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特別編 雨上がりの結び飯

その夜のことは、うまく整理できなかった。

荒覇の使いが都の中心部に現れたのは、夕方の店じまいの直前だった。

桃果が暖簾を下ろしかけた時に、石畳の向こうで黒い霧が湧き上がった。

朔が飛び出したが止める間もなかった。


大きな白い犬の姿に変化した朔が、使いに向かって走っていく背中を見た。

いつもの朔だった。軽そうに、でも確かに、駆けていった。

戦闘は、長くなかった。

でも——終わった時、朔は人の姿に戻って石畳に膝をついていた。

右腕が、おかしな角度をしていた。


「大したことない」と朔は笑った。

犬耳がぴんと立ったまま、いつもの声で言った。

「妖怪の回復力を舐めないでよ?」

でも翌日、鎮守庁の医師から「三日は安静」という話が出た。


* * *


翌朝、四時半。桃果は一人で厨房に立っていた。

いつもと同じ時間。いつもと同じ場所。


大きな飯釜から湯気が上がって、炊き立てなご飯の匂いが厨房に満ちている。

蓋を開けた瞬間に立ち上る熱々の湯気でお米の表面が水をまとって輝き

一粒一粒が立ったお米はふっくらと艶々に炊き上がっていた。

桃果は塩を手に舞いご飯をしゃもじですくうと握り始めた。

が、光が——出なかった。桃果の手の中で、ご飯が形になっていく。

三角形。角がそろう。いつも通りの手順で、いつも通りの形ができた


(あ……れ?)


……でもいつもの様に光らなかった。

もう一度、握り直した。

丁寧に。一回、一回。力を込めて。

朝の仕込みでいつもそうしているように、

この人に届いてほしいと思いながら——


それでも光らなかった。ただの、米の塊だった。


(心を込めないと、ただの塩を塗した米の塊になる)


お婆ちゃんの言葉が、頭の中で鳴った。

桃果は飯台の前で、握りかけのおにぎりを手に持ったまま、動けなかった。


(今の私は——込められていない)


どうすればいいのかが分からなかった。

朔のせいじゃない。自分のせいじゃない——頭ではそう整理できる。

でも昨夜、石畳に膝をついた朔の姿が、目の裏に貼り付いていた。


(朔くんが怪我をした)

(あの場所に私がいたから、使いが来た)

(私がいなければ——)


「違う」と打ち消す。

打ち消すたびに、また浮かんでくる。

桃果はもう一度、米を取った。もう一度、握った。

今度こそ、と思いながら。この手に込めようとしながら。

でも……光らなかった。


桃果は握りかけのおにぎりを飯台に置いた。

しばらく、それを見ていた。形はできている。ちゃんと三角形になっている。

でも光がない。温かみがない。ただの、米の塊が、台の上に並んでいた。


(今日は、お店……開けない方がいいかな)


