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第39話 結び飯の温もりと、決意の夜へ

祭りが終わった後。天廻は一人、店の外に立っていた。


幽世の夜は静かだった。提灯の明かりが消え、

石畳には祭りの名残——散らばった花びらと、踏まれた紙くずだけが残っていた。

天廻が空を見上げた。

星が、少ない。

いつもの幽世の夜より、確かに少なかった。

荒覇の気が、少しずつ——夜空を塗り替えていた。


(時間がない)


祭りの最中に見た黒い提灯が頭の中から離れなかった。

あれは偶然ではない。荒覇が、力を試したのだ。

祭りという——幽世で最も気が満ちる夜を選んで。

店の扉が開いて朔が顔を出した。


「天廻さん、まだ外に居たんですか。桃果さんが茶を入れたって——」

「……全員、集まっているか」


朔の耳が、ぴんと立って頷いた。

店の中に、全員が揃った。桃果が湯呑みを配りながら全員の顔を見回した。

天廻の顔が——いつもと違った。


「話がある」


天廻が口を開いた。


「今夜、荒覇の気が祭りの場に触れた。あの黒い提灯がそれだ。力を試した——と

いうことは。荒覇が、本格的に動き始める前に、こちらから向かう必要がある」

「いつ」と、茨が低く聞いた。

「それは——まだ、わからない」


天廻が全員を見渡した。


「ただ、遠くはない。各自、準備を整えておいてくれ」


誰も何も言わなかった。でも——全員が、頷いた。

その夜は、それ以上の話はしなかった。桃果が握ったおにぎりを全員で食べて、

それぞれが帰っていった。いつも通りに。でも——いつも通りではない夜だった。


* * *


翌朝。

桃果は早くに目が覚めた。まだ夜明け前だった。

厨房に立って米を研ぐ。水の音が静かに響き炊き立ての湯気が上がり始める。

いつも通りの朝だった。

おにぎりを握り始めた。梅。鮭。焼きおかか。昆布。

具材を選びながら——ふと、一つの具材で手が止まった。


(狛ちゃんの好きなの……なんだっけ)


梅おかかだ。それはわかっている。

でも——なんで好きなのか。いつ知ったのか。あの時の狛の顔が——

霧の中にあった。


(おかしい。昨日まで、ちゃんと覚えてたのに)


首を振った。気のせいだと思った。握り直した。手を動かした。

次に——現世の店の暖簾を、思い浮かべようとした。

出てこなかった。

色が。家紋の位置が。風に揺れる感触が——全部、霧の中に沈んでいた。


(……また)


桃果の手が、止まった。

握りかけのおにぎりが、台の上にある。形になりかけたまま、止まっていた。


(また、薄くなってる)


昨日より速い。祭りの夜に力を使ったから——それだけじゃない気がした。

荒覇の気が、幽世に満ちているから。

時間が経てば経つほど、現世との繋がりが細くなっていく。

桃果は台の前で、しばらく動けなかった。


(待ってたら——全部、消える)


お母さんの声は、まだ聞こえる。でも顔が——霧の中だ。

お父さんの「桃果、仕込みの時間だぞ」という声は、まだある。

でも笑い方が——思い出せない。


(皆が忘れないように覚えてくれるって言ってたけど……待てない)


桃果が顔を上げた。

厨房の窓から、夜明けの光が差し込んでいた。


(もう、待てない。わたしが決める。今日——向かう)


握りかけのおにぎりを、もう一度、両手で包んだ。丁寧に。

力を込めると光が——滲み出した。いつも通りの、結び飯の光。


(これが消える前に。みんなの顔を覚えているうちに。

お母さんとお父さんの声が聞こえるうちに)


おにぎりが出来、桃果は深呼吸した。

(今日、みんなに話そう)


* * *


朝食のために全員が集まり始めた頃。桃果がおにぎりを配り終えて——

台の前に立ったまま、口を開いた。


「皆さんに話があります」


全員が桃果を見た。


「今朝、狛ちゃんの好きなものを思い出せなくなりかけた。

現世の店の暖簾の色も、出てこなかった昨日より、速くなってる。だから——」


そう桃果が全員を見渡した。迷いのない目だった。


「待つのをやめる。今日、荒覇のところへ向かいたい」


誰も、すぐには答えなかった。

朔の耳が、静かに伏せた。雪哉が目を細めた。茨が拳を握った。

狛が——桃果を見たまま、動かなかった。

天廻が、静かに息を吸って口を開いたその時だった。


「……わかった。準備を——」


店の扉が静かに鳴った。風でもなかった。

扉の隙間から、黒い霧が——細く一筋だけ流れ込んできた。

皆一斉に身構えたが、霧が店の中心で止まり形を作った。

文字だった。幽世の文字で、ゆっくりと——空中に浮かんだ。

朔が声に出して読んだ。


「……『鬼灯の娘へ。来るなら、今夜だ。次の夜はない』」


霧が、消えた。桃果がその文字が消えた場所を見ていた。

それから——小さいが確かに笑った。


「向こうも、今夜だって」

茨が低く言った。「……示し合わせたみたいだな」

「示し合わせてないけど……でも——わたしが決めた後に来た。それでいい」


全員が、顔を上げた。


「今夜——行こう」


桃果の声が、静かな店の中に、真っ直ぐ響いた。

声が店の中に響いた後、しばらく誰も動かなかった。

先に動いたのは、雪哉だった。懐から手帳を取り出して、静かに開く。


「確認する。各自の状態を教えてくれ」


いつもの雪哉だった。感情より先に、手順が動く。

それがこの場の空気を、少しだけ落ち着かせた。


「朔」

「印鑑、全部揃ってます。幽世中の情報も昨日までに整理した」

「茨」

「問題ない。荒覇の使いの動き方は大体頭に入ってる」

「狛」

「印鑑の調整は済んだ」


狛が短く答えた。桃果を一瞥して、また前を向いた。


「もふ」

もふが桃果の肩の上でぴんと背筋を伸ばした。

「俺も行く。桃果のおにぎり、まだ食い足りてないからな」

「それが理由か」

「理由はそれだけで十分だ」


雪哉が小さく息をついた。でも——止めなかった。


「天廻」

「私が先導する。荒覇のいる場所は——わかっている」


全員の視線が、天廻に集まった。


「都の外れ。かつて荒覇の社があった場所だ。今はもう、社の形は残っていない。でも——荒覇の気は、そこに一番濃く溜まっている」

「行ったことがある場所か?」


朔が聞いた。


「ある。昔、二柱で境を守っていた頃——よく、あそこで話をした」

天廻の声がわずかに変わった。でもそれ以上は言わなかった。雪哉が手帳を閉じる。

「出発は日が落ちてから。それまでに各自、準備を整えること」


全員が頷いたその時——桃果が厨房に向かった。


「おにちゃん?」

朔が呼んだ。

「おにぎり、握る」

桃果が振り返らずに言った。

「今夜持っていく分。全員分」

「今から?」

「今から」

誰も止めなかった。


厨房から、米を研ぐ音が聞こえてきた。水の音。炊ける音。いつもの朝と同じ音。

でも——今日だけは、違う意味を持っていた。

雪哉が静かに言葉を紡いだ。


「……準備を始めよう」


全員が、動き出した。


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