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第24話 星月夜の結び音

深夜。眠れない夜だった。

桃果は店の二階の窓を開けて、夜風に当たっていた。

幽世の夜は静かだ。でも完全に無音ではない。

提灯の火が揺れる音。遠くで誰かが歩く気配。

夜行性の妖怪たちの、遠い声。


その中に——あの三味線の音が混じっていた。

この前明太子おにぎりを渡した付喪神の音色。


(あっ……この間の)


桃果はすぐ分かったが、

今耳にした音は前に聞いた気ままな音とは、少し違った。

何かを——探すような音だった。

桃果は上着を羽織って窓から出た。

音を辿ると、いつもの場所だった。

店の屋根。月明かりの中に付喪神の影。

三味線を膝に抱えて、空を見上げながら弾いている。


やはり今夜の音は違う。

あの時聞いた自由な音じゃない。

例えるならどこか——遠くへ行こうとして、届かないような音だった。

桃果は反対側の屋根に座り音に背を預け黙って聞いていた。

しばらくして、音が止む。


「……聞いてたのか」 


付喪神が屋根の上から言った。振り向いていない。


「うん。ごめん邪魔だった?」

「別に……眠れないのか」

「なんとなく外の空気吸いたくて。貴方は?」

「俺はいつもこうだ」


桃果が空を見上げた。星が多い。

幽世の夜はいつも星が多い。


「さっきの音、いつもと違ったから」


付喪神が少し黙った。


「そうか」

「なんか、遠くを見てる音だった。もしかして……現世のこと考えてた?」


そう桃果に言われた付喪神は三味線の弦を、そっと指で押さえる。


「……現世か。懐かしいな」


独り言のように言った。


「まぁ、この三味線が作られたのは、現世だ」

「私と同じ……?」

「ああ。現世で生まれて、幽世に流れてきた。俺もそれと一緒だ」

「三味線と一緒に来たの?」

「正確には——この三味線が俺を作った」


付喪神が弦を一音、鳴らした。


「付喪神は、物に魂が宿って生まれる。

百年、二百年——長い時間をかけて。俺はこの三味線に宿った」


桃果は黙って聞いていた。


「最初は、弾く者がいた。上手い奏者で、毎日弾いてくれた。

俺はその音の中で生まれた」


付喪神の声が、少し遠くなった気がした。


「でも奏者は死んだ。次の持ち主は俺を飾るだけで弾かなかった。

その次も。やがて誰も弾かなくなって——三味線は蔵に仕舞われた」

「その時、どうだったの」

「……静かだった」

「静かって」

「音がなかった。俺を生かしていた音が、消えた」


弦をまた一音、鳴らす。


「付喪神は物が使われなくなると薄くなる。消えていく。

俺も、そうなるかと思っていた……でも消えなかった。

蔵の隙間から、外の音が聞こえてきた。風の音。雨の音。遠くの祭囃子。

誰かの笑い声」


三味線を、そっと抱え直した。


「俺は——それだけで、まだここにいられた」


桃果が空を見上げた。


(音だけで、生きてきたんだ。誰かに弾いてもらえなくても、音を聞いていたから)

「貴方が最初に弾いてくれた奏者のこと、好きだった?」

「……覚えてる限りでは、一番上手かった」

「そうじゃなくて」

「……ああ。好きだったかもな」


付喪神が目を閉じ、静かに言った。

「毎日弾いてくれた。上手いとか下手とか関係なく——

ただ、弾きたいから弾いてる、そんな人間だった」


夜風が吹いた。提灯の火が揺れ付喪神がまた三味線を弾き始めた。

さっきとは違う音だった。柔らかい。重くない。

ただ——夜に溶けていくような音。

桃果は目を閉じて聞いていたが、しばらくして付喪神が言った。


「……なぁ」

「うん?」

「現世に帰りたいか?」


桃果が目を開けた。空を見上げたまま、少し考えた。


「帰りたい。でも——」

「でも?」

「ここにいる人たちのことも、好きになっちゃったから。どうしようかな?なんて」


付喪神が弦を押さえ音が、止まった。


「困るな、そういうことを言われると」

「なんで」

「そんな人間は……引き留めたくなる」


桃果が付喪神を見上げたが付喪神は空を向いたままだった。


「数百年、ここにいた。いろんな奴が来て、去っていった。

人間は特に短い。あっという間に消える」


弦を、一音だけ鳴らした。


「お前もそうだ。帰れば、俺たちとは会えなくなる」

「……うん」

「それでも帰るか」


桃果が少し黙った。

「帰る。でも——忘れない」


付喪神が桃果を見た。


「忘れないって言える根拠は」

「ない。でも忘れたくないって気持ちは本物だから」

(忘れたくない、か。俺も——そう思われたことが、あっただろうか)


弦を、ゆっくりと弾いた。音が夜に溶けていく。

桃果はゆっくりと移動して蔵の前に降りてゆくと……

暫くして付喪神の前に立った。


「あのっ、おにぎり食べますか?」

「こんな時間にか」

「握ってきたんだ。明太子」


 鞄から、笹の葉に包まれたおにぎりを取り出した。

付喪神が屋根の上から、ひらりと降りてきた。

着地の音がしなかった。受け取るや一口かじるや動きが止まる。


「……なんで明太子なんだ、また美味しいからいいが」

「結び飯って縁を結ぶって意味があるんだよ」


 付喪神が桃果を見た。


(縁を結ぶ——か。お前は毎回、そういうことをさらっと言う)

「……お前みたいな人間、はじめてだ」

「そう?」

「音に引き寄せられてくる人間も。夜中に明太子おにぎりを持ってくる人間も。

数百年、一人もいなかった」


桃果が笑った。


「それは光栄だね」


付喪神がまた一口、おにぎりを食べた。

明太子の辛さの味が、口の中に広がる。


(帰っても、忘れないと言った)

(そういう縁なら——悪くない)


二人で並んで、夜空を見上げしばらくして……

付喪神が三味線を抱え直し弾き始めた。今夜三度目の音。

しかし今度は——迷いがなかった。遠くへ行こうとする音じゃない。

ただ、今ここにある音。

桃果が目を閉じてその音色を聞いていた。


(この音、好きだな……現世に帰っても、きっとどこかで聞こえる気がする)


夜風が吹いた。付喪神の三味線の音が、幽世の夜に溶けていった。


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