第21話 朽ちた米粒、残った絆
しかし、陰摩羅鬼はまだ立っていた。
片翼は砕けても——残った翼から、腐食の霧が再び広がり始めた。
その間にも茨が前に出ようとしたが顔に苦痛を浮かべ……
足が——止まった。
さっきの一撃で全力を使い果たしていた。
結び飯の光も消えている。
(まずい——もう、力が)
焦る茨の横で雪哉と狛が再び印鑑を構えた。
「法令第三条——」
「風刃封印、第一式——」
二つの印が重なった。しかし陰摩羅鬼が翼を振った。
腐食が印に走る。雪哉が踏み込んだと拍子に向かい印鑑を突く——が、
翼で弾かれ雪哉が吹き飛んだ。
「雪哉さん!」
桃果の悲鳴が響く。雪哉が壁に背中を打ちつけながらも立ち上がった。
「……まだだ!」
狛が飛び込み風刃が走る。
陰摩羅鬼の翼を掠め黒い羽が数枚、散った。
陰摩羅鬼が狛に肉薄し翼が掠めた衝撃で——着物の合わせが崩れ、
破れ狛は後ろに跳躍して後退した。
「くっ……!」
一瞬——誰にも気づかれないような一瞬を桃果だけが、見た。
(……えっ?)
狛の体の線が、着物の乱れた隙間から——サラシのそれが見えた。
狛は着物が破れたのに気づいたのか、
舌打ちをして羽織りものを後ろ向きにした。
(……そっか)
桃果は何も言わなかった。狛の様子は朔も雪哉も気づいていない。
戦闘中だった。
桃果はただ、心の中にそっとしまった。
朔・雪哉・狛の三人がかりでようやく動きを封じているが、
陰摩羅鬼を追い詰めるには至らない。
「鬼灯桃果。大人しく来い。荒覇様はお前を生かしておくつもりだ」
「……嫌だ!」
「残念ながらお前に選択肢はない」
陰摩羅鬼が翼を広げるや、桃果の足元に黒い腐食が走る。
桃果の鞄が——腐食に触れ笹の葉が黒く染まり……朽ちていく。
「——っ!」
桃果が鞄からおにぎりを取り出したが間に合わなかった。
今朝握ったおにぎりが、黒く腐って、地面に落ち土に還っていく。
その光景を見た全員の声が失って行き、広場が静まり返った。
桃果は、地面に落ちたおにぎりを見ていた。
朔が桃果を見た。雪哉が桃果を見た。狛が桃果を見た。
(まずい)
三人が同時に思った。
「……ねえ、おにぎりを腐らせたね」
桃果が静かな声で口を開き陰摩羅鬼が桃果を見た。
「そうだ。お前のものは全て——」
「誰かに食べてほしくて、心込めて握ったんだ」
桃果が顔を上げた。
怒っていた。叫んでいない。震えていない。
静かに、でも確かに——怒っていた。
「食べ物を粗末にするなぁぁあぁあ!」
陰摩羅鬼が、一瞬——止まった。
この人間が怖いわけではない。でも、その目が——
「……感傷的な人間だ。米と塩と具が混ざったものに、何の価値がある」
「価値がわからないなら帰って!」
「……帰れ、だと?」
「あなたに渡すおにぎりはない。腐らせる人間に握る気になれない」
朔が口を半開きにしていた。
雪哉が目を細めていた。狛が——桃果の後ろで、口元を押さえていた。
(この人間は……本当に、馬鹿だ)
でも……そう、陰摩羅鬼が翼を畳んだ。
「……面白い人間だ」
初めて、感情らしきものが声に滲んだ。
「次は容赦しない」
黒い翼が広がる。上昇すると音もなく空に消え、広場に静寂が戻った。
朔が盛大に息を吐いた。
「……いや、強すぎるだろあいつ」
「数人がかりで封じるのが精一杯だった」
壁から離れ着物を整えながら雪哉が言った。
「次は茨も——全員で当たる必要がある」
「でもどうして狛は羽織りを後ろ向きで着ているんだ?」
朔が不思議そうに狛に問うた。
「……服が乱れただけだ。戦闘中でも納得がいかないからな」
狛が腕を組んで言う中、桃果は地面の黒く朽ち
残骸と化していたおにぎりを見ていた。
「……ごめんね」
小さく、言った。誰に言ったのかわからなかった。
でも——おにぎりに言ったのかもしれなかった。
桃果が茨に駆け寄った。
「茨、大丈夫?!」
「……大丈夫だ」
茨が桃果を見た。光は消えていた。でも——体が、軽い。
「旨かった」
桃果が目を丸くした。
「え?」
「梅だろ。あれ」
「……うん、梅」
「旨かった」
茨がそれだけ言って、広場の後片付けを始め朔が桃果の隣に来た。
「……旨かったって、それだけですか」
「茨らしいじゃん」
「まあ——ありがとうって言えない茨なりの、ありがとうですよね」
苦笑している朔の横では茨が振り返らなかったが——
耳の先が、少し赤かった気がした。
「おにちゃん」
朔が桃果の隣に並んだ。
「うん?」
「さっきのは——ちょっと怖かったな、俺」
「陰摩羅鬼が?」
「違う違う、おにちゃんがだよ」
桃果が朔を見た。朔が苦笑していた。
「あんな化け物に『帰れ』って言える人間、他にいないよ」
桃果が少し笑った。
「だって、おにぎり腐らされたんだもん。食べてもらうつもりで握ったのに……」
「それだけの理由?」
「一番大事なことでしょ」
朔が笑っていた。雪哉が小さく息をついた。
狛が口元をわずかに動かした。
帰り道。桃果が狛の隣を歩きながら、ふと言った。
「狛ちゃん」
「なんだ」
「さっきね、えーっと……その、ね」
しどろもどろになっている桃果に気づいて、狛の動きが止まった。
「……見たのか、俺の」
「……うん、みた」
狛が前を向いたまま、動かない。
「でも誰にも言わない。狛ちゃんが話したい時に話してくれればいい」
狛がゆっくりと桃果を見たが、桃果は真っ直ぐ前を向いて歩いていた。
(……この人間は)
狛は何も言わなかった。
でも——歩く速度が、桃果に合わせて、少し遅くなった。




