第6部 青空にひとつ、白い雲
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いつかの日の雨が嘘のように、今日はよく晴れていました。
王立アロウェン術導院の中庭には、柔らかな陽射しが降り注いでいます。
石造りの校舎に囲まれた庭は、きちんと刈り込まれた低木と花壇、それから何本かの大きな木で彩られていました。
花壇の花々はそれぞれが美しく咲き誇っています。まだ一つひとつの花の名前は憶えられていませんが、いつか全ての名を言う事ができるようになりたいです。
私は花伺い令嬢の侍女ですので。
それから、高い窓を連ねた校舎の壁には蔦が這い、回廊の柱が一定の間隔で影を落としています。
その間を、臙脂色の制服に身を包んだ生徒たちが行き交っていました。
多くの方は二ツ足ですが、稀に四ツ足の方もいます。
赤茶色の毛に覆われた腕で教本を抱えている方。
長い尾を器用に避けながら友人と歩く方。
頭上の角が回廊の庇に当たらないよう、少し身を屈めて通る方。
こうして眺めていると、術導院というところは本当にいろいろな方が集まっているのだなあと、改めて思います。
私もその中の一人。
その中庭の端にある石の卓で、私たちはおやつをいただいていました。
ラシェルさんとメリッサさんは長椅子に並んで腰掛け、私はその横に立っています。
この並びも、もうすっかりいつもの形になりました。
「これ美味しいねー」
ラシェルさんが、小さな焼き菓子をひとつ摘まみます。くりくりとした羊毛を思わせる柔らかな白髪の毛先が陽に透けていました。。
そのまま口へ放り込み、『んーおいしー』と、貴族の御令嬢にしては随分と飾らない仕草と口調で焼き菓子を頬張っています。その円らな瞳まで嬉しそうに弾んでいました。……とても可愛らしいのです。
最近、下町で評判の菓子店のクッキーを、メリッサさんが買ってきてくださったのでした。
ありがたく頂戴しています。私も今度お返しを考えなければ。
香ばしいサクサクとしたクッキーの中には砕いた木の実が入っていて、違った食感が楽しいです。
メリッサさんは私やラシェルさんと違い、平民の特待生で、下町にもお詳しいのです。
いつか案内していただきたいものです。
「……これ、栗が入ってるの」
メリッサさんが嬉しそうに言いました。
琥珀色の瞳がきらりと輝き、茶トラ模様の猫耳がこちらへ向きます。
穏やかな午後です。美味しくて甘いお菓子があって、お友達がいて、陽射しも暖かくて。
こういう時間は、なんだかほっとします。
「そういえばさ」
そして。
こういう穏やかな時間に限って、ラシェルさんは穏やかではない話題を持ってくるのです。
「ブレイクムーア家、ちょっと大変なことになってるらしいよ」
「……ブレイクムーア家?」
思わず、手にしていたクッキーを持ち上げる動きが止まりました。
あのお名前を聞くと、どうしても胸の奥がざわつきます。
「うん。前から色々噂はあったみたいなんだけどね。ここ最近になって、領地運営とか政治絡みのお金の流れとか、いくつかわるーい話が表に出てきたんだって」
「お金の流れ……」
「賄賂とか、不自然な取引とか。まだ全部がはっきりしたわけじゃないみたいだけど」
ラシェルさんは声を少しだけ落としました。
さすが商家の御令嬢。
こういう話になると、先ほどまできらきらした瞳で焼き菓子を食べていた方とは思えないほど真剣な顔つきになります。
「ブレイクムーア四爵本人も、最近ずっと体調が良くないって話でしょう? そこへ御嫡男の件まであって、その上これだから。家としてはかなり痛いんじゃないかなーってかんじ」
「……そうなの」
メリッサさんの二つの耳がしゅんと伏せられました。
「息子さんを亡くしたばかりなのに」
「ねー。タイミングとしては最悪だよね」
ラシェルさんは残った焼き菓子を見つめながら、少し難しい顔をしました。
「まあ、悪いことしてたなら、それはそれでちゃんとしないといけないんだけどさ」
