第15話 幾星霜の塩むすび
「気づいているか。おにぎりを握るたびに」
天廻が静かに桃果に問いかけた。
「……なんとなく」
桃果はゆっくり頷いた。友達の名前が出てこなかった事。
帰り道ふと空白になる瞬間がある事。
なんとなく——気づいていた。
「誰かを助けたいと願うほどお前の魂はこの幽世に根を張っていく。
鬼灯の血はそういうものだ」
「いつまでに帰らないと——消えるの?」
「わからない。ただ——お前の先祖の中には、 帰ることを諦めた者もいた」
桃果は何も言わなかった。桃果の息が、止まった。
じわじわと、理解が広がっていく。
おにぎりを握る手。米粒の温かさ。塩加減を確かめる舌先。
誰かに差し出す瞬間の、あの光。結び飯が放つ、柔らかな輝き。
それが全部、鎖になる。
天廻が気が付くや桃果は頭を垂れていた。
「私の気持ちは……誰かを縛る呪いになっていない?」
声が、自分のものではないように聞こえた。
視界が滲んだ。堪えようとした。堪えられなかった。
大粒の涙が頬を伝い、顎の先から石畳に落ちる。
「……私はただ、みんなにおにぎりを食べてほしいだけなのに」
言葉が次々と溢れてきた。止められなかった。
「美味しいって笑ってほしいだけなのに。どうして……っ!」
叫びは大きくなかった。ただ、深かった。
石畳に、提灯の光に、夜の空気に、静かに溶けていく。
誰かを思う真心が、自分を閉じ込める呪いに変わる。
桃果は震える両手を見つめた。掌に刻まれたわずかな米粒の痕。
温もりを握るために鍛えてきた、この手が。誰かの腹を満たすために動かしてきた、
この指が。答えは、まだ、どこにもなかった。
「鬼灯家と幽世の契約は——お前の祖先と、私が結んだものだ」
「どうして……私の家と?」
「数百年前。鬼灯の始祖に命を救われた存在が、私だった」
天廻の銀髪が、夕闇の中で静かに揺れた。
「遥か昔、死が近づいていた私を鬼灯家の始祖が差し出したおにぎりを食べて——
私は、生きた。私は鬼灯家がこれからも幸福を分け与えられる様にと
その手に力を与えた」
しばらく、沈黙が続いた。
天廻の目が、桃果の手を——ゆっくりと見た。
「だが——私は考えていなかった。力を与えれば、その力はいつか、持つ者を縛る。
鬼灯の血が深くなるほど、幽世との縁が濃くなる。始祖はそれでも現世に帰った。
次の代も。その次の代も」
「でも——帰れなかった人もいたって」
「いた」
天廻が、目を伏せた。
「私が与えた力が——鎖になった者もいた。それは……私の責任だ」
桃果が天廻を見た。天廻の表情は動かなかった。
でも——声の奥が、かすかに揺れていた。
長い年月だけが積み上げる、静かな後悔の色だった。
「ごめんなさい、と言いたいわけじゃないんだろうけど」
桃果がぽつりと言うと天廻が顔を上げた。
「……そうだな」
「でも——言いたいんでしょ、少し」
天廻が黙った。それが、答えだった。
桃果が袖で目元を拭った。涙はまだ残っていたが、声は少し落ち着いていた。
「どうすればその縁を、帰る為の力に変換できるの?」
桃果の問いかけに天廻は驚き眼を見開いた。
「境界は隔てるためではなく繋ぐために在るなら……
じゃあ——私の代で、うまくいったら。天廻も少し、楽になる?」
「……お前は、変なところで聡い」
「答えになってない」
「……なるかもしれない」
天廻が静かに言った。それから——また、桃果の手を見た。
「鬼灯の力は、使うほど幽世に根を張る。だがそれは同時に——
幽世との縁が、これまでの誰より深くなるということでもある。
縁が深ければ、境の開き方も変わってくるかもしれない」
「……帰れる、かもしれないってこと?」
「確かなことは言えない。だが——」
天廻が、桃果を見た。
「お前の力の使い方は、今までの鬼灯の者と少し違う。
力を惜しむことなく、誰彼構わず差し出す。
それが幽世に根を張る速度を早めているのは事実だ。しかし——」
一拍、置いた。
「これだけ縁を結んだ娘が、帰れないとも思えない。
縁とは——一方に引っ張るものではないからな」
「もしかしたら、そなたの力はまた帰る事も出来るかもしれない。
それに掛けよう。」
桃果が少し間を置いた。それから——ふっと、肩の力が抜けた。
「うん。絶対帰れないわけではないもんね。良いよ分かった。それに掛けます!」
桃果の手の中で、おにぎりがまだ光っていた。薄く、穏やかに。
まるで、ずっと前から知っていたというように。
「今、目の前の人を助けるためにこの力を使うんだ!
