第4部 祝鐘は鳴ったけれど
◆ ◆ ◆
アルバさんがクレマチスを持ってガゼボを訪れてから、しばらく過ぎました。
学園での暮らしにも、少しずつ慣れてきたように思います。
朝は授業へ向かい、お昼になればラシェルさんとメリッサさんと顔を合わせる。
今日も食堂の隅にある、いつもの卓を三人で囲んでいました。
――囲む、と申しましても。
二ツ足のラシェルさんとメリッサさんは椅子に腰掛けていますが、四ツ足の私はその隣に立ったままです。
四ツ足の身体では、二ツ足用の椅子に腰を下ろすことなどできません。
そのため学園の食堂には、私のような者でも使いやすいよう、少し高めの卓もいくつか用意されています。
最初の頃は、皆さんがお行儀よく座っている横で私だけ立っているのがなんとなく落ち着かなかったのですが。
考えてみれば、草原では立ったまま食事をすることなど珍しくもありません。
慣れてしまえば、こちらの方がよほど楽でした。
そして最近では、もうひとつ。
「トコヨちゃん、ちょっと頭下げてほしいの」
「あ、はい」
私は少し身を屈めます。
それでも届きにくいらしく、メリッサさんは自分の椅子の上に立ち、私の四本の角の間へ手を伸ばしました。
茶トラ模様の猫耳をぴんと立て、真剣に琥珀色の大きな瞳を手元へ据えながら、白い布をちょい、ちょい、と動かしています。
最近ではこうして、メリッサさんが私のホワイトプリムを結んでくださることも、すっかり珍しくなくなっています。
「……今日は綺麗に真ん中なの」
「本当ですか? ありがとうございます」
手鏡を覗けば、ペールブロンドの髪と、四本の角の間に白いプリムがきちんと収まっています。
自分で結ぶと、なぜか右へ寄ったり左へ寄ったりするというのに。
人の手というものは偉大です。
「メリッサさんにお願いするようになってから、朝のにっちもさっちもよっちもいかない時間が随分減りました」
「それは良かったの」
「よっちまでいかなくなってたんだ……」
ラシェルさんが笑いながら、手元のパンを千切りました。
穴の空いたバブーシュカから覗く巻き角のあたりで、ふわふわの白い巻き毛が揺れています。
いつもの昼休み。
いつもの三人。
そんな何気ない時間だったのですけれど。
「あ、そういえば」
椅子へ戻ったメリッサさんが、ふと思い出したように顔を上げました。
「モールデン・ブレイクムーア様、ご結婚されたらしいの」
「……え?」
思わず、手鏡を持つ手が止まりました。
「ウィニフレッド・グッドファロウ様と」
「…………」
知っているお名前が二つ、あまりにも自然に並びました。
「けっ……こん」
「うん。少し前に式を挙げたみたいなの」
メリッサさんがこくりと頷きます。
私はしばらく、何を申し上げればよいのか分かりませんでした。
モールデン様と。
ウィニフレッド様が。
ご結婚。
もちろん、お二人はもともと婚約を結ばれていたのですから、不思議なことではありません。
むしろ、予定通りと申し上げるべきなのでしょう。
なのでしょうけれど。
――アルバさん。
あの強いルビー色の瞳と、紫色のクレマチスが頭を過りました。
「トコヨちゃん?」
「あっ。いえ。少し驚いてしまって」
「まあ、急だったもんねー」
ラシェルさんが、うんうんと頷きます。
「私も聞いたよ。っていうか、式に出た人から聞いたんだけどさ」
さすがラシェルさん。
こういったお話になると、いつも情報が一段深いところから出てきます。
「どのようなお式だったのですか?」
「それがねえ……」
ラシェルさんが少し声を落としました。
先ほどまでふわふわ揺れていた巻き毛まで、なんとなくこちらへ寄ってくるようです。
「もう、めっちゃくちゃ冷めた結婚ってかんじだったらしいよ」
「冷めた……?」
「うん。別に揉めたり、大騒ぎになったりしたわけじゃないんだって。式そのものはちゃんとしてたみたい」
ラシェルさんは指を折りながら続けます。
「衣装も立派。料理も豪華。お客さんもいっぱい。家同士の体面としては文句なし」
「それでしたら、何が……」
「新郎新婦がね」
ラシェルさんが両腕を組みました。
「全っ然、幸せそうじゃなかったんだって」
「あら……」
「喧嘩してるとかじゃなくて、むしろ礼儀正しくて静かで。隣に立ってるのに、お互い必要なことしか喋らないし、目もあんまり合わせないし」
「……それは、少し怖いの」
メリッサさんの茶色い猫耳が、ぺたりと伏せました。
いつもはちょこんと揺れているお耳がしょんぼりすると、それだけでご本人まで一回り小さくなったように見えます。
「でしょー? 結婚式ってもうちょっとこう、幸せです! って雰囲気になるものじゃない? それがまるで家同士の契約を確認してるみたいだったって」
「家同士の、契約……」
胸の奥が、もやりとしました。
モールデン様は、アルバさんを愛している。
アルバさんも、モールデン様を愛している。
そのことを私は知っています。
けれど、それをここでお二人に話すわけにはいきません。
花伺いで聞いたお話は、私が勝手に言い触らしてよいものではないのです。
だから私はただ、エプロンの前でそっと指を組みました。
「……そうなのですね」
ようやく出てきたのは、それだけでした。
「トコヨちゃん、なんか元気ないかんじ?」
「えっ」
「さっきから顔が難しいよ?」
ラシェルさんに覗き込まれ、私は慌てて頬を押さえます。
白い巻き毛に縁取られたお顔が、思いのほか近くにありました。
「いえいえ。何でもありません。ただ……」
なんと言えばよいのでしょう。