そう思ったがでも——手が、またご飯を取っていた。

やめられなかった。やめたくなかった。

光らなくても、握ることだけはやめたくなかった。理由はうまく言えない。

ただ、この手を止めたら、何か大切なものが終わってしまう気がした。

桃果は光らないおにぎりを、一個ずつ、笹の葉に乗せた。

それでも店を、開けた。


午前中の客は少なかった。

いつもなら朔が注文を聞いてくれる。

今日は桃果一人だった為、客が来る度に桃果は少し緊張した。

気づかれるかもしれない。いつもと違うと思われるかもしれない。

でも——誰も、何も言わなかった。


河童の常連が「梅をひとつ」と言って、

桃果の手の中でご飯が形になっていく。

三角形。角がそろう。いつも通りの手順で、いつも通りの形が出来てゆく……

丁寧に。一回、一回。力を込めて。朝の仕込みでいつもそうしているように、

この人に届いてほしいと思いながら——それでも光らなかった。

桃果にはただの米の塊だった気がしたが河童は嬉しそうにいつも通りに食べて

帰った。今度は小さな一つ目の子供がやって来て「鮭のやつ」と指差して、

握ったおにぎりをもらって走って行った。

今日の握ったおにぎりには誰も光がないことに気づかなかった。

気づいていても、言わなかった。


昼過ぎ。

店の入口から、大きな影が入ってきた。

熊のような体格の老いた獏だった。市場で何度か顔を合わせた古い妖怪で、

桃果に鬼灯家の話を教えてくれた相手だった。


「今日は空いとるね」

「はい。一人なので、ちょっとのんびりしてます」

「朔くんが怪我したって聞いた。大事ないかい」

「三日で治るって言ってました」

「そうかそうか」


獏が、カウンターのおにぎりを眺めた。象のような鼻がひくりと動く。


「何にしようかね……昆布にしよう。昆布をひとつ」

「はい」


桃果は昆布のおにぎりを取って、獏の前に置いた。

獏が、おにぎりをしばらく見た。

桃果は息を止めた。気づかれる、と思った。いつもと違うと言われる、と思った。

でも獏は、そのままおにぎりを大きな手で持って、一口かじった。


「……美味しいよ」


桃果が顔を上げた。


「いつも通りだ」

「……本当ですか」


思わず聞いた。

獏が桃果を見た。虎のような目が、桃果の顔をじっと見た。


「うん。何かあったかい」


桃果が首を振った。首を振りながら、うまく振りきれなかった。

獏がもう一口、おにぎりをかじった。

よく味わうように、ゆっくりと。それから静かに言った。


「光ってなくても、温かいじゃないか」


桃果の手が、カウンターの上で止まった。


「……わかりますか」

「わかるよ。長く生きてると、そういうのが分かるようになる」


獏が桃果を見た。


「光は——心の状態が出るものだろうね。

でも温かさは、お前さんの手が覚えているものだ」

「……どういう意味ですか」

「光は今日の気持ちで変わる。

でも温かさは、何年も何年も握ってきた積み重ねから来るものだ」


獏が、昆布おにぎりを両手で持ち直した。


「今日のお前さんは、光らせられなかった。それはそうだろう、

何かあったんだから。でも——」


一拍、置いた。


「握ることをやめなかったし光らなくても店を開けた。

光らなくても握り続けただろう?」


獏がおにぎりを食べ終えた。大きな手が、ゆっくりと下ろされた。


「そういう温かさが——このおにぎりに、入っておる」


厨房の方から釜の蒸気が流れてきた。炊き立てのご飯の甘い匂いが、

ゆっくりと満ちていた。

桃果は飯台を見た。最初に握った光のないおにぎりが笹の葉の上に並んでいた。


(やめなかった)


ただそれだけのことだった。光らせようとして出来なかった。

でもやめなかった。その違いが——今日のおにぎりに入っているのだと、

この古い獏は言っている。


「……ありがとうございます」


声が、少し震えた。

獏が立ち上がった。牛のような尾をゆっくりと揺らしながら入口に向かう。

暖簾をくぐる手前で、振り返った。


「朔くんによろしく言っておいてくれ」

「はい」

「早く治るように——美味しいものを食べさせてやりなさい」


桃果が頷くと獏は微笑みながら暖簾をくぐって出て行った。


桃果は厨房に戻った。飯台の前に立つを塩を手に舞わせながらご飯を握り始めた。

今度も一回。一回。丁寧に。今度は光のことを考えなかった。

光らせようとしなかった。ただ——朔のために、と思いながら握った。

早く治れ、と思いながら。

怪我してるのに「大したことない」って笑うな、と思いながら。

次は絶対一緒に行くから、と思いながら。

気が付いたら、手が——温かくなっていた。白い光が、ほんの少しだけ——

滲み出していた。さっきまでの眩しい光とは違う。蠟燭一本分みたいな、

小さな光だった。でも——確かに、そこにあった。

桃果は、光るおにぎりをじっと見て笹の葉に包んだ。

朔の分だ。焼きおかかにした。朔が好きなやつだ。病室に持っていこう。

多分「大したことない」って言いながら実は暇してるに決まってるから。

桃果が、また米を取った。次は雪哉の分を握ろうと思った。


光が——また、少しだけ強くなった気がした。


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