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第16話 廃都に咲く梅おかか

幽世の都・外れの廃区域。

夕暮れ前に一つの風が、鳴いた。


廃区域の石畳に黒い霧が這っていた。

この幽世最大の穢れ……荒覇の穢れが滲み出している区域——

都の住人が近づかない場所。

でも最近は、その境界が少しずつ都に近づいてきていた。


使いの妖怪が、十体以上いたが

一人の猫又は――その中心に立っていた。


羽織った着物の袖を捲り、懐から印鑑を取り出す。

袴の裾が風に靡いていた。

黒檀の軸。雪哉のものより一回り細い、使い慣れた形。

使いの一体が飛びかかってくる。


「ここより先——」


印鑑を構え足を踏み込む。

「穢れの拡散を禁ず!」叫んだ口から八重歯が見えた。

地響きと共に地面に白い紋様が走った。

廃区域全体に、薄い膜が張られ使いが膜に弾かれて吹き飛ぶ。

が、猫又は止まらない。印鑑の先端が青く光る。


「——風刃封印、第一式」


鋭い風が生まれた。刃のような風が使いの一体を切り裂く。

黒い霧が散って消えた。また一体。また一体。

風が走るたびに、使いが消えていく。

猫又の動きに迷いがない。感情もない。

ただ正確に、淀みなく。最後の一体が消えた。


静寂。


狛は印鑑を懐に戻した。

乱れた息を一つ整え廃区域を見渡した。

穢れた霧はまだ薄く漂っている。


(……また増えた)


先週より、出現数が多い。先々週よりも。

境が全て封じられてから穢れの流出が加速している。

猫又は空を見上げた。幽世の空は深い。

でも最近その深さが不穏に感じる。


(鬼灯の娘が来てから、動きが慌ただしい)


鬼灯の娘が幽世に落ちてきた——その話は、狛の耳にも入っていた。

幽世中に広まっている噂だ。

鬼灯の血筋。結び飯の力。現世から落ちてきた人間の娘。

そして……おにぎり屋を営んでいる。


(……ったく、どんな奴だ)


想像してみたが、うまく形にならなかった。

まあ、関係ない。

そう思いながら、猫又は歩き出した。


幽世の都・迷い路地には日が落ちかけていた。

迷い路地の石畳を歩く。提灯に明かりが灯り始める時間帯。

屋台の煙が漂ってくる。

おにぎり屋の前を通り過ぎようとしたその時、

猫又の鼻が動いた先に……一軒のお店がそこにあった。


(……おにぎり屋。か)


炊き立ての米の匂いに足が止まった。

甘い。温かい。それだけじゃない——

手の温もりのような、心が込められているような……

言葉にならない何かが混じっている。


(朔が居る?)


朔の気配がする。

ありえない。あの犬が手伝う姿を見たことがない。

が、どういう風の吹き回しなのだろうか?

そうこうしている間にも匂いがまた、鼻をくすぐる。


(俺には……関係ない)


歩き出そうとした。


ぐぅ。


盛大な音が、静かな路地に響いた。

猫又は動きを止めた……しばらくゆっくりと自分の腹に視線を落とした。

そういえば今日は朝から何も食べていなかった。

廃区域の掃討に時間がかかりすぎた。

匂いが、また流れてくる。


(別に、確認するだけだ)


そう心の中で言い訳を並べながら

狛はおにぎり屋に足を向けていた。

店の暖簾を開けようとした瞬間、内側から暖簾が捲られ朔と目が合った。

犬耳をぴんと立てて青年をを見ている。


「あっこま……いらっしゃい」


猫又=狛は答えずに朔の後ろ——厨房の方を、ちらりと見た。

湯気が上がっている。誰かがいる。


「腹、減ってるんですか」

「……別に」

「顔に書いてありますよ」


狛は答えない様子に朔がため息をついた。


「止まらないで入ればいいじゃないですか。ほら」


一歩、中に入るや台所の入口で、狛は足を止めた。

見知らぬ人間の女が、米を握っていた。

小柄だ。学生くらいか。でも手の動きが慣れている。

迷いがない。温かい湯気の中で、丁寧に、力を込めて握っている。


(これが……鬼灯の娘か)


噂の人間を、初めて見た。その人間が顔を上げ目が合った。

次の瞬間——人間の娘の顔が、ぱっと明るくなった。


「あ!」


その声に狛が思わず半歩引いた。


「お客さん?おにぎり食べます?今握ってるとこなんだけど」


何の警戒もない。

初対面の相手に、当たり前のように言ったが狛は返事をしなかった。

ただ——握られていくおにぎりから、目を離せなかった。

匂いが、また鼻をくすぐる。


(……旨そうだ)


