第3部 クレマチス 〜アルバ・ウィットコームの花伺い〜②
「モールデン様がすべてを捨ててでも私を選んでくださるというのなら、私もすべてを捨てて、あの方を選びます」
――真実の愛。
また、その言葉が頭を過りました。
先日のモールデン様と同じです。
同じ、はずなのですが。
なんでしょう。
モールデン様が口にされた時には、恋というお酒に少々酔っていらっしゃるように感じたのに。
アルバさんの場合は。
酔っていらっしゃることには、違いない気もするのですけれど。
そのまま真っ直ぐ歩いて、必要なら荷造りまで済ませてしまいそうな酔い方と申しましょうか。
私はこっそりセラフィタ様のお顔を窺いました。
セラフィタ様は、相変わらず微笑んでいます。
けれど。
その赤い瞳は、アルバさんをじっと見つめていました。
「アルバ様は」
やがて、セラフィタ様が静かに口を開きます。
「ずいぶんと、覚悟を決めていらっしゃるのですね」
「……はい」
「恋をして、何も見えなくなってしまった方のお顔には見えませんわ」
一瞬。
アルバさんの白い耳が、ぴたりと止まりました。
けれど、それもほんの一瞬です。
「まあ」
アルバさんは、にこりと笑いました。
「私は十分、何も見えていない女だと思いますけれど」
そう言って笑うお顔は、とても美しくて。
そしてやはり。
どうにも、ただ恋に浮かされているだけの方には見えないのでした。
「ちなみに、アルバ様はモールデン様のどのようなところを好ましく思われたのですか?」
わぁ。
セラフィタ様、直球です。
今日のアフタヌーンティーのお菓子は何がお好みですか、とでも尋ねるような気軽さで、アルバさんへ問いかけます。
セラフィタ様の深紅の瞳が、アルバさんの熟れた苺のような赤い瞳をまっすぐ見つめました。
「どのようなところ……ですか」
アルバさんは一度、目を伏せました。
白い垂れ耳が、ゆっくりと揺れます。
いざ尋ねられると恥ずかしいのでしょうか。
先ほどまであれほど堂々と愛を語っていらしたのに、ほんの少しだけ頬が赤くなったように見えました。
「……優しいところ、でしょうか」
「まあ」
「ですが、ただお優しいだけではありません」
アルバさんはすぐに言葉を継ぎました。
「臆病なところもあります。決断に時間がかかることもありますし、自分に自信がないくせに、時々妙なところで頑固です」
おや。
想い人のお話をしていたはずなのですが。
「それに、世間知らずです。平民の暮らしなど、ほとんど何もご存じありません。もし今すぐお一人で放り出されたなら、三日と経たずに途方に暮れるのではないでしょうか」
かなり具体的です。
しかも随分な評価です。
「アルバ様はそんな方がお好きなのですよね?」
セラフィタ様が薄紅色の髪を耳にかけ、忻然と微笑みました。セラフィタ様の髪に咲いたロドダモーニの花が揺れています。
アルバさんはくすりと笑いました。
「ええ。心から」
迷いのないお返事でした。
「欠点が見えていることと、愛していることは、別の話ですもの」
──ああ……なるほど。
なんだか、ものすごく納得してしまいました。
「モールデン様は、ご自分を立派に見せるのがあまりお上手ではありません」
アルバさんの声音が少しだけ柔らかくなります。
「けれど、だからこそ私は、あの方の言葉を信じられるのだと思います。怖い時には怖いと仰いますし、迷えば迷ったと仰る。格好の悪いところまで、隠しきれない方なのです」
そこまで言って、アルバさんは少し困ったように笑いました。
「……嘘がお下手なのですよ」
その一言だけは、妙に愛おしそうでした。
「幼い頃から、ずっとそうでした。私が貴族の娘だった頃も、そうでなくなってからも」
白い指が、ティーカップの縁をそっとなぞります。
「私の身分が変わった時も、あの方は私への接し方を変えませんでした」
「それが、嬉しかったのですか?」
セラフィタ様が尋ねます。
「はい」
アルバさんは静かに頷きました。
「とても」
短い言葉でした。
けれど、先ほどの「真実の愛」よりも、なぜだかずっと重く聞こえます。
「私はもう、貴族の御令嬢ではありません。財産も、家名に伴う立場も失いました。それでもモールデン様は、私を私として見てくださった」
アルバさんはそこで、はっきりと顔を上げました。
「ですから私も、ブレイクムーア家の御嫡男としてではなく、モールデン様ご本人をお慕いしております」
なんでしょう。言っていることだけを拾えば、やはり随分と情熱的です。爵位も家も関係なく、愛する方そのものを選ぶ。まさしく、真実の愛。