「そうですね……」
私は曖昧に頷きます。
モールデン様のお父様。たしか、ブロデリック・ブレイクムーア様。
以前、エンヴィアさんから少しだけ伺ったお話だと、随分と派手な経歴をお持ちの方で、ブレイクムーア家を今の地位まで押し上げるために、あまり褒められたものではない手段もお使いになったらしい、ということでした。
けれど。
私はその方を直接存じ上げているわけではありません。
ですから、何かを断じることもできません。
「それにしてもさあ」
ラシェルさんが、ふっと息を吐きました。
「ちょっと前まで御嫡男が結婚して、これから家を継いでいくんだろうなーって話だったのに」
綿毛めいた白い髪が、風にふわりと揺れます。
「結婚したと思ったら、その御嫡男はいなくなっちゃうし。今度は家の悪い話まで出てくるし」
そして、首を傾げました。
「これが栄枯盛衰ってやつかしらー?」
「ははは……」
またです。
このお話、以前にもどこかで聞いたような。
私はなんとも返事に困って、曖昧に笑うことしかできませんでした。
「……貴族のお家って、そんなに変わるものなの?」
メリッサさんが、手にしたクッキーを見つめながらぽつりと尋ねました。
「私、ずっと貴族の人はずっと貴族なんだと思ってたの」
「まあ、普通に暮らしてたらそう見えるよねー」
ラシェルさんが頷きます。
「でも爵位って、持ってれば絶対安心! ってものでもないよ。家が傾けばお金もなくなるし、やらかしたことが大きければ立場だって危なくなるし」
「……大変なの」
「大変だよー。だからうちなんか、爵位より商会の方がよっぽど大事ってかんじ」
さらりと仰いました。
「爵位より、ですか?」
「だって爵位だけあっても、ご飯は出てこないじゃない?」
「あ」
どこかで聞いたようなお話です。
愛しているだけでは、お腹は膨れない。
アルバさんのお言葉が一瞬だけ頭を過りました。
「お金を稼いで、ちゃんと家を回して、情報を集めて。そういうのを怠ってたら、六爵だろうが何爵だろうが安心できないでしょ?」
「ラシェルさん、商人さんみたいなの」
「うち商人だもん!」
胸を張った拍子に、ラシェルさんの柔らかな髪がふわんと弾みました。
「トコヨちゃんのところはどうなの? 爵位なくなったら困る?」
「私の家ですか?」
考えます。
「…………」
考えました。
「たぶん、草原へ戻りますね」
「戻るんだ」
「戻るの……」
お二人がほとんど同時に言いました。
「もちろん困ることはたくさんあると思いますよ? ですが、もともと爵位がなかった頃から草原に暮らしていた一族ですので。父上たちなら『では昔に戻るか!』となりそうな気もします」
「強いなあ、モチヅキ家」
「たくましいの」
「そうでしょうか……」
褒められたのでしょうか。
いまひとつ分かりません。
ラシェルさんは笑いながら、もうひとつクッキーを手に取ります。
「でもまあ、ブレイクムーア家だって今すぐ爵位がなくなるって話じゃないよ。表に出てきたことがいくつかあるってだけ」
「そうなのですね」
「ただ、御嫡男の件だって、まだ落ち着いてないでしょ? そこへ悪い話まで重なってるから、家としては相当ごたついてるだろうねえ」
今度は少しだけ、声が低くなりました。
「……人のお家のことだけどさ。こういうの聞くと、ほんと何があるか分かんないなーって思う」
メリッサさんも、小さく頷きます。
つい最近まで貴族ではなかったモチヅキ家。
御令嬢として育ちながら、貴族としての身分を失ったアルバさん。
商いによって家を支えているラシェルさんのベルジェ家。
そして今、揺らぎ始めているブレイクムーア家。
貴族というものは、思っていたよりずっと、お立場も暮らしも移ろいやすいものなのかもしれません。
昇る家があれば、沈む家もある。
けれど、そのどちらにも、そこに暮らしている人たちがいるのです。
私は晴れ渡った空を見上げました。
あまりにも青くて。
先日の雨など、本当にあったのかと思うほどでした。
