第2話 星降る異界、忘れ得ぬ名前
風も無いのに音だけが大きかった。
(気のせい……かな)
と首を傾げたものの、今だけは周りが気になってしまい
足早に帰る事にした。でも足が止まった。
ここに来た時と違う。苔の匂いがしない
虫の音が止んでいる、玉砂利の踏み心地が違う……
何より空気が——重い。
祠の周りだけ、温度が数度低い。
呼吸するたびに白い息が出る。真夏なのにおかしい。
(……なんか、変だ。真夏なのに息が白い……風邪ひいたかな)
桃果が思ったその瞬間。
空気が、裂けた。音というより感覚。
耳の奥が痛くなるような、世界の膜が破れるような音。
霧の中から人影が現れた。暗い霧が地面から湧き上がる。
背が高い。着物を纏っているが、裾が霧に溶けて形がない。
顔は整っている——美しいとさえ言える。
でも、目が笑っていない。
その存在が纏う気配は、空気を汚すような、
触れてはいけないような禍々しさだった。
「……見つけた」
低い声。
「鬼灯の娘。ずっと、探していた」
自分の名前を知っている……
どうして鬼灯の娘と知っているのか……
全身の毛が逆立つ。
(逃げなきゃ——)
でも足が動かない。霧が足元に絡みついている。
じわじわと冷たくなっていく。
「怖がらなくていい。ただ、おとなしくしていてくれれば——」
その瞬間。祠が光った。
突然の激しい白い光から声が聞こえて来たそれは
桃果に優しく温かく感じだ。
「——桃果」
声だけ。どこから聞こえるかわからない。
でも確かに、名前を呼んだ。
「目を閉じるな」
桃果は閉じかけた目を、力づくで開ける。その時——
轟音。祠から爆発するように光が溢れた。
白い奔流が低い声の主に叩きつける。
「この祠に、まだこんな力が——っ」
初めて表情を崩す声がそこから聞こえる——
押し流された声は霧ごと吹き飛んでいく。
しかし。
光の余波が参道を、鳥居を、
地面を揺らし桃果の足元の玉砂利にひびが走った。
空気がまた——裂ける音。
でも今度は違う。さっきより大きく深く……
世界そのものが軋むような音。
突然、桃果の足元の地面が——消えた。
「え?嘘っ!?」
落ちる。暗闇の中に、真っ逆さまに。
叫ぶ暇もないまま落下して遠ざかっていく祠の光の中で——
声が聞こえた。
「——桃果」
さっきより遠い。が、桃果にはハッキリと聞こえた。
「必ず、迎えに行く」
光が遠ざかる。祠が、神社が、現世が——遠くなっていく。
(——って、誰——)
名前を呼ばれた気がした。
でも知らない名前のはずなのに
なぜか胸に響いた暗闇の中で
桃果の意識が遠のいていこうとする。
その間に……ぽつり、ぽつり。と、
暗闇の向こうに橙色の光がいくつも見えてくる。
提灯、石畳、レンガの建物。それと漂う知らない匂い。
どさり。
石畳に落ちた衝撃で桃果の意識が戻る。
痛い。でも、生きている。
(……生きてる)
ゆっくりと顔を上げると――
そこは見たこともない街並みだった。
提灯が並ぶ路地もレトロな洋館と
遠くに見えた大きな鳥居が隣り合う
見たことのない街並みの眺めが綺麗だった。
でも空の色が、現世と違う。
深い藍色に……星が多すぎる。
住んでいた街ではありえない星数だった。
(……ここ、どこ)
立ち上がろうとしたが……膝が震えた。
(あれ……)
力が入らない。
足が、地面に縫い付けられているみたいに重かった。
息をするたびに、肺の奥が痛い。
水の中にいるような、空気の重さがまるで違う感覚。
(……おかしい。なんで、こんなに)
頭がぼんやりとしていた。
視界の端がじわじわと滲んでいる。
(気のせい……じゃ、ない。空気が、重い)
路地裏の壁や地面が桃果の呼吸に合わせて
じわじわと迫ってくるような圧迫感が
まるで桃果が先程まで見た景色と気圧がまるで違う。
身体がそれに耐えられる様子もなく、
落ちてきた衝撃と合わさって――
桃果の意識は、じわじわと縁から溶け始めていた。
(……どうしよう。起きなきゃ)
歯を食いしばる。立ち上がろうと地面に手をつく。その時。
空気が、変わった。
霧ではなかった。温度でもなかった。
ただ――何かが、いた。
路地裏の奥、石畳の継ぎ目が黒く滲んでいた。
ガス灯の光が届かない路地の奥から
暗い路地の石畳を「黒く滲」ませながら、
ゆっくりと溶けるように形のないものが湧き上がってくる。
人ではないが獣でもない。
強いて言うなら――空白だった。
空白が、形を持とうとしているような。
輪郭だけがあって、中身が何もない。それなのに。
こちらを、見ていた。
『……ニンゲン』
声ではなかった。でも確かに、桃果の頭の中に響く。
『珍しイ。コんナ場所に、違ウ匂いノする人間ガ』
異形が這いつくばって桃果に近づいてくる気配だけが、
じわじわと重くなっていく。
(どうしようどうしようどうしよう!逃げなきゃ!)
