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番外編 夜更けの試作会と消えない温もり

閉店後の「おにぎり屋・ほおず喜」は、昼間とは違う顔をしていた。

客の声も、注文を受ける声も、ない。

あるのは——炊き立ての米の匂いだけだった。

厨房の奥から漂ってくる、甘くて丸い匂い。

それが、暖簾の下りた静かな店に、ゆっくりと満ちていた。


桃果は一人、飯台の前に立っていた。

目の前には、二種類の素材が並んでいる。

現世から持ってきた焼きおかか——残り少ない大事にしていた分だ。

そしてもう一つ、昼間に獏の老人から分けてもらった薬草。

指先でそっと触れると、青い刺激が鼻の奥をくすぐった。


「幽世の皆が、もっと元気になるような……そんな具材、ないかな」


独り言だった。答えてくれる人間は、いない。

でも——考えることは、好きだった。

何かと何かを合わせる。食べた人の顔を想像しながら手を動かす。

それが、桃果にとっての試作だった。


(おかかの香ばしさと、薬草の青い刺激……合うかな)


手が、動き始めた。

足音が聞こえたのは、それから少し経った頃だった。


最初に来たのは雪哉だった。

鎮守庁の制服のまま、書類を抱えている。

閉店後に寄ったのではなく——

おそらく、仕事帰りにそのまま来た。

それがこの男の「寄り道」のやり方だった。


「夜更けに何をしている」


桃果が振り返る前に、雪哉の視線は飯台の上の素材に向いていた。


「鎮守庁の許可なく新しい術式——具材の実験は、申請が……」


言いかけて、止まった。

桃果が差し出した試作おにぎりから、湯気が立ち上っていた。

焼きおかかの香ばしさと、薬草の青い刺激が混ざり合った

嗅いだことのない匂いだった。

雪哉の耳の先が——ほんの少しだけ、白くなった。


「……申請書類は、明日でいい」

「いつもより柔軟ですね」

「黙れ」


次に来たのは朔だった。

犬耳をぺたんと伏せたまま、目を半分閉じている。

どうやら眠りから起きたばかりらしい。

欠伸を一つして、厨房の匂いを嗅いで——耳が、ぴんと立った。


「おにちゃん、試作?」

「そう。食べる?」

「焼きおかかある?」

「入ってる」

「食べる!!」


それから少し遅れて、茨が奥から現れた。

エプロン姿のまま、手を布巾で拭きながら。

片付けの途中だったらしい。飯台の上を一瞥して、身を乗り出した。


「桃果、また新しい味か」

「試作中。舌、貸してくれる?」

「俺の舌で確かめてやる」


かつての禍々しさは、もうなかった。

あるのは——職人が仕事を見る時の目だった。

桃果は、三人の前におにぎりを置いた。

笹の葉に包まれた、やや小ぶりな一個ずつ。

中には、焼きおかかと薬草を和えた具材が入っている。

おかかに薬草の油が染みて、香りが変わっていた。

焼いた時の香ばしさはそのまま——

でも、その奥に青い刺激が潜んでいる。


三人が、それぞれ一口かじった。

雪哉が最初に動きを止めた。

もう一口、黙って食べた。それからゆっくりと、口を開いた。


「……身体の芯から、事務仕事の疲れが引いていくようだ」


静かな声だった。でも——確かに、認めていた。

茨が眉を寄せたまま、もう一口かじった。


最初に来たのは——薬草だった。

青い。鋭い。舌の奥が、じわりと痺れるような刺激が走った。

辛さとは違う。痛さとも違う。

強いて言うなら——目が覚める、という感覚に近かった。

血の流れが速くなるような、身体の芯が一瞬だけ緊張するような

そういう刺激だった。


その刺激が引く前に、おかかが来た。

炙られた鰹の香ばしさが、薬草の青さの跡を埋めるように広がっていく。

香りが鼻の奥を抜けた。出汁の旨みがほどけた。

米の甘さがその下から静かに上がってきた。

さっきまでの刺激が嘘のように——柔らかくなる。


そして最後に。熱が、落ちた。

喉を通った瞬間ではなかった。もう少し後だ。

胸の奥を通り越して、腹の底まで届いてから——

じわり、と。燠火が一つ、灯るような熱だった。

冷えていたわけじゃない。

でも確かに、さっきより身体が——温かかった。


茨は、しばらく黙っていた。

それから頷いた。一度だけ。深く。


「……腹の底に熱が落ちる味だ」


咀嚼が終わってから、やっと言葉が出た。


「これは——いいな」


口数が少ない分、重かった。

朔が二個目に手を伸ばしながら言った。


「これ、絶対流行るよ! 昼のメニューに入れようよ!」

「まだ試作だよ」

「試作でこれなら十分でしょ!」


桃果が笑った。店の中に笑い声が満ちた。

賑やかな声の中で——ふと、桃果の手が止まった。

次のおにぎりを握ろうとして、止まった。

理由は、わからなかった。

でも——心の奥の、どこか静かな場所で。霧があった。


(お母さんの顔が……)


思い出そうとした。厨房に立つお母さん。

エプロンをして、振り返る時の顔。

輪郭は、ある。でも——細部が、霧の中にあった。

笑い方が、見えなかった。笑い声は聞こえる。

でも、どんな顔で笑うのか——


(……また)

 

桃果は手の中のご飯を、もう一度握った。

一回。二回。三回。

目の前に、仲間たちがいた。雪哉が二個目を手に取っている。

茨が薬草の種類について真剣な顔で聞いている。

朔が朔のペースで三個目に突入しかけている。


(忘れたくない)


この温かさだけは——絶対に。

お母さんの顔が霧に包まれていくなら。

友達の名前が滲んでいくなら。

現世の記憶が少しずつ薄くなっていくなら——

それでも、今この瞬間だけは。


(今ここにいる人たちの顔を、ちゃんと覚えていたい)


手が、温かくなった。

いつもの光が、じわりと滲み出した。白く、穏やかに。

呪いかもしれない力が——今この瞬間だけは、祝福の色をしていた。

窓が、ことりと鳴った。

全員が振り返ると、窓枠にもふがいた。丸い目で、厨房の中を覗いている。

鼻が、ひくひくと動いていた。


「……おい」


低い声で言った。


「俺の分は、ないのか」

「あるよ」


桃果は笑って、台の上の一個を手に取った。

今夜一番、丁寧に握った一個。まだ湯気が立っている、一番温かい一個。

もふが窓から飛び込んできた。桃果の手から、おにぎりを受け取った。

一口かじって——目が、細くなった。


「……旨い」

「うん」

「毎回言わせるな。でも、毎回旨いんだから仕方ない……か」


もふが尻尾をゆっくり揺らした。

朔が笑った。茨が鼻を鳴らした。雪哉が、視線を逸らした——

でも口元が、ほんの少しだけ動いていた。


幽世の夜は深い。

空は藍色で、星が多すぎるほど多い。

店から漏れる橙の明かりが、石畳の上に細長く伸びていた。

おにぎりの湯気が、その光の中でゆっくりと——夜に溶けていく。

鬼灯おにぎり屋・ほおず喜の灯りは、今日はまだしばらく消えなかった。


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