素直にそう思った。人間の娘が何かを考えている顔で狛をじっと見ていた。


「ねえ、もしかして――」


娘が口を開いた。狛が娘を見た。


「狛犬の妖怪さんですか?」


狛の動きが、止まった。


「朔くんみたいに犬の妖怪なんだ!かわいい!」


朔が台所の隅で噴き出した。


「……」


狛は三秒、沈黙して深く、息を吸うた。

低く、静かに言うや二つに別れた尻尾が揺れている。


「——猫又だ」

「え?」

「猫又だと言った。犬ではない」

「でも、狛って狛犬の狛でしょ?」

「名前の話をしているんじゃない。種族の話をしている」

「あ、ごめん!じゃあ猫の妖怪さんなんだね!」


二人のやり取りに朔の笑い声が大きくなった。


「お前は黙ってろ」

狛が朔を睨んだが朔が口を手で押さえながら、肩を揺らしている。

全く抑えられていない。桃果が、ぺこりと頭を下げた。


「ごめんなさい。失礼なこと言って」そんな桃果に狛は答えなかった。

(謝るのか)


普通、妖怪は笑って流す。気まずそうにする。

でもこの娘は、真っ直ぐ謝った。


「わたし鬼灯桃果。おにちゃんって呼ばれてる。よろしくね」


手を拭き差し出された手を、狛は見た。握手を求めているらしい。


(人間は、こういう時に手を出すのか)


狛は手を出さなかった。

でも——


「……狛だ」


名前だけ答えた狛に、桃果が目を細めて笑った。


「狛ちゃんか。よろしくね」

「ちゃん付けはやめろ」

「じゃあ狛さん?」

「……どちらでもない」

「うーん難しいね」


桃果が笑いながら、握りかけのおにぎりに戻った。

ご飯が形にしていく手を面白いものを見るように

狛は不思議そうに見ていた。

しばらくして。

桃果が出来立てのおにぎりと汁物を差し出してきた。

具は梅おかか。

隣に置かれた根菜の汁物は桃果の気遣いか少し冷まされていた。

狛の鼻が、海苔と味噌の香りにひくりと動いた。


「どうぞ。よかったら」


狛は座るや。おにぎりを一口かじった途端——

動きが、止まった。眼が見開く。


(なんだ、これは)


温かい。それだけじゃない。

一口かじった瞬間、おかかの香ばしさが鼻を抜けた。

次に来たのはカリカリ梅だった。

歯ごたえの中からじわりと、酸味が広がる——ただの酸っぱさではない。

舌の上でほどけて、喉の奥へ降りていく。

温かいご飯の甘みが、その後をゆっくりと追いかけてきた。


狛の中で、何かが——咲いた。


そう表現するほかなかった。胸の芯のあたりから……

梅の花がひとつ、またひとつ開いていくような。

長い間ずっと固く閉じていた何かが、

その酸味と甘みの境目でそっと緩んでいく。

腹が、満ちていく。それだけのことが——なぜか、目の奥まで届いた。


「……悪くない」


自分でも驚くほど、小さな声だった。

おかかに入っていた梅が胸の奥まで届いてくる何かがある。

身体の中心から次々と梅の花が咲いたかの様な気持ちになってゆく。

狛の中で梅の花が満開になって行くのと同時に長い間、

張り続けていた何かが少し緩んだような気がした。


「美味しいですか?」


桃果が聞いたが狛は答えなかった。

でも——もう一口、かじった。


「……普通だ」


そう言いながら汁物も全部食べた。

朔がまた肩を揺らしていた。


帰り際、狛は扉に手をかけた。振り返らずに言った。


「鬼灯の娘……猫と犬は違う」

「うん。もう大丈夫!覚えたよ!」

「二度と間違えるな」

「うん。気をつける!またね、狛ちゃん」

「だからちゃん付けは——」


そう言おうとしたが、途中で諦めて扉を閉めた。

朔の家を出て路地に出た。夜の空気が冷たい。

狛は少し歩いて——足を止めた。


(梅おかか……)


口の中に、まだ味が残っていた。

今日の廃区域の掃討のこと。増え続ける使いのこと。

荒覇の影が都に近づいていること。

それらが全部、この味で一瞬だけ——遠くなった気がした。


(……旨かった)


素直にそう思った。

認めるのに少し時間がかかったが狛は歩き出す。

石畳を踏むブーツの足音が、夜の路地に響いた。


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