第7部 赤いチューリップ 〜ウィニフレッド・ブレイクムーアの花伺い〜①
◆ ◆ ◆
「まあ! 今日もふわふわの、ふかふかの、もふもふでなんて可愛らしいの……! ネイコちゃん、お久しぶりね!」
淑女としてのご挨拶よりも先に。
その方はネイコさんの前へ屈み込み、小さな額を嬉しそうに撫で始めました。
ネイコさんは、セラフィタ様の飼っていらっしゃるニコです。
柔らかで美しい漆黒の毛並みを持つ、愛らしくて無敵の飼いニコです。
そしてネイコさんは、人に可愛がられる術をたいへんよく心得ています。
差し出された手のひらを一度じっと見つめると、ここです、とでもいうように額をするりとその下へ滑り込ませました。
ひと撫で。
ごろごろ。
もうひと撫で。
ごろごろごろ。
相手の手が止まりそうになると、今度は頬をそっと指先へ擦り寄せます。
「まあまあまあ……!」
彼女のお顔が、見る見るうちにほころんでいきました。
どうやら大成功のようです。
ネイコさんは満足そうに目を細めると、しなやかな黒猫のような身体をくるりと捩りました。
そして。
ころん。
六本の脚を無防備に投げ出して、お腹を上に。
完全なるへそ天です。
「まあああああ!」
先ほどより明らかに大きな、奇声というレベルのお声が出ました。
ネイコさんは知っているのでしょうか。
自分がこうすれば、人がどうなるのかを。
いえ。きっと知っています。そんな気がします。
飛ぶことのできない、蚕を思わせるもこもことした翅まで、誘うようにふるふると揺れました。
「この子ったら……! 相変わらずなんて素晴らしい毛並みなのかしら……!」
喜声をあげる彼女の瞳には、黒真珠を思わせる輝き。そして頭上には、ぴんと長い黒兎の耳が伸びていて。
この方こそ、ウィニフレッド・グッドファロウ様。
――いえ。
今は、ウィニフレッド・ブレイクムーア様です。
黒に近い濃いブルネットは、額の上でふわりと持ち上げられ、その根元を一つの飾り櫛が留めていました。
蔓草を象った細い金細工は、眩しく輝くようなものではありません。
落ち着いた鈍い色艶の金に、小粒の黒真珠がいくつか嵌め込まれています。
華やかさを抑えたその飾りは、今のウィニフレッド様が喪に服していらっしゃることを、静かに示しているようでした。
両脇の髪は端正に後ろへ流され、残る髪は襟足の低い位置で内側へくるりと巻き込まれています。
飾り立ててはいないのに、少しの乱れもない髪型です。
その上から、意志の強さがうかがえる二本の長い黒耳がぴんと伸びていました。
そんな気品に満ちた御令嬢が、可愛い可愛いニコのお腹を撫でることに夢中になっているのです。
もし私たちがここにいなければお腹に顔を埋めんばかりの勢いに思えました。
私は呆然と、その光景を眺めていました。
「お久しぶりですね、ウィニフレッド様。ようこそいらっしゃいました」
セラフィタ様がお声をかけると、ウィニフレッド様がはっと顔を上げました。
「ああ! ご挨拶が遅れてしまい、大変申し訳ございません、セラフィタ様。ご機嫌麗しゅうございます」
そう仰りながらも、片手はまだネイコさんのお腹を撫でています。
「私、本当にニコには目がなくて……。特にネイコちゃんの、この美しい漆黒の長毛! よくお手入れされた毛並み! そしてこの満月を思わせる愛らしいつぶらな瞳……たまりませんのよ……!」
ネイコさんはそのお言葉が分かっているのかいないのか。
絶妙なところでウィニフレッド様を見上げ、ぱちりと大きな瞳を瞬かせました。
「っ……!」
ウィニフレッド様が胸元を押さえました。
効いています。とても効いています。これはキュンというやつです。
「…………」
私は固まりました。
想像していたウィニフレッド様と、だいぶ違います。
愛嬌を惜しみなく振り撒くネイコさんのお腹を、ウィニフレッド様はそれはもう幸せそうに撫でています。
お腹をなでなで。
もこもことした翅もなでなで。
少し手が止まれば、ネイコさんの方から前足がちょい、と伸びてきます。
もう終わりですか、とでも言いたげです。
「まだですわよ、ネイコちゃん。まだいくらでも撫でましてよ……!」