青空の中、小さな白い雲がひとつ、ゆっくりと風に流れていくのが目に入りました。
ぽつんと一人ぼっちの雲。風に吹かれて、どこかへ流れていく雲。
そこで、ふと思いました。
「……あの」
「ん?」
「ウィニフレッド様は、どうなさるのでしょう」
二人がこちらを見ました。
「だって……」
私は言葉を探します。
「ブレイクムーア家へお嫁入りされたばかりなのでしょう? それなのにモールデン様があのようなことになって、その上、お家まで今こんな状況で……」
「あー……」
ラシェルさんの表情から、少しだけ笑みが引きました。
「そうなんだよね」
手に取ったクッキーを、今度はすぐには口へ運びません。
「結婚したと思ったら夫を亡くしたことになって。今度は嫁ぎ先の不正疑惑でしょ?」
「……大変すぎるの」
メリッサさんの三角の耳が、またしゅんと伏せられました。
「しかも、まだ若い方なのでしょう?」
「うん。私たちとそんなに離れてないはず」
「まあ……」
それは。
なんと申し上げればよいのでしょう。
私はまだ、ウィニフレッド様ご本人にお会いしたことがありません。
モールデン様からお名前を聞き、アルバさんからもお話を聞き、結婚式の噂を聞き。そして今は、御主人を亡くした――未亡人としてお名前を聞いています。
ずっとお話の中にはいらっしゃるのに、その方だけが不思議なほど遠くにいるように感じられました。
「でもさ」
ラシェルさんが、少し考えるように首を傾げます。
「ウィニフレッド様って、かなりしっかりした人らしいよ」
「そうなのですか?」
「うん。前にも言ったかもしれないけど、グッドファロウ家の御令嬢でしょ? 頭も良いって評判だし。結婚式でも、モールデン様はちょーっと固くなってたらしいけど、ウィニフレッド様の方は最後までちゃんとしてたって」
「ちゃんと……」
「ビシッと! 凛として、ってかんじ? お客さんへの挨拶も全部こなしてたんだって」
ラシェルさんは感心したように息を吐きました。
「私だったら無理だなあ。いやーな空気の結婚式ってかんじでしょ? そのあと夫はいなくなるし、お家はごたつくし。もう『知りません!』って実家に帰りたくなるってかんじ」
「……私も帰りたくなるの」
「ですよね……」
三人揃って、なんとも言えない顔になりました。
「帰らないのかな」
メリッサさんがぽつりと言いました。
「どうなんだろ。そこまでは私もまだ知らないなー」
ラシェルさんがサクっとクッキーをひと口齧ります。
「普通ならご実家に帰りそうだよね。でも、こういう時だからこそ嫁いだ家に残る、って考え方もあるんじゃない? 貴族だと。出戻り娘にはなりたくない、みたいなかんじ?」
「そういうものなのですか?」
「たぶん?」
「たぶんなのですね」
「私なんてただの小娘だもん! 何でも知ってるわけじゃないって!」
ラシェルさんが頬を膨らませました。
メリッサさんが、くすりと笑います。
私も少しだけ笑いました。
けれど。
心のどこかには、やはり引っかかるものが残りました。
モールデン様にはアルバさんがいて、アルバさんにはモールデン様がいました。お二人には、お二人の「真実の愛」があった。
では、その真実の愛の外側に立たされたウィニフレッド様には、一体何が残ったのでしょう。
夫を亡くし、嫁いだ家は揺らぎ、それでもきちんと立っていらっしゃるという御令嬢。
私はまだ、お顔さえ存じ上げません。なのに、なぜだか今までで一番、その方のことが気になってしまいました。
「真実の愛」というものは、誰か二人の間に咲く花のようなものだと思っていました。
けれど、その花の傍らにいる人にも、その人だけのお話があるのでしょう。
ウィニフレッド様は、どんな方なのでしょうか。
何を思って、今もブレイクムーア家にいらっしゃるのでしょう。
私には、まだ何ひとつ分かりません。
ただ、もし、いつかお話を伺う機会があるのなら。
その時は、きちんと耳を傾けたいと思いました。




