第13話 光の糸が結ぶ、現世と幽世の境界
翌朝。まだ仕込みの前の時間に三人は都の端へ向かった。
石畳が途切れ草が増えて、木々が鬱蒼としてくる手前——
都の輪郭が曖昧になるあたりに、それはあった。
高さは桃果の腰ほど。幅は両手を広げたくらい。
角が丸く削れて、表面に細かい文字のようなものが刻まれているが、
ほとんど読めなくなっている。
石だった。ただの石に見えた。でも——近づくと、空気が違った。
静かだった。祠の前に立った時と、似ていた。
「境の石だ」
雪哉が言う先、石の表面にひびが走っていた。
一本ではない。網の目のように、細かいひびが全体に広がっている。
その隙間から、黒い滲みが——じわりと、滲み出していた。
雪哉がしゃがんで、石の根元に落ちていた欠片を拾い上げた。
親指の爪ほどの大きさ。手のひらに乗せて、桃果に見せた。
「触ってみろ」
桃果が指先で触れた。
冷たかった。石の冷たさではなかった。
もっと深い、奥から来る冷たさだった。
でも——その奥に、かすかに、何かが残っていた。
温度ではない。温度の、記憶のようなもの。
「この石は——」
雪哉が欠片を見たまま言った。
「幽世の住人たちが、現世と結んできた縁の結晶だ。妖
怪が現世の人間と関わるたびに。現世の人間が幽世のものを受け取るたびに。
その繋がりが長い時間をかけて積み重なって、石になった」
朔が石を見ていた。いつもの軽さが、なかった。
「今は荒覇の穢れが縁を断ち切ることで、内側から崩れていっている。
このひびが都全体に広がれば——境は、完全に失われる」
「修復は」
「通常の方法では、できない。縁そのものが失われているからだ。
石を継ぐには——縁を、もう一度結ぶしかない」
風が、木の葉を揺らしたその時。
草の向こうから、足音がした。
三味線の音が、先に来た。
爪弾くのではなく、持ち歩く時に弦が揺れる、あの小さな音。
姿が見えた。若い青年だった。
着物の裾が草に擦れている。片手に三味線。
こちらに気づいて、足を止めた。
「……何してるんだ、こんな場所で」
「境の石を見ていたの」と桃果が言うと、青年の目がひびを見た。
黒い滲みを見たその顔が——少し、強張った。
「何か感じるの?」
桃果が問うと青年がゆっくりと頷いた。
「あぁ。昔、よく来てた。現世にいた頃……」
「現世に?」
「俺は付喪神だ。百年以上前まで、現世で三味線だった」
青年が石の傍にしゃがんだ。
ひびに沿って、指先をゆっくりと這わせる。
「この石に触ると——たまに、思い出す」
桃果は黙って聞いていた。
「持ち主がいた。若い女の人だった。毎日弾いてくれた。
指先が硬くなるまで、毎日」
青年の指が、石の上で止まった。
「上手くはなかった。でも——丁寧だった。弾く前に必ず、弦を一本ずつ確かめた。音を聴きながら、少しずつ調整して。そういう人だった」
三味線の弦が、風に揺れてかすかに鳴った。
「ある夜、弾かなくなった。理由はわからない。
ただ——最後の夜だけは、わかった。弾き方が、違ったから。
いつもより丁寧だった。いつもより、長かった。
弾き終えて、俺を布で包んで、蔵にしまった」
青年が顔を上げた。
「捨てたんじゃなかった。ちゃんと、しまってくれた。
それはわかってた。わかってたけど——」
言葉が、そこで止まった。
桃果は鞄に気が付いていたら手を入れていた。
朝の仕込みの前に握ってきた一個。具は明太子。
笹の葉に包んで持ち歩いていたやつだった。
青年の前に、差し出した。青年が桃果を見た。
それから、おにぎりを見た。
「……いいのか」
「食べてほしくて握ったから」
青年が、受け取った。一口、かじった。
今朝、仕込みの途中で一個だけ余分に握っていた。明太子。
具を選ぶ時に、なんとなく手が伸びた。
理由はなかった。ただ——今日は誰かに食べてほしい、と思って握った。
誰かが、まだわからないまま握った一個だった。
青年の隣にしゃがんだ桃果を見た。
おにぎりを差し出された青年が、おにぎりを見た。
「……なんで」
「今朝から、誰かに食べてほしかった」
「俺じゃなくてもよかったんじゃないか」
「あなただった」
青年が、受け取り笹の葉を開いた。
ひょっこりと上に出ていた明太子の色が夕暮れの光の中で鮮やかだった。
