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第32話 白く光る手と、忘却の代償

その日、桃果はいつも通りおにぎりを握っていた。

光が滲む。温かくなる。いつも通り。

握り終えて、手を見た。


(……あれ)


なんだろう。

何かが、引っかかった。

でも——なんだかわからない。

桃果は首を振って、次のおにぎりを握り始めた。


夜。

眠れないまま天井を見ていてふと、現世のことを考えた。

学校の教室。窓際の席。友達の顔。


(あれ?……顔、どんなだったっけ。名前は?)


思い出そうとしたが輪郭が——ぼやけていた。

明るい子だった。よく笑う子だった。

でも顔が——はっきりしない。


(気のせいだ)


桃果はそう思うことにした。

久しぶりに思い出そうとしたから、ぼやけただけだ。そう目を閉じた。


次の日の閉店後、一人で台を拭いているや、ふと——現世の実家の店を思い出した。

桃果は台から離れ、壁に背を預け目を閉じた。

実家の店を、頭の中で描こうとした。

入口。暖簾。引き戸。厨房。

お母さんが立っている。お父さんが米を炊いている。

お父さんの顔が——


(……霧がかかってる)


声は覚えている。

「桃果、仕込みの時間だぞ」という声。

でも顔が——輪郭だけで、細部が滲んでいた。

桃果は目を開けた。手が、震えていた。


(なんで……なんで思い出せないんだ)


その夜、桃果は布団の中でぼんやりとしていた。

今日、大事なことが……何かがあった気がする。


(……今日、何だっけ)


考えた。

考えた。

考えた——


誕生日だ。そう気づいた瞬間、胸が痛くなった。

自分の誕生日を——今日まで忘れていた。


(毎年、お母さんがケーキを作ってくれた)


記憶を辿った。テーブルの上に、ケーキがある。ろうそくが立っている。

何本だったか——


(十六本……だったはず。でも十五だったかな……もしかして十七……?)


わからなかった。自分が何歳の誕生日を、今日迎える筈だった。

お母さんがケーキを持ってくる姿を思い浮かべた。

エプロンをしている。髪を結んでいる。でも——

顔が、霧の中にあった。目の色がわからない。笑い方がわからない。


(お母さんの顔が——わたし、お母さんの顔を)


桃果は布団を被り膝を抱えた。


(忘れてる……忘れていってる)


* * *

次の日。桃果がおにぎりを握っていた。

いつも通り。でも——店にやって来た朔が厨房を覗いて桃果の背中を見た。


(……様子がおかしい)


桃果の手の動きが、いつもより遅い。

丁寧というより——慎重に、確かめるように握っている。


「おにちゃん」


急いで朔が厨房に入った。


「……朔くん」

「顔色、悪いよ」

「そう?」

「おにちゃんの目が赤い……もしかして、泣いてた?」


桃果が答えなかった。朔が隣に立った。


「……何があった?」


桃果が手を止め握りかけのおにぎりを台に置いた。


「……昨日、自分の誕生日だって気づいたの」

「え」

「気づいたけど——何歳になるかが、わからなかった。

お母さんの顔が、霧がかかったみたいになってて」


朔が黙った。


「おにぎりを握るたびに、少しずつ——現世のことが薄くなってる気がする」


朔が、桃果の手を見た。白く光っている手。結び飯の力が宿った手。


(……まずい。天廻さんが言ってた。結び飯の力は使えば使うほど

幽世の気と混ざっていくと、おにちゃんの中の人間が、薄くなっていくと……)

「おにちゃん、天廻さんに話そう」

「待って」


桃果が朔の着物の裾を掴んだ。


「今日は——話さないで」

「でも」

「みんなに心配かけたくない。荒覇のこともある。今は——」

「おにちゃん」


 朔が、桃果をまっすぐ見た。

「心配かけていいんだよ?」


 桃果が目を伏せた。


「……でも」

「おにちゃんが俺たちのために握り続けてるから、こうなってるんでしょ。

だったら——俺たちも知る権利がある」

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