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第29話 星の消えた夜に

いつもなら星が多い幽世の夜空が——黒い雲に覆われていた。

雲でも霧でもない。

重々しいどす黒い気が——幽世の空を、丸ごと飲み込んでいた。

次の瞬間。

都の外れから、業火が上がった。

一つ。

二つ。

三つ。

あちらこちらで炎が噴き上がる。石畳が割れる。建物が燃える。

妖怪たちの悲鳴が折り重なるように都へ響き渡り、夜の空気を引き裂いた。


おにぎり屋・ほおず喜が——燃えていた。


鬼灯家の暖簾が、炎に飲み込まれていく。

この都で風雨に耐えてきた家紋が、

火の中でゆらりと揺れて——音もなく、消えた。


悲鳴が響き渡る幽世の都を、桃果は走っていた。

ブーツの踵が石畳を叩くたびに足首がぐらつく。

何度か躓きそうになったが、走るのをやめなかった。やめられなかった。


(皆……皆どこなの?)


胸の中で問いかけながら、それでも足は前へ前へと動き続ける。

炎の熱が頬を焼き、煙が喉に絡みついた。

その時——耳をつんざくような音が響いた。


三味線の音だった。ただし、それは音楽ではなかった。

どの音とも合わない、不協和音。

ありとあらゆる調和を拒絶するような、

壊れた音の塊が桃果の鼓膜を揺さぶった。

思わず耳を塞ごうと手を上げた——その瞬間。

目の前に、何かが落ちた。

重い、鈍い音。石畳が砕ける衝撃。


「——っ!?」


駆け寄る。

地に伏した付喪神の周りには、引きちぎられた弦が散らばっていた。

あの美しい三味線は、真ん中から真っ二つに割れていた。


「ねぇ、しっかりして……!」


声をかけても、付喪神は動かない。

桃果は炎が近づいてくる方向を確認しながら、

付喪神の体を道の端へと引き寄せようとした。

目の前に、見覚えがある姿がそこにあった。

幽世に来て初めて助けた狐の子、獏の老人、狸のお爺さん……

他の街の皆が行き倒れていた。


「そんな……どうして?」


桃果が周りの惨状に狼狽えていた——その時。


ギャン!


鋭い犬の悲鳴が、夜を引き裂いた。

反射的に顔を上げると、宙に大きな影が舞い上がるのが見えた。

白い毛並みが炎に照らされ、弧を描き——そのまま、落ちた。

乾いた、重い音。

広場の銅像の槍が、朔を貫いていた。

ずるり。と地に着地した時にはもう、人の姿に戻っていた。

銅像の足元に、静かに赤い池が広がっていく。


「ひっ——」


声にならない息が漏れた。

そしてその銅像の根本。

鮮血が飛び散った石畳の上に、ひび割れた印鑑を両手で握りしめたまま——

狛が、倒れていた。接戦だったのだろうか。

辺りの惨状が、いかに激しい戦いだったかを物語っていた。

それでも狛は最後までその印鑑を手放さなかった。


「……朔くん! 狛ちゃん——!」


桃果の悲鳴は轟音と共に搔き消されて行く。

音の方向には雪哉と茨。二人は陰摩羅鬼おんもらきと戦っていた。


「包囲完了——!」


雪哉の声が響く。印鑑を掲げ法令の紋様が光を放った。


「法令第七条、全点同時執行」


轟音と共に包囲網が収縮し、陰摩羅鬼を一点へと封じ込める。

隙間などどこにもなかった。完璧な包囲だった。


「——俺が仕上げる!」


雪哉の斬撃が刻んだ紋様に、茨の拳が炸裂する。

封印が爆発的に拡大し、対象を粉砕する——はずだった。


だが。


雪哉が刻んだ紋様が、みるみる色を失っていく。

法令の光が、まるで砂が崩れるように霧散していった。

目の前で印鑑がボロボロに朽ちていく。

亀裂が走り、欠けて、粉になって——消えた。


「隔離も排除もできないなんて……嘘だっ!」


雪哉の声に動揺が滲んだその瞬間、陰摩羅鬼が刀を振り払った。

切られた箇所から黒い霧が溢れ出し、

雪哉の体が石畳に叩きつけられ衝突が激しく、吐血した。


「これは嘘ではない……」


低く、静かな声。


「雪哉——っ!……てめぇ……っ!」


茨が吠えた。

全身から力を絞り出すように、陰摩羅鬼(おんもらき)へと向かっていく。

その拳は確かに届いた——

しかし陰摩羅鬼は刀を翻し茨の翼を薙ぎ払った。

至近距離で腐食の波動が炸裂した。

衝撃が広場を揺るがし——茨の姿が消えた。

煙の中に。黒い霧の中に。溶けるように消えた。


「桃果、危ないっ!」


突然、天廻の声が、耳元で響いた。

気づいた時には、天廻の腕が桃果を包んでいた。

片腕でしっかりと抱きしめながら、もう一方の手を前へと突き出す。

どす黒い気が迫る。天廻の手の平から気が迸り、

衝撃を正面から受け止めた。

凄まじい音が、広場を揺るがした。

桃果は目を閉じた。熱い。煙い。耳が痛い。

それでも——天廻の腕は、離れなかった。

ゆっくりと、瞼を開ける。天廻はまだそこにいた。

桃果をしっかりと抱いたまま、そこに立っていた。しかし。


——ずるり、と。体が、崩れた。


「——天廻?」


桃果を庇った天廻の右半身が、消えていた。

衝撃を受け止めたその腕も、肩も、胸の半分も——何もなかった。

残された左腕だけが、最後まで桃果を離さなかった。目は、開いたままだった。


「天廻……天廻ってば! 返事をして……!」


揺さぶっても、応えない。


「返事をしてよ……!」


声が、震えた。桃果は動けなかった。

足が地面に縫い付けられたように動かない。

泣くことも、叫ぶことも、うまくできなかった。

ただ目の前の光景が——燃える都の赤い光の中でくっきりと、

残酷なほど鮮明に見えていた。


(……どうして。どうして——)


黒い雲が、さらに厚みを増していく。

星は、もう一つも見えなかった。


誰もいない炎の中で。黒い霧の向こうで。

静かに——荒覇だけが、桃果だけを見ていた。


「鬼灯の娘」


声が、広場に響いた。

低く、深く、どこか遠くから来るような声だった。

それなのに、まるで耳の内側から聞こえてくるようで——

桃果は思わず身をすくめた。


「お前の所為で——仲間は死ぬ」


桃果が、荒覇を見た。


「お前が幽世に来たから。お前が力を使ったから。

お前の結び飯があの者たちを戦わせた」


一言ずつが、槍を投げつけるように桃果の胸に刺さった。

桃果の手が、震えた。


(違う……違う、そんなことは——)


「お前は——人間としての存在が、消えていく」


荒覇が、一歩近づいた。

石畳を踏む音もなく。ただ存在が、滲むように近づいてくる。


「記憶も。帰る場所も。お前が人間だった証拠が——全て、砂のように消える」

(やめて……)

「消えたくなければ——」


荒覇が、手を差し出した。

一瞬、辺りが無音になった。

炎の音も、瓦礫の崩れる音も、何もかもが——消えた。


「我の元へ来い」


その声だけが、静寂の中に残った。


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