ごろごろごろごろ。
喉を鳴らして、ネイコさんも大変ご満悦です。
――哀しみの花嫁。
夫を亡くし、嫁いだ家が揺らいでもなお、一人で気丈に立っていらっしゃる御令嬢。
そんな私の中のウィニフレッド様像が。
がらがらがら。
音を立てて崩れていきました。
やがてウィニフレッド様は、たいへん名残惜しそうにネイコさんから手を離しました。
するとネイコさんは追い縋ることもなく、くるりと身体を戻して毛並みをひと舐め。
まるで、お勤めは果たしました、とでもいうようなお顔です。
……ネイコさん。
もしかして、全部理解していらっしゃるのでしょうか。
そんな疑問が一瞬だけ頭を過りましたが、ウィニフレッド様がすっと立ち上がったことで霧散しました。
先ほどまで床に屈み込んでニコのお腹を撫で回していた方と同一人物とは思えないほど、優雅に姿勢を整えます。
「申し遅れまして、大変申し訳ございません」
ウィニフレッド様は、深い黒で統一されたドレスの裾をそっと摘まみました。
光を華やかに弾くような生地ではなく、しっとりと落ち着いた艶を帯びた黒。
襟元は高く、袖も手首まできちんと覆われています。
刺繍やレースも同じ黒で控えめにあしらわれ、遠目にはほとんど装飾らしい装飾も見えません。
それでも、身体の線に沿って美しく仕立てられたドレスには、一目で上等なものと分かる品がありました。
「ウィニフレッド・グッドファロウ改め、ウィニフレッド・ブレイクムーアと申します。トコヨ・モチヅキ五爵令嬢とは、はじめましてになりますわね。以後、お見知りおきを」
ぴんと立った黒い長耳が、完璧なカーテシーとともにゆるりと揺れました。
黒いドレスの裾が床の上に静かな弧を描きます。
頭の先から爪先まで、ひどく端正な御令嬢です。
「あっ、はい!」
私も慌てて、少々不格好ながら深く礼を返しました。
「トコヨ五爵令嬢は、まだ侍女のお勤めを始められたばかりなのでしょう?」
ウィニフレッド様は、先ほどまでネイコさんに向けていたものとはまた違う、穏やかな笑みを私へ向けました。
「どうぞごゆるりとなさってくださいね。今日は、計画のご報告に参っただけですから」
「……計画?」
思わず首を傾げます。
計画。なんの計画でしょう。
私がその言葉を頭の中で転がしているうちに、ウィニフレッド様は傍らに置いていた花束を手に取りました。
「こちらを」
「あ、はい」
差し出されたものを、素直に両手で受け取ります。
瑞々しい赤。
幾輪もの花が、まっすぐに茎を伸ばしていました。
チューリップです。
どれも鮮やかな赤色で、開ききる一歩手前の花弁には艶があります。
つい最近までなら、綺麗なお花ですね、で終わっていたところなのですが。
今の私は、昔の私とは少しだけ違います。
最近、少しずつお花のお勉強をしているのです。
赤いチューリップ。
たしか、その花言葉は。愛の告白。
それからもう一つ思い出すのは――真実の愛。
「…………」
また、『真実の愛』、その言葉です。
胸の奥が、ほんの少しだけざわつきました。
モールデン様。
アルバさん。
そして、目の前にいらっしゃるウィニフレッド様。
このところ、何度も耳にしてきた言葉。
真実の愛――私は花束とウィニフレッド様のお顔を、こっそり見比べました。
けれど、ご本人は相変わらず淑女の微笑みを浮かべたままです。
まずはセラフィタ様へ花束をお渡ししようと振り返りかけて。
「あら」
そこで気がつきました。
いつもの卓の上に、空の花瓶がひとつ用意されています。
まるで、初めから、この花束を待っていたかのように。
「こちらに活ければよろしいでしょうか?」
「ええ。お願いしますね、トコヨさん」
セラフィタ様がにこやかに頷かれました。
「かしこまりました」
花瓶へ水を整え、一本ずつ赤いチューリップを収めていきます。
まだまだ、お花を活ける腕には自信がありません。
けれど、せっかくの綺麗なお花です。
向きを少し変えて。高さも揃えすぎないようにして、最後の一本をそっと加えます。
鮮烈な赤が、花瓶の上に並びました。
