第5部 雨に咲くスカビオサ
◆ ◆ ◆
朝食を終えられたセラフィタ様は、窓辺のソファに腰掛けて本を読んでいらっしゃいました。
淡紅色の髪に咲く麗しいロドダモーニの花へ、雲間から伸びた一筋の光芒がわずかに差しています。頁をめくる白い指先まで、なんとも優雅です。
けれど、その天の梯子もすぐに雲の動きに遮られ、光を失いました。今日は一日、雨模様のようです。
雨粒が屋根を細かく叩く音が、部屋の中へ静かに響いていました。
雨の日のセラフィタ様もどこか絵になります。
その彼女の傍らには、小さなサイドデスク。
花瓶には、裁縫で使う針刺しに似た、個性的で愛らしいシルエットの淡い紫色の花が添えられていました。花の外周にある花びらは、ひらひらとドレスのレースのように広がっています。
スカビオサ。セラフィタ様がお選びになり、拙いながらも私が活けました。
最近、少しずつお花の名前を覚えてきた私です。
細い茎の先に、ふわりと丸く広がる花。
魅力。風情。再起。不変の愛。
たしか、そんな花言葉があったはずです。
私はそんなことをぼんやり考えながら、エンヴィアさんと一緒に朝食の片付けを進めていました。
空になったカップを盆へ載せ、使い終えた食器を重ね、パンくずもきちんと拭って。今日も今日とて、エンヴィアさんの動きには無駄がありません。
私も負けてはいられません。
目指せ、熟練の従者。
――いえ、まずは一人前の侍女です。
危うく目標を飛び越えるところでした。
テーブルの端には、朝の新聞が折り畳まれたまま残っていました。
「あ、こちらも片付けてしまいますね」
誰にともなくそう告げて、新聞へ手を伸ばします。
セラフィタ様はもうお読みになったのでしょう。
私は何気なくそれを持ち上げ――ふと、開いた紙面の一角に、見覚えのある名前を見つけました。
――モールデン・ブレイクムーア。
「……え?」
手が止まります。
そして、そのすぐ隣に並んでいた名前を見て、息まで止まりました。
――アルバ・ウィットコーム。
「…………え?」
先ほどより、ずっと小さな声が出ました。
新聞を持つ指に、思わず力が入ります。
見間違いでしょうか。
そう思って、記事へ顔を近づけました。
けれど。
何度読んでも、そこに書かれている文字は変わりません。
『ブレイクムーア家嫡男、使用人女性と失踪――駆け落ちの途上、崖崩れに巻き込まれた可能性』
一度、頭の中で文字の羅列を理解するための思考が止まりました。あまりのことに息を呑みます。
駆け落ち。崖崩れ。失踪。
そして――。
『現場付近では、二人が利用していたとみられる馬車の破片と所持品が発見されている。崩落した土砂は河へ流れ込んでおり、衛士局は二人が巻き込まれ死亡した可能性が高いとして、下流域まで捜索を続けている』
「…………」
私は、いったい何を読んでいるのでしょう。
「トコヨさん?」
エンヴィアさんの声がしました。
けれど、すぐにはお返事ができませんでした。
新聞の文字が、急に遠くなったような気がします。
「アルバさん……?」
ようやく出てきたのは、そのお名前でした。
ほんの少し前、食堂を出たところでお見かけした、あの白い背中。
張り詰めた横顔と、真っ直ぐ前を見つめていた紅玉の双眸。そして、大輪のクレマチスを見つめて仰っていた言葉。
『見知らぬ土地でも、海風の中でも。隣に大切な方がいてくださるのであれば、きっと根を張って暮らしていけると思います』
胸の奥の何かが、ぎゅっと縮んだような気がしました。
「そんな……」
モールデン様は、アルバさんを愛していらした。
アルバさんも、モールデン様を愛していらした。
家も爵位も捨てて構わない、どこへでも行くと、あれほど強く仰っていたお二人が、本当に駆け落ちをなさって。
そして――。
「お亡くなりに……?」
自分で口にした途端、その言葉が急に現実味を帯びました。新聞の無機質な黒い文字が、突如として色を得る。まるで毒々しい花弁を散らしながら、二人の悲しい事故を目の前に形作っていくようでした。
「あら」
静かな声がしました。
顔を上げると、セラフィタ様が本から視線をこちらへ移していらっしゃいます。
「その記事をお読みになったのですね」
「セラフィタ様……」
「ええ。今朝、私も読みましたわ」
それだけ仰って、セラフィタ様はゆっくりと本を閉じました。