「ご結婚というのは、おめでたいことだと思っていましたので」
嘘ではありません。
ただ、それだけでもありません。
「それはそうなの」
メリッサさんが小さく頷きました。
「おめでたいはずなのに、聞いてると少し寂しいの」
蜂蜜色の瞳まで、少し曇って見えます。
「そう、それ! なんか怖いよねー。家の都合で結婚するって、貴族だと珍しくないってかんじなんだろうけどさ」
六爵令嬢であるラシェルさんが、少しだけ肩をすくめます。
「私だっていつかそういう話が来ないとは限らないし。相手とずーっとビジネスーみたいなかんじの空気だったら嫌だなあ」
「私も嫌です」
思わず即答していました。
二人がこちらを見ます。
ラシェルさんの巻き角と、メリッサさんの猫耳が、ほとんど同時にこちらを向いたような気がしました。
「あ」
しまった。
「トコヨちゃん、意外とそういうの気にするんだ?」
「気にしますよ!」
「ふふ。トコヨちゃんも恋をしたいの?」
「そ、それとこれとは別のお話です!」
何やら話の向きがおかしくなってきました。
私は慌てて手鏡を鞄へしまいます。
「ほ、ほら。そろそろ午後の授業へ参りませんと!」
「まだ結構時間あるよ?」
「参りませんと!」
「逃げた、ってかんじ」
ラシェルさんが楽しそうに笑い、メリッサさんも口元を押さえてくすくす笑っています。
白い巻き毛が弾み、茶色い猫耳がぴこぴこと揺れました。
まったくもう。
けれど。
卓を離れて歩き出してからも、頭の隅にはどうしても先ほどのお話が残っていました。
祝福の席に立つモールデン様とウィニフレッド様は、目も合わせず、幸せそうにも見えなかったそうです。
それなら、アルバさんは今、どのようなお気持ちなのでしょう。
そして、モールデン様は。
あの方が仰っていた「真実の愛」は、一体どうなってしまうのでしょうか。
そんなことを考えながら廊下へ出た、その時でした。
少し先を、白い姿が横切りました。
「あ……」
思わず足が止まります。
アルバさんでした。
今日もいつものメイド服を身につけ、何か用事があるのでしょうか。書類らしきものを胸元に抱え、足早に廊下を進んでいきます。
あの雪のような白い兎耳を、見間違えるはずもありません。
「トコヨちゃん?」
離れたところからラシェルさんの声がしましたが、私はすぐには答えられませんでした。
つい先ほど聞いたばかりのお話が、頭を過ります。
モールデン様が、ウィニフレッド様とご結婚された。
ならば。
アルバさんは――。
私は少しだけ迷って、それからもう一度その横顔を窺いました。
泣いていらっしゃるのではないか、俯いていらっしゃるのではないか。私は勝手に、そんな姿を想像していたのかもしれません。けれど、アルバさんのお顔は悲しそうには見えませんでした。
かといって、穏やかでもありません。
唇をきゅっと結び、赤い瞳はまっすぐ前だけを見つめています。
いつも美しく整っているお顔が、今日はどこか硬く張り詰めているように見えました。
白い垂れ耳も、あの日のガゼボで見たように落ち着きなく揺れることはありません。
ただ静かに、後ろへ流れています。
「……アル、」
アルバさん、と小さくお名前を呼びかけて。
けれど、声にはなりませんでした。
何を申し上げればよいのでしょう。
ご結婚のことを聞きました、と?
大丈夫ですか、と?
私はアルバさんのお話を知っています。
だからこそ、何を言っても触れてはいけないところへ踏み込んでしまうような気がしました。
結局、私は声をかけられないまま、その白い背中を見送りました。
「トコヨちゃん、どうしたの?」
「……いえ」
少し遅れて、私は首を振ります。
「なんでもありません」
アルバさんの姿は、もう廊下の角へ消えていました。
その時、後ろから乾いた足音がカチ、カチ、と近づいてきます。
「トコヨちゃん……?」
メリッサさんでした。
二ツ足の小さな身体で急いで追いついてきたらしく、腰の小さな翅がわずかに揺れています。
私の顔を見上げる琥珀色の大きな瞳が、心配そうに曇りました。
「ほんとうに、大丈夫なの?」
「メリッサさん……」
「なんだか、さっきよりお顔が寂しそうなの」
そう言って、メリッサさんはそっと私のエプロンの端をつまみました。
ほんの少しだけ。
引き止めるというより、ここにいますよ、と教えてくださるような触れ方でした。
「あら……」
なんでしょう。
胸の中にあったもやもやが、それだけで少し薄れていったような気がします。
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「……なら、いいの」
メリッサさんの茶トラの猫耳が、ほっとしたようにふわりと持ち上がりました。
「もし何かあったら話してね。話せることだけでいいの」
「はい」
花伺いのお話ですから、申し上げられないことはあります。
けれど、何もかも一人で抱えなくてもよいのだと思えるだけで、なんだか心強いものです。
「ほらほら、二人ともー」
少し先へ進んでいたラシェルさんが振り返りました。
白い巻き毛を揺らしながら、こちらへ手を振っています。
「今度こそ授業遅れちゃうってかんじ!」
「あっ」
「行くの」
「はい!」
三人でまた歩き出します。
メリッサさんの小さな足が、隣でカチ、カチと音を立てました。
悲しんでいるようには、見えなかった。
それでも、アルバさんの張り詰めた横顔は、どうしても頭から離れません。
鳴ったはずの祝福の鐘が。
なぜだか私には、少しだけ遠く、寂しい音に思えたのでした。




