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第3話 おにぎりの匂いは、異界の合図

大きな柴犬のようにも見えた。

桃果を庇うように前に立った背中が

異形を圧倒するような低い唸り声をあげている。


狗賓(くひん)……退ケ。私ノ獲物ダ』

「断るっ!」


桃果は声を失った。

目の前の大きな柴犬が喋ったのだ。

人懐っこそうな声とは、まるで違った。

低い。静かな……

でも底に刃のような冷たさがある声だった。

次の瞬間――大きな体が縮んでいく。

夜の空気に靡いた毛並みが消えてゆく。

骨が、戻っていく。


数秒後。

着物の様な和服姿と半ズボンの出で立ちに

犬耳がぴんと立ち――

目が金色に光っていた青年に姿を変えていたかと思えば、

金色の目が異形の空白の中心を一点だけ捉え

感情がなかった。

ただ——仕留めると、目が言っていた。


「断るっ!」


青年は異形に向かって駆け出していた。

懐から出した何かを持ち異形に向かって放ったのは

大きな火の放射だった。

異形が断末魔をあげて後退った。

夜の明かりを受け、橙色に——否、

青白く燃えるように光っていた。

路地の石畳がその光を受けて輪郭を取り戻す。

湿った苔の上の影がくっきりと伸びた。

空白の輪郭から形のない何かが

桃果に向かって伸びてくるが

青年がそれより速く放つ。


火ではなかった。それは放射だった。

青白い炎が路地を一瞬で満たし、壁に叩きつけ、

石畳を舐めて異形の輪郭の中心——

直撃し路地全体が一瞬だけ昼間より明るくなった。

桃果が思わず目を細める。


まぶたの裏まで青白い光が滲み込んでくる。

影が消え、石畳の継ぎ目が消え、路地の向こうの壁が消えた。

全てが——その一瞬だけ、青白い平面に変ってゆく。

異形が後退った。輪郭の端が溶けていた。

形を持とうとしていた空白が形を保てなくなっていた。

中身のないはずの輪郭が内側からぐにゃりと歪む。

まるで熱を受けた蝋細工のように形が崩れて崩れ——

輪郭が揺れ音もなく声もなく跡形もなく……

霧のように散った。


さっきまでそこにいた空白の気配が路地の空気に溶け、

残ったのは石畳の継ぎ目の黒い滲みだけだった。

それも数秒で、夜の石畳の色に吸い込まれるように

静かに——消えた。

路地に、桃果と犬耳の青年だけが残り

桃果の横で何かを懐にしまった。

乱れた着物の袖を一度だけ払う。

金色の目が異形がいた場所をひと呼吸だけ見——

桃果に向いたが、人懐っこそうな顔に

少しだけ心配の色が混じっていた。


「大丈夫ですか?……あれ?」


声が、心配を含んだ人懐っこそうな声に代わっていた。

でも桃果にはさっきの低い声が耳に残っていた。


(……今のは)


今のは、何だったのか。

路地に落ちてきた衝撃。

霧みたいに消えた異形。

空白の輪郭が伸ばしてきた手。

大きな白い犬……が変化した青年。

全部が、頭の中でぐるぐると回っていた。

重い空気が、まだ肺の奥に張り付いている。

視界の端が、また滲む。

高い塀に切り取られた、

多すぎる星々に輝く藍色の空が

不完全に笑っているように煌めいていた。


「ちょっと、顔色が――」


青年が手を伸ばしかけようとした直後、

桃果の意識が、ぷつりと――切れた。

どれくらいの時間が経ったのか、わからなかった。

ただ、遠くから声が聞こえていた。


「あれ?……この人、おにぎりの匂いがする」


* * *


気が付いた桃果が目を覚ますと……見知らぬ天井だった。

木の梁。

窓の外から聞こえる賑やかな声と、知らない匂い——

炭の煙、香木、何か甘い香り。


「……ここ、どこ」


跳ね起きると、部屋の隅に昨夜の青年が

壁にもたれて座っていた。

桃果の声に犬耳がぴんと立つ。


「あ、起きた。よかった、死んでたらどうしようかと思って」

「し、死にかけてたの!?」

「比喩ですよ比喩。現世から落ちてきた人間が五体満足なの、普通じゃないんで」

「そうなんだ……って、犬?耳?耳が頭に?????」

「うわああ落ち着いて!僕は(さく)。狗賓だ」

「いぬ……てんぐ?」


想像していたのとは風貌が違うが、

見るからにして天狗のようだった。

桃果の脳内で朔に付いていた

身体のポンポン=結袈裟(ゆいげさ)を見て

言葉が出た。


「そうとも言う。そしてここは幽世(かくりよ)の世界。ここは妖怪と人が共存する世界だ」

「え……幽世って……_?」


朔の答えに桃果が恐る恐る窓を開けると——

石畳の路地に提灯が連なり、

レンガ造りの洋館と神社の鳥居が隣り合っている。

路面電車が走り、その傍を天狗が羽を畳んで歩いている。

河童が商店の軒先で居眠りしている。


「うわぁ……すごい」

「現世の人間がここ見ると大体そう言う。で、次に泣くか叫ぶかするんですよ」

「え?……泣かないよ」

「強いですね」


桃果の目が路地の奥を見ている。

泣かない。でも唇をきゅっと噛んでいる。


(……こいつ、結構やるな)


朔は強がっている桃果を関心していた。


「ねぇ、この街、探索したい!」

「あの……俺、案内係じゃないんですけど……」

「じゃあなんで助けてくれたの?」

「美味しそうな……おにぎりの匂いがしたから」

「ふふふっ。正直だね」


笑みを向ける桃果に朔の耳がぺたんと伏せ、

渋々案内役を引き受ける事となった。


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