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第1話 消えた場所だけが、温かかった

祠の奥、暗がりの中で——何かが動いた。


細い指が、供えられたおにぎりに伸びていく。

触れるだけで、おにぎりが——消えた。跡形もなく。

丁寧に敷かれたアルミの上には、何も残らない。


只——消えた場所だけが、ほんの少し、温かかった。

苔の古びた石肌に、指先ほどの光が滲んで——

すぐに消えた。

気づく者は、誰もいない。

祠の奥で、気配が静かに息をついた。


……また来た。


長い沈黙。


……明日も、来るのだろう。


おにぎりを持って来た者に祠は

頷くような気配を残した。

賽銭箱の古木が朝露できしむ音だけが残る。

祠はまた静かになった。


* * *


朝5時前。まだ薄暗い厨房に明かりが灯る。

大きな業務用の台所には炊き立ての湯気の香りが

辺り一面に広がっていた。

台所の中心に乗せた大きな飯台の横では、

鬼灯 桃果(ほおずき とうか)が慣れた手つきで

一個ずつおにぎりを握っていた。


両親はまだ眠っている時間。

毎朝、店の仕込みを手伝うのが桃果の日課だ。

今握っているおにぎりは

桃果がお昼に学校で食べる用で

言わば毎日の練習用だ。


(おにぎりを握るのは、難しくない。

米を炊いて、具を選んで、塩をつけて、形を作る。

誰でもできる。)


塩をつける時、桃果はいつも一拍だけ止まる。

なぜそうするのか、自分でも説明できない。

お婆ちゃんもそうしていた。

お母さんもそうしていた。

止まって、それから両手に馴染ませる。

塩は清める。それは知っている。

でも鬼灯家の塩の使い方は、少し違う。


清めるためではなく——境を引くために使う。

この手が何かを「渡す」ための手になるように。

内側と外側を、この掌の上だけで繋げるように。

桃果にはそんな言葉では説明できない。


ただ——止まらないと、なんか違う気がする。


(でも——一度だけ、婆ちゃんが言った。

心を込めないと、ただの塩を塗した米の塊になるって!)


桃果はその時、笑わなかった。


(婆ちゃんの握るおにぎりは、冷めても美味しかった。

死ぬ三日前に握ってくれた最後の一個も、

ずっと温かい気がした。

あれが塩を塗した米の塊じゃなかったのは、

桃果には分かった。

だから——分かってしまったから、

私は今も握り続ける!)


手が、止まらない。

毎朝握る。毎日握る。具を変えて、

塩加減を変えて、力加減を変えて——


それでもまだ、婆ちゃんのあの一個に、

追いつけない気がする。

追いつけないまま、また一個握る。


(いつか、分かる日が来る。そう思って、

今日も握る!)


「かたちヨシ!大きさヨシ!数は……

うーん、あともう一個つくっちゃお♪」


真剣に指さし点検して、

また飯台のご飯に手を伸ばす。

芯のそろったご飯がまた一つ、

桃果特製のおにぎりに姿を変える。

食べるのはお昼時なのに

もう食べたそうな顔をしていたが、

今日の仕込みはまだまだある。


桃果は気を切り替えて背伸びをし、

右手を腰に左手の拳を突き上げる。

桃果の仕込み切り替えの日課ポーズだ。


「販売用のお弁当のご飯もヨシ……っと!

