第23話 届かない手と消えない熱
皆がほおず喜に集結して一週間後の夕方。
桃果は一人だった。
朔は鎮守庁に呼ばれていた。雪哉も同じく書類仕事。
茨は巡回。狛は廃区域の掃討。
天廻は——どこかで、静かにしている。
桃果は店の買い出しの帰り道だった。
いつもの路地を曲がったところで、桃果の足が止まった。
(……あれ)
石畳の色が、違った。
いつもは温かみのある灰色なのに、
今日はひとつの場所だけ——青みがかっていた。
まるで、熱が抜けたように。空気の温度が、その一点だけ低い。
桃果は周囲を見渡した。
人も妖怪も、いない。屋台の煙が遠くに見える。
提灯の明かりが届いていない。
石畳の先、路地が途切れる手前。
黒い霧が、薄く——漂っていた。
(荒覇の、気配……なのかな?)
分かった瞬間、背筋が冷え鞄の中に手を入れた。
今朝握ってきた分が、まだ一個残っている。
昆布のおにぎり。縁起がいいかなと思って作ったやつだ。
(そうなら……届けてみよう)
根拠も確信も皆無だった。
作戦も、許可も、仲間もいない。
ただ——目の前に荒覇の気配があって、手の中におにぎりがある。
桃果は荷物を路地の端に置いて、おにぎりだけを手に持った。
霧に向かって一歩踏み出したが、霧は思ったより濃くなかった。
ただ重かった。空気が一枚余計に重なっているような感覚。
呼吸するたびに、肺の奥がじわりと冷える。
それでも桃果は歩いた。
五歩。
十歩。
霧の中心に近づくにつれて、温度が下がっていく。
息が白くなった。真昼間なのに、おかしかった。
「誰か……居ますか?」
桃果が言った声が、霧に吸い込まれた。
反響しないどこにも届かない感じがした。
でも——霧が動いた。波紋のように。
中心から外へ向かって、ゆっくりと広がっていく。
何かが、そこにいた。姿はない。輪郭もない。
ただ——気配だけが、確かにあった。
向こうの気配はもしかして荒覇なのか……と、桃果は思ったが
確信が無いままおにぎりを両手で持って、前に差し出した。
「受け取ってもらえませんか!」
霧が、止まった。桃果の手の中のおにぎりが——ほんのりと光り始めた。
いつもの白い光。でもいつもより、頼りなかった。
炎ではなく、蠟燭の火に似た——消えそうな光だった。
霧が、動いた。でも——近づいて来ずに引いた。
桃果から遠ざかるように。まるで熱いものを避ける様な光が苦手な様な。
「いらん」
声だけが、霧の中から聞こえた。低く重かった。
でも——怒鳴っていなかった。
ただ事実を言うようにそれだけを言った。
(茨の時とは——違う)
茨は「いらない」と言いながら手が動いた。
拒絶しながら迷って目が揺れていた。
あの夜の茨の手は受け取りたいのに受け取れない。そういう手だった。
でもこの霧は——最初から、手を伸ばさなかった。
受け取るという動作が、存在していなかった。
いらないではなく——そもそも、もらうという選択肢が、
この存在の中にないみたいだった。
桃果の手の中のおにぎりが光っていた。
でも光は——霧の中に、溶けていかなかった。
弾かれているわけでもない。ただ、届いていなかった。
光が向こうに渡っていかなかった。
壁があるわけじゃない。でも——距離が、埋まらない。
(届いていない)
桃果はしばらく、そのまま立っていた。
おにぎりを差し出したまま。霧を見たまま。
霧は動かなかった。荒覇の気配は、そこにあった。
確かにあった。でも——それ以上、何も起きなかった。
どのくらいの時間が経ったのか、分からなかった。
やがて桃果は、おにぎりを胸に引き戻した。
笹の葉が、少し冷たくなっていた。
路地を歩きながら、桃果は自分の手を見た。
おにぎりの光が、少しずつ消えていく。
握った時の温もりが、薄くなっていく。
渡せなかったおにぎりは、渡し先を失って——
ただの米と塩に、戻っていく気がした。
(……届かなかった)
足音が石畳に響く。提灯の明かりが戻ってきた。
遠くから妖怪たちの声が聞こえてくる。幽世のいつもの夕方。
でも桃果にはそれが少し遠かった。
「——おにちゃん!!」
声が飛んできた。朔だった。路地の角から犬耳をぴんと立てて走ってきた。
顔に安堵と怒りが半分ずつ乗っていた。
「どこ行ってたんだよ!?買い出しが長いからどうしたかと思って——って、
顔色が悪いよ?何かあったの?」
桃果は少し遅れて、朔を見た。
「……ちょっと、寄り道した」
「寄り道って——何処に?」
朔の耳がぴくりと動いた。
何かを感じ取ったのかもしれない。桃果は少し間を置いてから言った。
「都の外れ。荒覇の気配がしたから」
朔の顔が、固まった。
「……一人で行ったのか?」
「うん」
「なんで言わないんだ!!俺を呼べばよかったじゃないか!!」
「朔くんいなかったし」
「いなかったら待てばいいのに!あぶないよ!」
叱責の声が路地に響いた。
いつもなら桃果は「ごめんごめん」と笑って収める。
でも今日は、うまく笑えなかった。
朔が、声のトーンを下げた。
「……何があったの?」
桃果が、手の中のおにぎりを見たが光はもう消えていた。
「届かなかった」
ぽつりと言った。朔が何か言おうとした。桃果が続けた。
「茨の時は——手が動いた。受け取らないって言いながら手が動いてた。
狛ちゃんも。みんな、受け取ろうとする何かが——あった」
桃果は石畳を見た。
「でも今回は——最初から、なかった」
路地の端で、風はないのに提灯がひとつ揺れた。
「受け取る気がない人に、届けられるのかな」
朔が、すぐには答えられなかった。
しばらく——沈黙して耳が少し伏せてしまった。
「……それは」
「分からなくていい。答えなくていい」
桃果が顔を上げて笑おうとした。少しだけできた。
「ただ、届かなかったって話。聞いてほしかっただけ」
朔が何か言いたそうな桃果を見た。
でも言葉が見つからないような顔をしていた。
「……帰ろう」
「うん」
朔がいつもより少しだけ桃果の近くを歩いた。
足音が二つ石畳に重なった。
桃果は手の中のおにぎりを鞄の中に戻す。
渡せなかったおにぎり。光の消えた、ただの昆布おにぎり。
(受け取る気がない人に、届けられるのか)
自分で言った問いが、胸の中に残っていた。答えは出なかった。
ただ——鞄の中のおにぎりが、まだ少しだけ温かかった。
温もりだけは、まだそこにあった。
それが今は、少しだけ——悔しかった。
その夜、店の棚の隅に桃果は渡せなかったおにぎりを、
いつものお供えの場所にそっと置いた。
(届けられなかったけど——まだ、温かいから)
誰に言うでもなく、思った。
(次は、届ける)
根拠は、やっぱり、なかった。
でも——やめる気にも、なれなかった。




