、静かに聞いていた」
「優しかったんだ」
「……ああ」
天廻の声が、わずかに変わった。
「社の縁側で、よく二人で座った。
荒覇はいつも、参拝者が帰った後の静けさが好きだと言っていた。
賑やかな時より、静かになった後の空気が——好きだと」
桃果が空を見上げた。星が少ない空。
「天廻は?」
「私は——賑やかな方が好きだった。だから良く荒覇に笑われた。
お前は結ぶ神のくせに騒がしいと」
桃果がその答えを聞いて小さく笑った。
「……なぜ笑う」
「なんか、今のみんなと似てるなって思って。
賑やかな方が好きな人と、静かな方が好きな人と——でも一緒にいる」
「……そうかもしれない」
それだけ言ってまた前を向いた。でも——口元がわずかに動いた気がした。
道が、細くなっていった。
石畳が途切れた。草が伸び放題の細道になった。
木々が両側から覆いかぶさるように伸びていた。
空が見えなくなり足元が暗くなってゆく。
桃果が思わず鞄に手を当てた。
(まだ、温かい)
だし結びが、鞄の奥で——かすかに光っていた。
手のひら越しに、温もりが伝わってきた。
(届けるから。待ってて)
誰に言ったのか、わからなかった。
荒覇に言ったのか。自分に言ったのか。
木々が開けると全員の足が——止まった。
廃社だった。
かつては立派だったはずの造り。でも今は——屋根が朽ちていた。
鳥居が半分黒く染まって注連縄が地面に落ち石畳が割れていた。
その全てを——黒い霧が、包んでいた。
霧の中心に、気配があった。
大きい。重い。昨日までとは——違う。
祭りの夜に感じた気配より遥かに濃かった。遥かに深かった。
その様子に桃果の足が、一瞬止まった。
怖い。
でも——鞄の中が、温かかった。
(怖い。でも——止まらない)
狛が、桃果の隣に来た。何も言わなかったが、ただ——隣に立った。
朔が印鑑を構えた。雪哉が法令の文言を、静かに口の中で確認していた。
茨が腕の紋様を確かめるように拳を握った。
もふが桃果の肩の上で、背筋を伸ばした。
天廻が、廃社を見ていた。
長い沈黙だった。
(荒覇……ここに、また来たぞ。お前が笑っていた縁側は、もうない。
でも——お前は、まだここにいる)
天廻が、目を閉じた。それから——開いた。
「行こう」
静かに、でも確かな言葉に全員が頷き
一歩——黒い霧の中へ。踏み出した。
廃社の鳥居をくぐった瞬間、冷気の重さにが息をする度に
肺の奥まで冷気が入ってくるようだった。
でも——桃果は止まらない。後ろから、全員の足音が続いた。
幽世の夜が、静かに——動き始めた。