いつもの穏やかな微笑み。
驚いていらっしゃるようには見えません。
悲しんでいらっしゃるようにも。
私は新聞とセラフィタ様を交互に見ました。
「ご存じ……だったのですか?」
「記事に書かれていることでしたら」
柔らかな答えでした。
けれど。
それ以上のことは、何も仰いません。
私はもう一度、新聞へ目を落としました。
――死亡した可能性が高い。
まだ遺体が見つかったとは書かれていません。
けれど、大規模な崖崩れ。
河へ流れ込んだ土砂。
見つかった馬車の破片と所持品。
その文字を追えば追うほど、希望を持ってよいのか分からなくなります。
ふと。
視界の端で、紫色の花が揺れました。
セラフィタ様の傍らに活けられた、スカビオサ。
そういえば。
この花には、明るい意味以外の花言葉もあったはずです。
魅力。風情。再起。不変の愛。
そして――。
私はすべてを失った。
不幸な恋。
未亡人。
哀しみの花嫁。
悲哀の心。
「…………」
覚えなくてもよい事ばかり、どうして綺麗に思い出せてしまうのでしょう。
私は新聞を持ったまま、何も言えなくなりました。
雨音が静かに響いていました。
エンヴィアさんは黙って食器を片付けています。
セラフィタ様の本は、膝の上で閉じられたまま。
そして紫のスカビオサだけが、何も知らぬように可愛らしい花弁を広げていました。
つい先日まで紡ぎかけだったはずの物語が、こんなにも突然、途切れてしまうものなのでしょうか。
新聞を持ったまま立ち尽くしていると、ふと、食器の触れ合う音が止まりました。
顔を上げます。
エンヴィアさんが、こちらを見つめていました。
いつもならお仕事の手を止めることなど滅多にない方です。
何か言いたげに唇がわずかに開いて。
けれど、閉じる。
もう一度開いて。
また閉じる。
……なんでしょう。
エンヴィアさんにしては、随分と迷っていらっしゃるような。
やがて、観念したように小さく息を吐きました。
「花伺いに来られた方のことで、あまり思い詰められない方がよいですよ」
「……え?」
思いもよらない言葉に、私は目を瞬きました。
エンヴィアさんは私を見たまま、淡々と続けます。
「花伺いに来られる方々は、人にはなかなか打ち明けられない秘密をお話しに来られます」
その声は、いつもと変わりません。
「これからも様々なお話を聞くことになるでしょう。その一つ一つにあまり引っ張られていては、あなたの気持ちがもちませんよ」
そこまで言うと、エンヴィアさんはふいと私から視線を逸らしてしまいました。
「…………」
あっさりとした言い方でした。
いつものように、必要なことだけを申し上げました、とでもいうような。
けれど。
もしかして。
これは――。
「エンヴィアさん」
「なんですか」
「エンヴィアさんは……やっぱり、お優しい方ですね」
ぴたり。
また、お片付けの手が止まりました。
今度はこちらを向いたエンヴィアさんが、なんとも言い難いお顔をなさっています。褐色の肌の眉間にはうっすらと皺が寄り、どこか胡乱げな眼差しがこちらへ向けられました。
喜んでいらっしゃるようには、まるで見えません。
「……過分なお言葉ですよ」
それだけ言うと、また食器へ視線を戻してしまいました。
あれ。
褒めたつもりだったのですけれど。
「ふふ」
ソファの方から、小さな笑い声が聞こえました。
セラフィタ様です。
本をソファに置き、こちらのやり取りを、随分と面白がっていらっしゃるご様子でした。
「エンヴィアはね、こう見えてなかなか情け深いんですよ、トコヨさん」
「やはり! そうだと私は思っていました」
思わず大きく頷きます。
その瞬間、エンヴィアさんの表情から、ふっと温度が抜けたように見えました。
理知的な双眸からも同じように熱が失せ、唇がわずかに硬く結ばれます。
怒っていらっしゃる、というほどではありません。
けれど。
少なくとも、褒められて困っているとか、照れているとか。
そういった柔らかなものには、とても見えませんでした。
ほんの一瞬だけ。
触れてはいけないところへ、知らず指をかけてしまったような。
そんな、妙に冷たい影がそのお顔を横切ったのです。
黒い翼まで、いつもより冷たい色合いの光を照り返したように見えました。
「…………」
けれど、それも瞬きほどの間でした。