けれど、先日のモールデン様とはどこか違います。恋に浮かされて周りが見えていないというより、周りを一通り見渡した上で、それでもこの方を選びます、と仰っているような。
セラフィタ様も、何か同じものを感じ取っていらっしゃるのでしょうか。
細められた紅の瞳が、楽しそうにアルバさんを見つめています。
「素敵ですわね」
「……ありがとうございます」
「ご自身が何を選ぼうとしているのか、よくご存じでいらっしゃる」
その言葉に、ほんの一瞬だけ、アルバさんの白い耳がぴたりと止まりました。
「……そうでしょうか」
「ええ」
セラフィタ様は微笑んだままです。
「少なくとも私には、そのように見えますわ」
アルバさんも微笑み返しました。
「でしたら――光栄です」
柔らかな笑顔と丁寧な言葉。それでも、そのルビー色の虹彩だけは妙に強くて――
やはりこの方は、ただ恋に酔っているだけの女性ではないような気がしてなりませんでした。
「では、アルバ様」
セラフィタ様がティーカップをソーサーへ戻します。
「ウィニフレッド様のことは、どのようにお考えなのですか?」
「……ウィニフレッド様、ですか」
アルバさんの耳が、ほんの少しだけ下がりました。
そうでした。モールデン様には、すでに婚約者がいらっしゃるのです。
真実の愛がどれほど美しいものであろうとも、舞台には当然、もうお一人のレディがいらっしゃいます。
「ウィンは――」
アルバさんが、はっと口を閉ざしました。
「……失礼いたしました。ウィニフレッド様は、とても聡明で、お優しい方です」
アルバさんは目を伏せながら、じっとご自身の指を見つめていました。
「私がこのような立場になってからも、変わらず良くしてくださっています。今こうしてグッドファロウ家で働かせていただいていることも含め、私はあの方に大きな恩があります」
「でしたら、なおさら複雑なお気持ちでしょうね」
「……はい」
アルバさんは俯きました。
「申し訳ないと思っています」
それから、一度だけきつく唇を結びます。
「けれど、それでも私はモールデン様を諦めることができません」
あらあらあらあら。
やはり、そこへ戻ってしまうのですね。
「モールデン様も、アルバ様と共にありたいと願っていらっしゃいますものね」
セラフィタ様がそう仰ると、アルバさんの赤い瞳が僅かに揺れました。
「……はい。モリーも、そう言ってくださいました」
モリー。
今度は愛称です。モールデン様の愛称なのでしょう。
先ほどのウィンとは違って、こちらは言い直しませんでした。
それどころか、アルバさんは少し恥ずかしそうに目を伏せています。
なるほど。
これはあれでしょうか。
二人きりの時だけお呼びになる、特別なお名前というものなのでしょうか。
真実の愛というものは、素敵な愛称までもたらすのですね。
大変お勉強になります。
「ですから私は、あの方が望んでくださるのでしたら――どこへでも参ります」
アルバさんはそう言って、セラフィタ様の手元にあるクレマチスへ目を向けました。
その視線を追うように、セラフィタ様も花を持ち上げます。
「そういえば」
紫の花弁を指先でそっと撫でながら、セラフィタ様が微笑みました。
「クレマチスは旅人の花とも呼ばれますのよ」
「旅人の花……」
「ええ。見知らぬ土地でも、しっかりと根を張って咲くのです」
セラフィタ様は花をくるりと回しました。
「海風の当たる場所でも意外なほど丈夫で……『旅人の喜び』という花言葉があるくらいですから、見知らぬ場所に咲くことを厭わない花なのでしょうね」
そこで一度、アルバさんを見つめます。
「隣に寄り添うものがあれば、なおのこと」
アルバさんはクレマチスをじっと見つめていました。
ほんの短い沈黙。
それから、ゆっくりと微笑みます。
「……素敵なお花なのですね」
「ええ。とても」
「私も、そのように強くありたいものです」
白い指先が、ティーカップの縁へそっと添えられました。
「見知らぬ土地でも、海風の中でも。隣に大切な方がいてくださるのであれば、きっと根を張って暮らしていけると思います」
「まあ」
セラフィタ様は満足そうに微笑みました。
「では、アルバ様にはぴったりのお花でしたのね」
「そうかもしれません」
アルバさんも微笑み返します。
私は二人の間に置かれたクレマチスを眺めました。
お花というものは不思議です。
ただ美しいだけではなくて、随分いろいろな意味を背負っているのですね。
赤いスイートピーは門出。
クレマチスは旅人の喜び。
セラフィタ様のお側にいる以上、やはり花言葉のお勉強は避けて通れそうにありません。
――今度こそ、ちゃんと覚えておきましょう。
私は心の中で、こっそりと頷きました。




