第20話 結び飯、光の連鎖
それは、突然だった。
昼間の広場。人と妖怪が行き交う賑やかな場所の空が暗くなった。
雲ではない黒い翼だった。広場の上空から、音もなく降りてくる存在に
誰かが悲鳴を上げた。人と妖怪が逃げ惑う。
(翼——?)
桃果は空を見上げた。黒い翼を広げた存在が広場の中央に降り立った。
黒い着物と青白い肌。風もないのに揺れる裾。
そして——顔。
(天使……?)
桃果は思った。整いすぎた顔立ち。
美しいという言葉しか出てこない。
でも——目が合った。
しかし眼が一面黒く塗りたくられた目を見て、
桃果の背筋が凍った。
「鬼灯 桃果」
名前を呼んだ。まるで物の名前を呼ぶように。
「来てもらおうか」
広場の石畳が、黒く染まっていく。
陰摩羅鬼が一歩踏み出すたびに、足元の石が朽ちていく。
桃果が後退った。
その瞬間——
「陰摩羅鬼、桃果には手を出させねぇ!」
現れた妖怪=陰摩羅鬼の横から、黒い影が飛び込んできた。茨だった。
着流しの袖を捲り、赤い紋様が腕から肩まで浮かび上がっている。
角が、光を受けて鈍く輝いていた。
拳が、陰摩羅鬼の顔面に叩き込まれ——よろめいた。
黒い翼が大きく広がってバランスを取る。
広場の石畳に亀裂が走った。茨が着地し陰摩羅鬼を睨む。
「……鬼か」
陰摩羅鬼が口元を拭いながら言った。
声は平坦だった。でも——目が、わずかに細くなっていた。
「荒覇様の元にいた茨だな」
「元、な。今は違う」
茨が低く答えた。
「鬼灯のおにぎりを食って、目が覚めた。荒覇の命令なんぞ、もう関係ない」
陰摩羅鬼が、静かに言った。
「この荒覇様の裏切り者が」
声に、初めて感情が滲んだ。
冷たい、軽蔑の色だった。
「結び飯一つで寝返るとは——鬼の誇りはどこに行った」
「うるせぇ!」
鬼の膂力で繰り出す拳が、連続して陰摩羅鬼に叩き込まれる。
一発。
二発。
三発。
陰摩羅鬼が翼で受け止めながら後退る。
(力は——強い)
陰摩羅鬼が内心認めた。
(流石、荒覇様の元にいただけはある)
「ぬぅっ——!」
茨が渾身の右拳を叩き込んだ瞬間、
陰摩羅鬼が吹き飛び広場の壁に激突する。
桃果は息を呑んだ。
「茨——!」
朔が目を見開いていた。
(あの鬼、本当に強い——)
しかし壁から陰摩羅鬼がゆっくりと立ち上がった。
着物に傷はない。翼が、ゆっくりと広がっていく。
「……良い拳だ」
陰摩羅鬼の口元が、わずかに歪んだ。
「だが——」
翼が黒く輝いた。腐食の波が広場全体に広がり、
石畳が次々と朽ち建物の壁が黒く染まっていく。
「力だけでは、私には届かない」
茨が足元の石畳が朽ちる中で踏みとどまった。
腐食が足元から這い上がってくる。
着流しの裾が、黒く染まり始めた。
(くっ——腐食が、体に——)
「茨!」
桃果が叫んだ。
「うるせぇ、下がってろ!」
茨が怒鳴った。でも膝が、わずかに揺れていた。
腐食が膝まで這い上がっている。
(まずい——でも。桃果に指一本触れさせるか!)
