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第12話 拒絶の痛みと温もりの理由

おにぎり屋・ほおず喜が開店したその夜は星が多かった。

幽世の空は現世より深く藍色の中に

星がびっしりと煌めいている。

桃果は朔の家への帰り道、何度も空を見上げた。

身体は疲れていたが不思議と気持ちが軽かった。


(土地神さま、元気になったかな)


遠くから聞こえた声を思い出す。


——お嬢ちゃん。ありがとう。旨かった……


桃果は笑みをこぼした。その時だった。空気が、変わった。

現世に居た時の神社と同じだ——と気づいた瞬間、

桃果の体が石畳に叩きつけられていた。息が詰まる。

顔を上げると、路地の入口に人影があった。


大きい。月明かりの中に浮かぶ輪郭——

長身、広い肩、乱れた黒髪。着流しの袖から覗く腕に、

赤い紋様が走っている。額に、角があった。

一本の、黒い角。鬼だ、と桃果は思った。


「……鬼灯の娘」


低い声だった。地の底から引き摺り出したような、重い声。


「やっと見つけた」


ゆっくりと近づいてくる。桃果は立ち上がろうとした。

足が、震えている。


(怖い——でも)


逃げ、られない。鬼が目の前に立った。

見下ろしてくる目は、赤い。怒りとも、

何か別のものとも取れる色をしていた。


「お前のせいで——土地神が浄化された」


静かな、しかし確かな怒気が滲んでいた。


「荒覇様の計画が、狂った」


手が伸びてくる——桃果は目を閉じなかった。

怖かった。でも、目を閉じたくなかった。


(この人は——)


赤い目を、まっすぐ見た。怒っている。

でもその奥に、何か別のものが見えた気がした。

うまく言葉にできない、滲むような何かが。

手が、桃果の首元を掴みゆっくりと引き上げられる。

足が地面から離れる。

それでも桃果は、目を逸らさなかった。

鬼が、止まった。桃果の目を——見ていた。

ほんの一瞬、その赤い目が揺れた。


(この目は……?)


何かが、頭の奥をよぎった。遠い記憶。小さな手。

温かいもの。鬼は眉を寄せた。頭を振るように、視線を逸らした。


「……なんだ、その目は」


低く、吐き捨てるように言った。


「怖くないのか」

「怖いよ」


首を掴まれたまま、桃果が答えた。

でも声は揺れていなかった。


「怖い。でも——あなた、どこか痛そうだから」


 鬼の手が、微かに強張った。


「痛い……?」


 怪訝そうに、しかし確かに聞き返した。


「目が」


 桃果が言った。


「怒ってるんじゃなくて、痛そうな目をしてる」


沈黙。路地に、風が通った。

鬼が桃果を——ゆっくりと、地面に降ろし掴んでいた手を離した。

桃果は地面に足をついた。よろけたが、倒れなかった。

鬼は桃果から目を逸らしたまま、黙って立っていた。

桃果は肩に下げていた鞄に手を入れた。

まだ残っていた。笹の葉に包まれた、最後の一個。

具材は梅。今日作った中で一番丁寧に握ったやつだった。


「……はい」

「どういう事だ……?」


差し出されたおにぎりに鬼が振り向いた。

桃果の手の上にある、笹包みを見た。


「おにぎり。良かったら」


桃果が言った。


「お腹、空いてない?」


鬼は、固まっておにぎりを見ていた。

笹の葉。その隙間から漂う、梅の香り。

米の、温かい匂い。頭の奥が——また、よぎった。

小さな手。雨の夜。道端で倒れていた自分。

差し出されたものが温かかった。


(やめろ)


鬼は心の中で自分に言った。


(思い出させるな……っ)

でも止まらなかった。あの夜の匂いと、

今目の前にある匂いが——重なった。

鬼の手が、僅かに動いた。受け取ろうとした——

その手が、止まった。


(俺が、こいつから受け取れるわけが)


俺はこいつを狙っていた。

今夜も荒覇様の命令で狙いに来た。

その手から、もらえるわけが——


「……いらん」


低く、吐き捨てた。

桃果が、おにぎりを持ったまま動かない。


「いらないって言ったんだ」


もう一度言った。でも桃果は引っ込めなかった。

ただ、まっすぐ鬼を見ていた。

その目が——また、あの夜と重なる。


(やめろ……見るな、そんな目で!)


鬼はバッと身を翻した。着流しの裾が翻る。

石畳を蹴って、夜の闇に消えていく。

その姿に桃果は一人、路地に残された手の中のおにぎりは

まだ温かかった。

消えていった方向を、しばらく見つめた。


(受け取らなかった……)


でも。


(捨てなかった)


桃果はおにぎりを胸に抱えた。


(また、会うかな)


根拠もなく、そう思った。

星空の下、桃果はゆっくりと歩き出した。


手の中のおにぎりは、まだ温かかった。


数日後。朔の案内で三人は都の外れへ向かった——

その前日の夜だった。


「少し、いいか」


暖簾を下ろした後の店に、雪哉が残っていた。

朔はすでに帰っている。

桃果が台を拭きながら顔を上げると、

雪哉が懐から手帳を取り出してカウンターに置いた。


「調べたことがある。桃果が幽世に落ちてから、ずっと」

「なんですか」

「境の話だ」


雪哉が手帳を開いた。細かい文字が、びっしりと並んでいる。


「見せたい場所がある。明日の朝、時間を取れるか」



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