先ほどまでネイコさんの黒い毛並みと、ウィニフレッド様の黒い装いばかりを見ていたせいでしょうか。
その赤色は、やけに鮮やかに目へ映ります。
「できました」
「ありがとうございます」
ウィニフレッド様が静かに仰り、私は一歩下がります。
いつものように、セラフィタ様は咲き並ぶ赤いチューリップへ一度目を向け、
それから、ウィニフレッド様へにこりと微笑まれました。
けれどその笑みは、私にはなぜだか、いつもよりほんの少し愉快そうにも見えました。
ふと、席につかれたセラフィタ様のスカートの合間からちらりと覗く、木の根を思わせる膝へ、ネイコさんは、ぴょん、と軽やかに飛び乗りました。
お客様の前で飼いニコを膝に乗せるというのは、場合によっては無作法と取られかねないのかもしれません。しかし誰もその様子を気にした風ではなく。
ネイコさんはそのまま当然のように丸くなり、ごろごろと喉を鳴らします。
たいへん居心地がよさそうです。
まるで、自分の定位置はここです、とでもいうような。
「まあ……」
向かいに座るウィニフレッド様が、うっとりと相好を崩しました。
先ほどからずっとにこにこしていらっしゃいましたが。
今は、これはもう、にこにこというより、
少々、やにさがっていらっしゃいます。
「ウィニフレッド様は、うちの飼いニコをことのほかお気に召したようでしたので。今日も連れて参りましたの」
セラフィタ様が、膝の上のネイコさんの背をゆったりと撫でながら仰います。
「まあ! セラフィタ様のお気遣いに感謝いたしますわ!」
ウィニフレッド様の黒い長耳が、ピーンと一層高く立ちました。
「なんて羨ましい……。私の膝にも、いつか乗ってほしいわ。ネイコちゃん……」
熱い視線を向けられたネイコさんはといえば。
ちらり。
ほんの一瞬だけウィニフレッド様を見て。
ごろごろごろ。
またセラフィタ様の膝へ頬を擦り寄せました。
「まああ……!」
効いています。効き過ぎです。ずきずきズッキュンです。
ここまでくるとネイコさんは、自分をいかに愛らしく見せて、相手を篭絡させるか、という方法を心得ていらっしゃるような気がしてなりません。
そんな骨抜き状態のウィニフレッド様をよそに、エンヴィアさんは、いつも通り完璧な従者ぶりで紅茶を淹れていらっしゃいました。
温められたカップ。静かに傾けられるポット。
ベストドロップまで淀みなく注がれ、美しい琥珀色のお茶がカップの中を満たしていきます。
私はなんとなく、その小さな雫を目で追いました。
ふわり。
甘い香りが鼻先を掠めます。どこか覚えのある、瑞々しく甘酸っぱい香り。
林檎でしょうか。けれど、それだけではないような。
「……あら?」
よく見ると、カップの底には赤い花弁が沈んでいました。
鮮やかな赤。先ほど私が活けたものと、よく似た色です。
「こちらは?」
思わず尋ねると、セラフィタ様が楽しそうに目元を綻ばせました。
「アップルティーに、フレーバーとしてチューリップを添えてありますの」
「チューリップを……」
「ええ」
深紅の瞳が、卓上に咲く赤い花々へ向けられます。
「前回とはまた違う、今日の花伺いにはぴったりのお飲み物ではありませんか?」
「…………」
前回。私は瞬きをしました。
ネイコさんへ向けられた「お久しぶり」。
まるで今日の花を待っていたように用意されていた花瓶。
赤いチューリップ。そして、チューリップを使った今日のためのお茶。
なにより、今、セラフィタ様がはっきりと仰った。
――前回。
「…………あ」
点と点が、ようやく私の中で繋がりました。
花伺いの探偵助手としては、まだまだポンポンのコツ寄りの私ですけれど。
さすがに、ここまで揃えば分かります。
ウィニフレッド様が花伺いへいらしたのは、――今日が、初めてではないのですね。
「それでは――」
深紅の瞳に、やわらかな色が宿ります。
「お話、お伺いしてもよろしいですか?」
「ええ。もちろんですわ」
ウィニフレッド様は、迷いなくそう返しました。
こうして。
私にとって初めての、けれど、お二人にとっては二度目となるらしいウィニフレッド・ブレイクムーア様の花伺いが、始まったのでした。




