第17話 温かい記憶と不器用な執行官
昼過ぎ。
その日は桃果は一人で買い出しに出ていた。
朔は鎮守庁の仕事。雪哉は何時ものように書類。
天廻は——多分どこかにいる。
市場を抜けた裏路地。荷物が重くなって、近道を選んだのがいけなかった。
気づいた時には、三体の使いに囲まれていた。
昨日より都の中心に近い場所だ。荒覇の穢れが、また広がっている。
『鬼灯の娘……』
使いの一体が、低く言った。
『今日こそ——』
桃果は荷物を抱えたまま後退した。壁が、背中に当たった。
(また、一人の時に限って……)
朔を呼ぼうとした。でも声が出る前に——
風が鋭い刃のような風で鳴いた。
使いの一体が切り裂かれて散ってゆく。
その姿を確認する前に桃果は誰かに抱えられてそのまま跳躍した。
安全な所に着地すると桃果の前に立ち憚った――狛だった。
「ここより先——穢れの拡散を禁ず!」
着物を羽織った桃果と同じ袴姿。黒髪。
懐から取り出した印鑑が、青く光っている。
残り二体が狛に向かっていくが狛は動じない。
印鑑を構えて踏み込む。風の刃が走った先、一体が消える。
最後の一体が桃果に向かって方向を変えた——
その瞬間、狛が桃果の前に滑り込んでいた。
ブーツで地を踏ん張り、印をつく。
使いが、白い光の中に消えた。
路地に、桃果と狛だけが残り狛が印鑑を懐に戻した。
狛は振り返らない。
「……怪我はあるか?」
短く、聞いた。
「ない。ありがとう」
狛は答えなかった。荷物が地面に散らばっていた。
買い出しの野菜や米が、石畳に転がっていた。
狛がしゃがんで、黙って拾い袋に入れる。
「あ、いいよ自分で——」
「黙って貸せ」
二人で荷物を拾った。狛の手が、てきぱきと動く。
全部拾い終えるや狛が立ち上がった。
「……一人で出歩くな。最近、使いの出現が増えている」
「うん。気をつける」
「気をつけるだけでは足りない。誰かと一緒に居ろ」
狛が荷物の半分を、黙って持った。
「え、いい——」
「店まで送る。文句を言うな」
* * *
路地を二人で並んで歩いた。
狛は前を向いたまま。桃果も前を向いたまま。
しばらく、無言だった。
石畳を踏む足音が二つ、重なって響く。
「ねぇ、いつも一人で戦ってるの?」
桃果が聞いた。
「……仕事だ」
「鎮守庁の?」
「そうだ」
「雪哉さんの部下なんだよね」
狛の眉が、わずかに動いた。
「……一応」
「一応って?」
「部下というより、雪哉さんとは同じ執行官だ。
あの堅物の下についているわけじゃない」
桃果がくすりと笑った。
「でも雪哉さんのこと、雪哉『さん』って呼んでるじゃん」
狛が少し黙った。
「……先輩だ。それだけだ」
「仲いいじゃん」
「良くない」
「でも悪くもないでしょ」
狛が答えなかった。それが肯定に聞こえた。
路地を曲がったところで、狛の足が止まった。
古い社の前だった。小さな、誰も参拝しなくなったような社。
狛がその社を、じっと見ていた。
「……この社、前は違ったんだ」
独り言のように言った。
「……前はどうだったの?」
「もっと、賑やかだった。参拝する者もいて、社の神も穏やかで……」
しまった。と。狛が口を閉じた。
(言いすぎた)
桃果は社を見た。荒れている。
でも、鳥居の形はまだ残っている。
かつては大切にされていた場所だとわかる。
「荒覇の影響?」
「……おそらくな」
「この社の神様も、土地神みたいに穢れに侵されてるの?」
「まだそこまでではない。でも——時間の問題だ」
桃果が社の前で立ち止まり手を合わせると狛が桃果を見た。
「何をしている」
「お参り。神様がいる場所だもん」桃果が目を閉じたまま言った。
「誰も来なくても、神様はいるでしょ。いるなら、ちゃんと挨拶したい」
狛は、黙っていた。
(現世でも、そうしていたのか)
誰も聞いていない祠に、毎日話しかけていた娘。
鬼灯の娘のことは、噂で聞いていた。でも今、目の前で見て——
(変な人間だ)
でも、その言葉が不思議と悪く感じなかった。
陽が傾いてきた頃。
店の前に着くや狛が荷物を桃果に渡した。
「送り届けた。入れ」
「ありがとう。入る?」
「……いい」
「おにぎり、食べていきなよ」
「いらない」
「また『普通だ』って言いながら全部食べるくせに」
狛の動きが止まった。睨もうと思ったが桃果が笑っている。
「わかってるんだ」
「……うるさい」
でも足が、店の方に向いていた。
店の中。桃果が手を洗って、
炊飯から暖かいご飯をを取り出した。
狛は椅子に座って、腕を組んで、窓の外を見ていた。
桃果が握り始める。今回は何にしようか、と考えながら——
前回同様、梅おかかにした。
狛が好きなのをもう知っていたし、
一口かじった狛の顔を桃果はもう一度見たいと思った。
海苔で巻いた出来上がったおにぎりを、狛の前に置く。
「はい。温かい内にどうぞ」
狛が見た。湯気が上に流れるおにぎりが
梅おかかだと気づいて——少し、目が動いた。
「……なぜこれを」
「好きでしょ?」
「別に」
「じゃあ違うの作ろうか」
「……いい」
手を伸ばした一口かじった。動きが、止まった。
いつもと同じ。でも今日は——
「……美味い」
狛が、言った。桃果が顔を上げた。
狛は窓の外を向いていた。
横顔しか見えない。
頭の上の耳の先が、少し赤い気がした。
「え、今——」
「……聞こえなかったか」
「聞こえた」
「なら繰り返さない」
桃果が笑った。堪えようとして、堪えられなかった。
「なんだ」
「ううん。ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「言いたいから言わせて」
狛がまた、窓の外を向いた。
もう一口かじった。
(美味い)
今度は心の中だけで言った。
でも——言葉にしてしまったことを、後悔していなかった。
それが、少し不思議だった。
おにぎりを食べ終えて、狛が立ち上がった。
「もう行く」
「うん。また来てね」
「……来るかどうかは、わからない」
「来るじゃん、いつも」
狛が答えなかった。扉に手をかけて——
少し、止まった。扉の鈴が軽く鳴る。
「……一人で出歩く時は、朔か雪哉を連れて行け」
「狛は?」
「……近くにいることもあるが絶対ではない」
それだけ言って、扉を閉めた。
路地に出た。夕暮れの空が、幽世の都を橙色に染めていた。
狛は少し歩いて、足を止めた。
(近くにいることもある、か)
自分で言って、少し呆れた。
でも——嘘ではなかったと狛は歩き出す。
口の中に、今回も梅おかかの味が残っていた。