次は出来立ておにぎり用のお米を炊かなくっちゃ♪」


外から聞こえてくる鳥の鳴き声が増えていく。

桃果は鼻歌を歌いながら業務用のお米の袋を抱え、

準備を始めた。

業務用の大きな内釜に流れるお米の音で、

今日も桃果の朝が始まっていく。


「行ってきまーす!」


仕込みの準備も終わり、

朝食のおにぎり定食も早々に食べ終えるや

自転車で学校に向かう。

通学途中にある神社の本殿を通り過ぎ、

脇道を少し入った所で桃果は止まった。


木々に囲まれた小さな空間に古びた祠がある。

石で作られたそれは

全体に古苔がびっしり付いており、

賽銭箱は木が腐りかけていて

誰かがガムテープで補強した跡がある。

鳥居は小さく、注意しないと気づかない。

それでも桃果は当然のように鳥居をくぐる。


「おはようございます」


返事はない。いつもの事だった。

桃果は祠の前でしゃがみ、

学校の鞄を膝に置いて手を合わせる。


「今日のおにぎり持って来ました。

食べられないのはわかってるけど、お供えです」


丁寧に敷いたアルミの上に、おにぎりをそっと置く。


「今日は梅おかかのおにぎりです」


毎日来てはおにぎりを供えるのは桃果の日課だった。


「……ほんとはさ、食べてくれてたら嬉しいんだけどな」


独り言のように、でも確かに祠に向かって言うと、

少し間を置いて手を合わせる。


「いつも聞いてくれてありがとう。また夕方ね」


笑顔で祠を見てから立ち上がり、鞄を持ち直す。

振り返らずに歩き出す桃果の背中が、

木々の向こうに消えていく。

静寂。供えられた梅おかかのおにぎりから、

ほんのりと湯気が立っている。

まるでまだ温かいように。

祠の奥、暗がりの中で——かすかに、気配が動く。


……毎日来る。


参道に桃果の足音が遠ざかっていく。


……飽きない人間だ。


木の葉が一枚、風もないのにはらりと落ちた。

暗がりから細い指が、おにぎりへと伸びていく。

触れるだけで——消えた。

今日も、跡形もなく。


ただ——消えた場所だけが、また少し温かかった。


苔の石肌に滲んだ光が、昨日よりほんのわずか——

長く残った。


* * *


お昼ごろ。桃果は窓際の席。

昼食休みの曲が流れ

桃果が鞄からタッパーを取りだすや

友達だろうかクラスメイトの明るい声が

桃果の席にすかさず寄ってくる。


「おにちゃん!今日のおにぎり何入ってんの~?」


おにちゃん=桃果のあだ名である。

小さいころから名前からなのか

お店がおにぎり屋さんだからなのか

定かではないが桃果のあだ名は、

「おにぎり」か「おにちゃん」が多い。


「梅と鮭。あとお試しで昆布マヨも作ってきた」

「昆布マヨ!?それ絶対うまいやつじゃん!」

「食べる?」

「いいの!?」


桃果が当然のように差し出すと

一口食べて目を見開く。


「……なにこれ、なんでこんな美味しいの。

おにぎりってこんな味するんだ」

「するよ。毎日食べてるもん」

「それが普通じゃないんだよ!何ていうかな~

コンビニのやつじゃ絶対出せない味!」


その声を聴いてか知らずか

いつの間にかもう一人隣に来ている。


「おーにぎりっ!良いな~俺にも一個」

「え、いいよ!はいどうぞ♪」

「鮭もらい。……うわっ」


一口かじって、男子が動きを止めた。


「……なんか、口の中で塩がすっと溶けてく。

鮭の脂がお米に染みてて——甘い?

……って!なんで甘いんだよ、塩入ってんのに。

やべえ、なんか手が止まらな!」


気づいたら周りに人が集まっている。いつもの光景。


「毎日おにぎりだけで飽きないの?よく飽きないよね」

「飽きないよ?具変えれば全然違うし。

昨日は明太マヨで一昨日は肉味噌……」

「いや待ってあんたん家、何種類あんの」

「うーん実家のメニューだと三十種類くらい?」

「「多!!」」


桃果がけろっとしているのがおかしくて

クラスが笑いに包まれる。


* * *


お昼も過ぎて夕方四時。

学校帰りの桃果が神社の参道を歩いている。

神社の本殿を通り過ぎ、脇道を少し入った所。

木々に囲まれた小さな空間の朝に来ていた古びた祠。

桃果は当然のように鳥居をくぐる。


「ただいまー」


返事はない。いつものことだ。

桃果は朝の様に祠の前にしゃがんで、

学校鞄を膝に置く。


「今日ね、五限の古文でやらかした。

先生の話が眠すぎて半分寝てたら当てられて——

しかも答えが合ってたから余計恥ずかしくて」


祠は黙っている。


「あ、そう言えば友達が昆布マヨ気に入ってくれた。

明日も持ってきてって言われた。喜んでもらえると嬉しいよね、やっぱり」


祠は黙っている。しかし祠の奥、暗がりの中で——

また微かに、気配が動いたのを

桃果は気づいて居なかった。


……他愛もない話を、毎日。 居眠りのこと。

おにぎりのこと。誰かが喜んでくれたこと。


ただそれだけのことを、こんなにも嬉しそうに話す。


……だから、好きなのだろうな。


ひとしきり話し終えて独り言のように、

でも確かに祠に向かって言うと少し間を置いて、

桃果は手を合わせる。


「いつも聞いてくれてありがとう。また明日ね」


立ち上がって鞄を持ち直し、

振り返らずに歩き出す桃果が帰ろうとすると、

境内の木々がざわめいた。

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