でも足が動かない。
気圧の様なものの差で朦朧としている頭が
全然言うことを聞かない。
(立って。立たなきゃ!立ってよ……っ!)
気持ちが身体に着いていかないまま立てなかった。
異形が、また一歩、近づいた。
桃果の目の前に空白の輪郭が迫る。
手のようなものが、伸びてくる。
(ええい立てっ!桃果っ!!)
踏ん張って、重い体に鞭を打つかの様に桃果は走り出した。
身体が重い……でもそれを言ってる暇がない。
桃果は自分の気力を出来る限り奮い立たせ走る。
後ろには異形の何かが桃果を追って来ていた。
(走って!走って!走って!走って……っ!)
目の前に大きな広場が見えた。
何処に逃げようか迷う間にも、
追いつかれる距離が縮まって行く。
姿が見えなくなって安心した刹那――
目の前の路地裏から這い出るように異形のそれは現れ、
隙間を咄嗟に滑り込んで搔い潜り桃果は走った!
考えるより先に体が動いていた。
重い。肺が軋む。それでも足を動かす。
石畳を蹴る。ガス灯が流れていく。
振り返らない。振り返ったら止まる気がした。
背後で、何かが石畳を引き摺る音がした。
いや、音ではない。気配だ。
じわじわと、重くなっていく気配。
距離が縮まっている。縮まっているのに、音がしない。
(走って!走って!走って!)
体が、反射的に横の細道へ飛び込む。
肩が壁に当たる。痛い。構わず走る。
曲がる。また曲がる。路地が細くなっていく。
石畳が途切れて土になる。
提灯の明かりが遠くなっていく。
(どこ——どこに逃げれば)
足が、もつれた。膝が石畳を打つ。
手をついて、立ち上がろうとして——立てない。
膝が笑っている。肺が、もう限界だと言っている。
息を吸うたびに、肺の奥が焼けるように痛い。
後ろで、音がした。
石畳の継ぎ目がひとつひとつ、黒く染まっていく音。
滲んでいく音。じわ、じわ、と——
桃果の足元へ向かって、確実に、近づいてくる。
(立って。立たなきゃ!)
腕に力を込める。膝を立てる。
震えている。全身が震えている。
怖いからではない——いや、怖い。怖いけれど、
それより先に、身体が限界を言っている。
(立ってよ……っ!)
よろめきながらまた走る。壁を手で触りながら走る。
路地が曲がっている。また曲がっている。
どこまで行っても曲がっている。
——壁だった。正面に、古いレンガの壁。
右も、壁。左も、壁。三方を石とレンガに塞がれた。
行き止まりの路地。
(……嘘)
振り返った。
来た道の暗がりに、黒い滲みが——ゆっくりと、広がっていた。
急いでいない。慌てていない。
ただ——確実に、満ちてくるように。
路地の端から端まで、石畳の色が変わっていく。
輪郭が、現れた。空白の輪郭が。
手のようなものが、また——伸びてきた。
『逃ゲラれナイ』
頭の中に、響いた。
『ここニは、出口ガ——ない』
桃果の背中が、壁に当たった。もう、下がれない。
肺が痛い。膝が震えている。
手のひらが、冷たいレンガに押し当てられている。
その冷たさだけが、妙にはっきりと感じられた。
(……嫌だ)
空白の輪郭が——一歩、迫った。視界が滲んでゆく。
触れる、と思ったその刹那。塀の上から影が飛び、
その影に桃果は背中を引っ張られるや宙に浮いた。
壁を反射的に伝い、
音もなく異形を飛び越え影は降り立った。
着地と同時に路地の石畳が軽く揺れる。
空中に飛ばされた桃果を運んだのは一匹の犬だった。