それまで私は美味しいおにぎりを皆に食べてほしい!」
天廻が桃果を見た。現世への帰還を遠ざける「呪い」になると知りながら
自らの力を使おうとしているこの娘に天廻は空を見上げた。
夜が近づいている。藍色の空に、星が一つ、また一つ灯り始めている。
「ところで……腹は減っていないか?」
唐突な問いに桃果が目を丸くして笑った。
「うん……減ってる、かも」
「ならば店に戻りながら話そう」
「よしっ!私は自分のおにぎりを自分で握って食べる!」
「ふふっ……桃果は強いな」
「ん?何か言いました?」
「否、何でもない。こっちの話だ。気にしないでくれ」
天廻が歩き出し桃果が隣に並んだ。二人の足音が、石畳に重なった。
歩きながら、桃果は手の中のおにぎりを天廻に差し出した。
「これ、先に食べますか?」
天廻が、おにぎりを受け取り一口かじった。
その瞬間、桃果の視界が、白くなって行く。
(……え)
足元が、消えた。石畳の感触が、ない。
気づいたら——知らない場所に立っていた。
激しい雨が視界を灰色に塗りつぶしている。
下からは草の腐った匂いがした泥で覆われた足元からは草鞋の感触がした。
桃果の足元ではない自分のものではない感覚が、足の裏から伝わってくる。
(わたし……誰の目で見てるの?)
手を見た。自分の手ではなかった。も
っと骨張った、少し荒れた——年上の女の手だった。
提灯を持っていた。雨の中、提灯の火がかろうじて生きていた。
その光の中に——人が、いた。道端に大きな木の根元。泥の中に誰かが倒れていた。
長い銀色の髪が、雨に濡れて地面に張り付いている。
白い着物が、泥で黒ずんでいた。
(天廻……?)
若かった。今より、ずっと若い顔をしていた。子供の姿だったがでも——
同じ目だった。切れ長の長く生きた様な目。その目が、半分だけ開いていた。
虚ろだった。息はある。でも——このままでは、ない。
手が動いた。自分の意志ではなかった。先祖の手が、懐に入った。
出てきたのは——おにぎりだった。笹の葉に包まれた、小さな一個。
天廻の顔の前に、差し出した。天廻の目が——焦点を結んだ。
ゆっくりと、提灯の光を見た。次に、おにぎりを見た。
次に——差し出した手を、見た。
「……食べられますか」
先祖の声が、口から出た。桃果の声ではない。
もっと低い、落ち着いた声。
でも——温かさだけは、桃果の知っている声と同じだった。
天廻が、答えなかった。ただ——震える手が、おにぎりに伸び受け取った。
一口かじったその瞬間の天廻の顔を——桃果は、見た。
目が、細くなった。ただそれだけだった。
泣いているわけでも、笑っているわけでもない。
ただ——何かが、溶けたような顔だった。長い時間、
固く閉じていたものが、その一口で少しだけ緩んだような。
雨が降り続けていた。提灯の火が揺れていた。
「……旨い」
天廻が、掠れた声で言った。
先祖が、何も言わなかった。ただ——隣に、座った。
泥の中に、一緒に座った。雨の中で、二人並んで。
おにぎりを食べ終えるまで、何も言わずに、ただ、隣にいた。
視界が、また白くなった——石畳の感触が戻ってきた。
幽世の夜の空気が肺に入ってきた。桃果はいつもの路地に立っていて、
隣に天廻がおにぎりを持ったまま静かに立っていた。
言おうとした声が、出なかった。桃果は天廻を見た。
天廻は前を向いたまま、おにぎりを見ていた。
その横顔が——さっきと、少し違った。何かを、堪えているような。
あの雨の夜の顔と——重なった。
「天廻さん。わたし……見た」
天廻の動きが、止まった。
「雨の夜。泥の中に倒れてた天廻さんに、わたしの先祖がおにぎりを渡したところ」
提灯の火が、風もないのに揺れた。沈黙していたが天廻の表情が——
ほんの少しだけ、崩れた。崩れて、また戻った。でも完全には戻らなかった。
「お前の先祖の目で……見えたのか」
「うん」
今度はもっと長い沈黙だった。天廻が空を見上げた。
幽世の深い藍色の空に、星が増えていた。
「……あの夜から、数百年経つ。それでも鬼灯の手は変わらないな」
桃果が自分の手を見た。先祖の手とは骨張り方も、荒れ方も違うと思ったが。
でも——温かさだけは、同じかもしれないと思った。
「ねえ、天廻さん」
「何だ」
「あの時の私の先祖も——隣に座ってたでしょ。雨の中で、何も言わずに」
天廻が、桃果を見た。
「覚えてる?」
「……覚えている」
それだけ言って、また空を見た。
「隣にいてくれれば、それで十分だった」
桃果が、また自分の手を見た。
先祖から、お母さんから、お婆ちゃんから——自分へ。
この手が握るおにぎりが、数百年前の天廻に届いていた。今夜また、届いた。
「桃果……腹は、減っていないか?」
天廻が唐突に言った。
「……うん。減ってる、かも」
「ならば店に戻りながら話そう」
「よしっ!わたしは自分のおにぎりを自分で握って食べる!」
天廻の口元が、動いた。
「……強いな、桃果は」
「ん?何か言いました?」
「いや。こちらの話だ」
二人の足音が、石畳に重なり桃果が笑った。
天廻はもう一口食べながら歩き続けた。話すべきことは山ほどある。
荒覇のこと。鬼灯家の契約のこと。桃果が現世に帰るための条件のこと。
でも今この瞬間だけは——ただ歩いていた。隣に、鬼灯の娘がいた。
それだけで数百年ぶりに——何かが、満ちた気がした。
その夜のことは、うまく整理できなかった。




