第14話 鬼灯の契約――帰還の代償と覚悟
その日の夕方、桃果は一人だった。
朔は鎮守庁に呼ばれていた。雪哉も同じく鎮守庁で書類仕事。
材料の買い出しから帰る途中、桃果は路地に入り込んでいた。
近道のつもりだった。でも途中から、空気が変わった。
石畳の色が違う。提灯の明かりが届いていない。
建物の輪郭が、霧に滲んで見える。
(迷った……?)
振り返ると、来た道が霧に閉ざされていた。
確かここは……荒覇の穢れが広がっている区域——
都の外れに近い場所に、いつの間にか迷い込んでいた。
足元から、黒い靄が這い上がってくる。
桃果は慌ててその場から離れる。
「——見つけた」
霧の中から声がした。冷たい冷気のそれは……荒覇の使いだった。
でも今度は一体ではなかった。
三体。四体。霧の中から次々と現れる。
桃果は後退した。背中が壁に当たる。
(朔——雪哉さん——!)
その間にも使いの一体が手を伸ばしてくる。
「やあぁあっ……!来るなぁあ……!」
桃果は傍にあった木の棒で追い払おうとしたが効果はなかった。
使い方は分からないが自分にも雪哉や朔みたいな印が欲しい……
一瞬だがそう思ってしまった。桃果は咄嗟に鞄を抱えたその瞬間——
鞄の中が白く輝き桃果が目を見開く。
鞄を開けると——今朝、店の棚に供えていたおにぎりが、一個入っていた。
(なんで……持ち歩いてなかった筈なのに)
考える暇もなかった。
おにぎりが、桃果の手の中で脈打つように光っている。
心臓の鼓動に似た、規則正しい光。
使いが一歩、また一歩近づいてくる。桃果はおにぎりを胸に抱えた。
(天廻——)
名前を、心の中で呼んだ。
なぜそう思ったのかわからない。でも自然に、その名前が出てきた。
(天廻、いるの?)
光が、爆けて白い閃光が路地全体を照らし
使いたちが弾き飛ばされる。霧が薄くなる。
その光の中心に——人が、いた。
銀色の長い髪。白い着物。切れ長の目。
ただそこに立っているだけなのに、路地全体の空気が変わっていた。
この人は——ずっと前からいる。そういう気配を纏っていた。
使いたちが一瞬で固まり、その存在を見て、後退る。
「て、天廻だと——」
使いの一体が、掠れた声を出した。
「なぜここに……祠が砕けたはずでは——」
銀髪の男が、使いを一瞥した。
それだけで、使いが散った。霧が晴れるように四体全員が消え、
路地に静寂が戻った。男が振り返った。
桃果が男を見たが誰だかわからない。
でも——知っている気がした。
「……無事か」
声を聞いた瞬間、桃果の体が固まった。
この声だ。幽世に落ちる直前に聞いた声。
暗闇の中で遠ざかっていった声。
——必ず、迎えに行く。
「……天廻?」
桃果が問いかけるや男が——わずかに目を細めた。
「覚えていたか」
「声だけ……姿は知らなかった」
桃果の手の中のおにぎりが、まだかすかに光っている。
天廻がそれを見た長い沈黙。
「……供えていたものがあったからここに来た」
独り言のように言う天廻に桃果は首をかしげる。
「どういう事……ですか?」
「毎朝、一個。祠の棚に置いていただろう」
「おにぎり、食べてたの?」
現世で供えていたおにぎりは翌日になったら消えていたが、
まさか……食べていてくれてたとは。天廻が少し間を置いた。
「……届いていたぞ」
現世で毎日供えていた時も、今の店でも——届いていた。
色々な感情が一辺に押し寄せてきて桃果の目が、じわりと滲んだ。
(ずっと、届いてたんだ……!)
「どうしたのだ……泣いている」
「……?泣いてないです!」
天廻に問われるまで自分でも泣いていた事に気づかずに
桃果は慌てて袖で涙を拭いた。
「目が滲んでいるではないか……」
天廻は少しだけ桃果の涙を指で拭いながら顔を見たが、
桃果は視線を外す。
「これは……滲んでるだけです。えっと……あのっ、聞いていいですか」
「……何を」
「なんで幽世に来られたんですか?朔が——
天廻さんは今どこにいるか誰も知らないって言ってた。
それに、祠が砕けた時にここに来られなかったはずなのに」
天廻が黙った。長い沈黙だった。
路地の提灯が、風もないのに揺れた。
「……お前が呼んだからだ」
「わたしが?」
「そのおにぎりを通じて。
お前が心の中で名を呼んだ瞬間、境が一瞬だけ開いた」
桃果が手の中のおにぎりを見た。
「結び飯が……境を開けたってこと?」
「お前の力と、鬼灯の契約が重なった時だけ起きる。
本来なら——あり得ないことだ」
天廻の声が、少し変わった。静かだが、その奥に何かが滲んでいる。
「天廻さん」
桃果が呼んだ。
「鬼灯家の契約のこと、教えてくれますか?」
天廻が桃果を見た。
長く生きた目が、桃果を測るように——
いや、測ることをためらうように——見ていた。
「話せば、お前は現世に帰ることを諦めるかもしれない」
天廻の言葉が、夜の路地に静かに落ちた。
「……帰り道で、友達の名前が出てこなかっただろう」
桃果が息を止めた。
「あれが、始まりだ」
桃果は息を止めた。提灯の橙色が石畳に歪んだ影を落とし、
風もないのに揺れている。天廻の銀髪がさらりと動いた。
それだけだ。あとは何もかもが止まっているようだった。
桃果は唇を噛んだ……帰ることを諦める。
その言葉の重さを、胸の中でゆっくりと転がしてみる。
転がせば転がすほど、底が見えなくなる。
「帰ることを諦めるような……そんな話なの?」
絞り出した声は、思ったより細かった。
「鬼灯の者の中には、そうなる者もいた」
天廻は桃果を見ていなかった。視線はどこか遠く、
この場所でも現世でもない、
もっと奥の時間の向こう側に向けられていた。
その瞳の底には何かがあった。
長い年月だけが積み上げられる。
深い諦念と、それでもまだ滅びていない慈しみが、
奇妙に混ざり合っていた。
それでも桃果の顔は、逃げない顔をしていた。
「わたしは——聞いた上で、自分で決めたい」
声に迷いはなかった。怖くないわけではない。
ただ、知らないまま選ぶことが、もっと怖かった。
天廻の目がゆっくりと自分に戻ってくる。
桃果はその視線を受け止めたまま、動かなかった。
天廻は目を閉じた。
長い沈黙だった。どれほど長かったのか、桃果には測れなかった。
提灯がまた揺れる。石畳の上の影がのびては縮み、のびては縮む。
「……そうか。ならば話そう」