次にはもう、エンヴィアさんはいつもの無駄のない無表情へ戻っています。
何事もなかったかのように食器を盆へ載せました。
「では、こちらを下げて参ります」
「お願いしますね」
セラフィタ様の声は、相変わらず楽しそうです。
エンヴィアさんは盆を抱え、扉へ向かいました。
燕尾服の長い裾が、歩みに合わせて静かに揺れます。
扉を開けると、一度こちらへ向き直ってきちんと一礼し、そのまま音もなく退室していきました。
最後まで、従者としては完璧です。
ぱたり、と扉が閉じます。
「…………」
私はしばらく、その扉を眺めていました。
「……何か、お気に障るようなことを申し上げましたでしょうか」
「あら」
セラフィタ様が微笑みます。
「エンヴィアは、なかなか気難しいのです」
「そうなのですか……」
お優しいと言われるのは、お嫌なのでしょうか。
難しい方です。
エンヴィアさんを見るに、やはり熟練の従者への道は、奥深いものなのかもしれません。
私が首を傾げていると。
セラフィタ様はそれ以上何も仰らず、傍らのサイドデスクへゆっくりと手を伸ばしました。
白く細い指先が、花瓶に活けられたスカビオサへ触れます。
まだ固く閉じていた、小さな蕾。
セラフィタ様がその表面を指の腹で、ほんのひと撫でなさいました。
すると。
蕾が、ふるりと震えました。
「あ……」
幾重にも重なった花弁が、ゆっくりとほどけていきます。
一枚。
また一枚。
まるで眠りから覚めて身を伸ばすように。
閉ざされていた花弁はセラフィタ様の指先を追うように柔らかく開き、やがて雨雲に翳った薄暗い部屋の中で、端正な花冠をほどいていきました。
その様子を見つめるセラフィタ様の深紅の瞳に、満足げな色が浮かびます。
鴇色の長い髪が、白い頬からさらりと滑り落ちました。
ご自身の髪に艶やかに咲く中紅色のロドダモーニと、指先で咲いた薄紫色のスカビオサ。
花に囲まれたセラフィタ様は、いつにも増して人ならざるものめいて美しく見えました。
これが、アルラウネであるセラフィタ様の界力。
お花を咲かせるお力なのですね。
なんて美しいのでしょう。
見慣れてきたつもりでいましたけれど、こうして目の前で花が開く瞬間を見ると、やはり感心してしまいます。
セラフィタ様は咲いたばかりのスカビオサへ顔を寄せました。
壊れものへ触れるように、あるいは、とても大切なものを慈しむように。
細い指先が、開いたばかりの花弁の縁をゆっくりとなぞります。
指が動くたび、柔らかな花弁がかすかにしなって。
離れれば、惜しむように元の形へ戻る。
その仕草が妙に甘やかで、優しくて、艶めかしくて。
なぜでしょう。
ただお花を愛でていらっしゃるだけのはずなのに、私はなんとなく目のやり場に困ってしまいました。
「だけれど……」
花弁を撫でながら、セラフィタ様が囁くように仰います。
「彼には、可愛らしいところがたくさんありましてよ」
「……エンヴィアさん、ですか?」
「ええ」
指先が、花の中心へ触れました。
ほんの僅かに押されて、スカビオサの花が揺れます。
セラフィタ様はその揺れさえ愛おしむように眺めていました。
それから。
ゆっくりと顔を上げます。
深紅の瞳が、私を捉えました。
「すべての花が、可愛らしいようにね」
「…………」
にこり。
いつもの美しい微笑みです。
いつもの、はずなのですが。
なぜでしょう。
私は今、何か、
とても麗しくて、
とても蠱惑的で、
そして、ほんの少しだけ――見てはいけないものを見てしまったような気持ちになりました。
私はなんとなくセラフィタ様から目を逸らし、窓の外へ視線を移します。
いつの間にか、雨脚は随分と強くなっていました。
厚い雲に覆われた空から、大粒の雨が絶え間なく降り注いでいます。
窓硝子を伝う水滴の向こうで、庭の木々も花々も灰色に霞んでいました。
――雨。
そういえば、新聞には崖崩れと書かれていました。
きっと現地では、ここより激しい雨が降っていたのでしょう。
胸の奥が、また少し痛みます。
モールデン様とアルバさんが今どこにいらっしゃるのか、私は知りません。
本当にもう、この雨の先のどこにもいらっしゃらないのかもしれません。
それでも、窓の向こうの雨を見つめながら、私は誰にともなく祈りました。
この空の下で、お二人の花がどうか、まだ枯れていませんように。