一口、かじったその瞬間——口の中に、先に明太子が広がった。
塩気が、先に来た。明太子の粒が弾けて、じわりと舌の上に滲む。
辛さがあとから来た。じんわりと、喉の奥まで届く辛さ。でも刺さらない。
米の甘さがそれを受け止めて——全部が、ひとつになった。
温かかった。握られてから時間が経っていたのに、
芯の部分だけが、まだ温かかった。青年の目が、細くなった。
もう一口、かじった。今度はゆっくり、噛んだ。
明太子の塩気と米の甘さが交互に来て——
その間に、何かが、ほどけていった。
胸の奥で固くなっていた何かが、じわりと、ほどけていった。
「……旨い」
掠れた声だった。
「辛いのに、なんか——やさしい」
桃果が隣に座った。石畳が冷たかった。
夕暮れの風が、二人の間を通った。
青年が三味線を見て膝の上の三味線を少し撫でた。
「今日——あの人の命日だ」
桃果は何も言わなかった。
「毎年、この日は弾けない。弾こうとすると——指が、止まる」
「弾かなくていいんじゃないですか」
青年が桃果を見た。
「隣にいるだけで十分な時もある」
さっきの雨の夜を——思った。
泥の中で、ただ隣に座っていた先祖のことを。
何も言わずに、ただ居るだけ。
それだけで良いと天廻が言っていた。
青年がおにぎりの残りを見た。もう一口、かじった。
今度は一番ゆっくり、噛んだ。
明太子の粒が、一粒ずつ、舌の上で弾けた。
辛さが来て、甘さが来て、温かさが来た。目の奥が、じんと、した。
その瞬間——青年の体から、光が滲み出した。
糸のような光だった。細い、白い糸。
青年の指先から、胸の辺りから、静かに滲み出して——
石に向かって、伸びていった。
光の糸が、ひびに触れた。
音はしなかった。でも——ひびの縁が、かすかに、光った。
黒い滲みが薄くなった。一筋、また一筋。
細い光の糸がひびの中に入り込んで、埋めていく。
全部ではない。ほんの一部だった。
でも——確かに、石の色が変わった。
欠けていたところに、薄く光が満ちた。
雪哉が息を止めていた。
朔の耳が、ぴんと立ったまま動かなかった。
青年は気づいていなかった。ただ、おにぎりを食べていた。
目が、少し遠くを見ていた。
現世の、あの夜を——見ているような目だった。
食べ終えて、青年が立ち上がった。
「……旨かった。ありがとうな」
それだけ言って、三味線を持ち直した。
草を踏んで、来た道を戻っていく。
その背中が木々の向こうに消えてから、三人は石を見た。
光は消えていた。でも——ひびの一部が、さっきより浅くなっていた。
黒い滲みが、その箇所だけ、薄かった。
「縁が——石を、継いだ」
雪哉が静かに言った。
「これが……」
朔が石に触れた。
「桃果のおにぎりが、縁を呼び戻した。その縁が、境を支える」
桃果は石を見ていた。まだかすかに、
光の糸が入り込んだ場所が——温かい色をしていた。
「じゃあ」
桃果が言った。
「わたしが握り続ければ——この石が、また満ちていく?」
雪哉が桃果を見た。
「可能性として、そうなる。確証はない。しかし——やってみる価値はある」
雪哉が少し黙った。
「……そうだ」
朔が桃果の隣に来た。石畳の割れた跡に、朝の光が差し込んでいた。
「ここからが、本題だ」
雪哉が続けた。
「お前の結び飯を食べた者は——縁が、強化される。
縁が十分に強化された幽世の住人は、その者自身が境の一部になれる。
石が修復されるまでの間、人が境を支える形だ」
「つまり——わたしがおにぎりを握り続けることが、帰るための方法になる」
「確証はない。前例もない。しかし——」
雪哉の耳の先が、わずかに白くなった。
「桃果がおにぎり屋を開くと言った。だから、根拠を探した」
桃果が笑った。
「順番が逆でも、探してくれたのは同じじゃないですか」
雪哉が答えなかった。耳の先の白さが、少し濃くなった気がした。
帰り道。石畳を三人で歩きながら、桃果はもう一度だけ振り返った。
木々の向こうに、境の石が見えた。ひびはまだある。
黒い滲みもまだある。でも——
光の糸が入り込んだ場所だけが少しだけ、違う色をしていた。
(握り続ければ、帰れる)
桃果は前を向いた。手を、台に乗せた。冷たい木の感触が、掌に馴染んだ。