茨が歯を食いしばった。
腐食の中から陰摩羅鬼に向かってもう一度踏み込んだ。
腐食に蝕まれながら、それでも止まらない。
しかし陰摩羅鬼が翼を振った。
黒い風が走り、茨の体が吹き飛んだかと思えば地面に叩きつけられる。
石畳に大きな音が響いた。
「茨——!!」
桃果が駆け寄ろうとした。
「来るな!」
茨が地面から怒鳴った。体を起こそうとするが動かない。
腕が震えている間にも、腐食が胸元まで広がっていた。
「まだ——」
立ち上がろうとしたが、膝が折れた。
(くそっ——まだだ!まだ、倒れるわけには……)
「……潔く倒れろ」
陰摩羅鬼が上から見下ろした。
「裏切り者に、それ以上の価値はない」
茨が陰摩羅鬼を睨んだ。目が、まだ死んでいない。
「……価値は、俺が決める!」
掠れた声で言った。
「お前に言われる筋合いはない……」
陰摩羅鬼が翼を上げ、とどめを刺そうとした——その刹那。
「茨っ!受け取って!」
桃果の声が広場に響き陰摩羅鬼が振り返るや
桃果が——台所から走り出てきた。
両手におにぎり。笹の葉に包まれたまま。白く光っている。
「おにちゃん、行くな!」
朔の叫びに茨が顔を上げると――桃果の目が合った。
「茨、受け取ってえええええ——!!」
桃果が投げた。
白く光るおにぎりが弧を描き広場を横切る。
腐食の波の中を黒い靄が、おにぎりに触れるが——光が、弾いた。
結び飯の光が腐食を焼き払いながら飛んでいく。
茨が腐食に染まった震える手を伸ばし、おにぎりを——掴んだ。
茨が、おにぎりを見た。
白い光が、手のひらに滲み出してくる。温かい。
(この温かさは——)
あの夜と同じだ。雨の中で、
桃果が差し出した梅のおにぎりと——同じ温かさ。
あの時は、受け取れなかった。
でも今は——茨が、おにぎりを口に入れた。
瞬間――光が爆けた。茨の体から、白い閃光が溢れ出した。
腐食が——消えた。
黒く染まっていた腕が、一瞬で元に戻る。
膝まで這い上がっていた腐食が、光の中に焼き払われていく。
傷が——塞がっていく。
一つ、
二つ、
三つ。
体中の傷が、爆発的な速さで再生していく。
光が広がるたびに、広場の腐食が消えていく。
石畳が戻る。建物の壁が戻る。朔の足元の腐食が消えた。
雪哉の腕が軽くなった。狛が立ち上がれた。
茨が、立っていた……光の中心に傷一つない。
腐食に染まっていた体が——完全に再生していたのを見て
陰摩羅鬼が初めて——後退った。
「……なんだ、それは」
感情のない声に、わずかに——驚愕が滲んだ。
「結び飯が、鬼の再生力を——嘘だ」
「うるさい」
茨が言った。低く、静かに。
でも——声の奥に、炎があった。
「理屈はいい」
茨が拳を握った。光が、拳に集まっていく。
白い光と鬼の赤い紋様が——混ざり合う。
「桃果が握ったものを、無駄にはできない」
茨が踏み込み地面が砕けた。
石畳が足跡の形に割れた。速い。
さっきまでの、腐食に蝕まれた動きとは別物だった。
陰摩羅鬼が翼を広げ腐食の波を放つが茨が——正面から突っ込んだ。
茨の拳が、翼に届き腐食を押し返し光が爆ける。
陰摩羅鬼の黒い翼が——粉砕された。
羽が散り黒い羽が広場に降り注ぐ。
陰摩羅鬼が吹き飛んだ。
広場の向こうの建物の壁に叩きつけられ、
壁が大きくひび割れる。広場に、黒い羽が舞っていた。
それを見た茨が静かに拳を下ろした。
光がゆっくりと消えて行く。
陰摩羅鬼が壁から剥がれ落ち片翼が——砕けていた。
地面に膝を付き初めて——膝をついた。
「……翼が」
陰摩羅鬼が、砕けた翼を見た。
感情のない目に——初めて、何かが宿った。
「鬼の力で、私の翼が粉砕された。あり得ない——」
「それが……あり得ないことが起きたんだよ」
茨が陰摩羅鬼に向かって笑った。「結び飯の力をなめるな」
朔が呆然と立っていた。「……すごい」
雪哉が目を細める。
「結び飯が鬼の再生力と組み合わさった。桃果の力と茨の力が——」
「合わさった、ってことか」
狛が静かに言った。天廻が桃果を見た。
桃果はまだ走り出した時の姿勢のまま、広場の入口に立っていた。
胸に手を当て茨を見ていた。
(よかった……届いた……)
どこか目が、滲んでいた。




