第3部 クレマチス 〜アルバ・ウィットコームの花伺い〜①
◆ ◆ ◆
「セラフィタ・ヴェルディエ二爵令嬢様、トコヨ・モチヅキ五爵令嬢様。ご挨拶申し上げます。卑賤の身ながら、このようなお目通りが叶いましたこと、恐悦至極に存じます。私、アルバ・ウィットコームと申します」
流れるような一礼でした。
背筋を伸ばし、手を重ね、ほんの少しだけ頭を垂れる。
ひとつひとつの所作に迷いがなく、あまりにも折り目正しいご挨拶に、私は思わず目を瞬きました。
――アルバ・ウィットコーム。
そのお名前には、つい最近聞き覚えがあります。
というより。
この方は。
先日、廊下ですれ違った、あの白兎の方ではないですか。
思わず胸の内で、あらあらあらあら、と繰り返してしまいました。
雪のように白い毛並み。頭から垂れた長い兎耳に、鮮やかな赤い瞳。
あの時と同じメイド服を身につけていらっしゃいますが、こうして改めて正面から見ると、やはり使用人というより、どこかの御令嬢と言われた方がしっくりくるほど立ち居振る舞いが美しい方です。
ラシェルさんのお話では、かつては本当に貴族家の御令嬢だったとのことでしたけれど。
なるほど。
身についたものというのは、そう簡単になくなるものではないのでしょう。
そういえば、先ほどのご挨拶に、エンヴィアさんのお名前はありませんでした。
セラフィタ様は二爵令嬢、私は五爵令嬢。
対してエンヴィアさんは貴族ではありませんし、今のアルバさんも貴族ではなく、平民です。
つまり、あえて改まってご挨拶申し上げる相手ではない――ということなのでしょうか。
なるほど。
これが貴族の感性……。
私にはまだいまひとつ馴染みません。アルバさんは平民となっても、貴族の習わしをきちんと身につけていらっしゃるのですね。
うう。これは私も当然覚えなくてはならないのでしょうね。大変です。
そして、もうひとつ。
先日のお茶会で聞いた名前も、頭の中に浮かびます。
――モールデン様が想いを寄せていらっしゃる、アルバさん。
まさか、こんなに早くご本人とお会いすることになるとは思いませんでした。
「ようこそお越しくださいました、アルバ様」
私とは違い、セラフィタ様は少しも驚いた様子を見せません。
いつもの穏やかな笑みを浮かべながら、ガゼボの席へと手を差し伸べました。
「どうぞ、お掛けになってください」
「ありがとうございます」
アルバさんはもう一度丁寧に頭を下げてから、勧められた椅子へ腰を下ろします。
エンヴィアさんも、すでに来訪を心得ていたのでしょう。
何も言わず、いつもの手際で新しいカップを用意し始めました。
どうやら驚いているのは、今回も私だけのようです。
今日いらっしゃるのがアルバという方だとは、前もって教えていただいていました。
いただいていました、けれど。
先日廊下ですれ違った、あのパーフェクト白兎の淑女=モールデン様の想い人 =同一人物だとは、完全には繋がっておらず。
まさかね、とは思っておりましたけれども。
花伺いのお仕事を担うには、まだまだ私の察し能力は足りないようです。
気を引き締めなくてはなりません。
――しかし。
アルバさんご本人も、少しばかり落ち着かないご様子でした。
お顔にはきちんと微笑みを浮かべていらっしゃるのですが、頭から垂れた白いふわふわのお耳が、時折思い出したようにぴくり、ぴくりと揺れています。
なんだか、そのロップイヤーの方がアルバさんのご表情よりずっと正直です。
エンヴィアさんが紅茶を置くと、アルバさんは小さく「ありがとうございます」と告げ、カップへ手を伸ばしました。
けれど、すぐには口をつけません。
白い指が、取っ手に触れたまま止まっています。
緊張されているのでしょうか。
それとも――。
「アルバ様」
セラフィタ様の柔らかな声が、ガゼボに響きました。
「今日は、私に何かお話がおありなのでしょう?」
「……はい」
アルバさんの白い耳が、またひとつ揺れます。
そして膝の上に置いていた包みから、そっと一輪の花を取り出しました。
星のように開いた花弁が、風にかすかに震えています。
「こちらを、セラフィタ様に」
「まあ」
セラフィタ様は花を受け取ると、嬉しそうに目を細めました。
「クレマチスですのね」
クレマチス。
私は心の中で、その名前をそっと繰り返します。
このところ、お花のお勉強をしなければならない機会がずいぶん増えたような気がします。
セラフィタ様は花を眺め、それから改めてアルバさんへと微笑みました。
「では――」
いつもの言葉です。
「お話、お伺いしてもよろしいですか?」
「はい」
アルバさんは一度、深く息を吸いました。
「そのために、本日は参りました」
アルバさんは、しばらく手元の紅茶を見つめていました。
やがて意を決したように顔を上げます。
「私には、お慕いしている方がおります」
やはり。
私の背筋が、ぴんと伸びました。
「モールデン・ブレイクムーア様です」
――やはり!
思わず声に出しそうになり、慌てて口をつぐみます。
セラフィタ様はというと、驚くでもなく、ただ柔らかく微笑んでいらっしゃいました。
「モールデン様を」
「はい」
アルバさんの返事に迷いはありません。
「幼い頃から、ずっとお慕いしております」
白い垂れ耳が、ほんの少し震えました。
「私がまだ爵位のあった時のウィットコームの娘だった頃からのご縁です。モールデン様と……グッドファロウ家の御令嬢とは、幼い頃より親しくさせていただいておりました」
そこで一度言葉を切り、アルバさんは小さく息を吐きます。
「けれど、私の家は没落いたしました。今の私は、グッドファロウ家に仕える一介の使用人です」
「それでも、モールデン様へのお気持ちは変わらなかったのですね」
「変わりませんでした」
即答でした。
むしろ、そこだけは誰にも譲るつもりがないと言わんばかりです。
「身の程知らずだとは承知しております。四爵家の御嫡男と、家を失った平民の女です。釣り合うはずがないことくらい、私にも分かっています」
そこまで分かっていらっしゃるなら。
私は少しだけ安堵しかけました。
「ですが」
アルバさんの赤い瞳に、強い光が宿ります。
「それでも私は、モールデン様を愛しております」
あらあらあらあら。
安堵がどこかへ行ってしまいました。
「お家も、お立場も、爵位も関係ありません。あの方がブレイクムーア家の御嫡男でなくなったとしても、私はあの方と――モールデン様と、共にありたいのです」
あらあらあらあら。
これは。
先日もどこかで聞いたような――。
「たとえ何も持たずに放り出されても?」
セラフィタ様が尋ねました。
「はい」
「暮らしていく術がなくても?」
「それは困ります」
アルバさんはきっぱりと言いました。
私は瞬きをします。
(……困るのですね)
思わず目を丸くしてしまいました。
私の表情から何かをくみ取ったように、アルバさんがこちらを向きます。
「はい。当然困ります」
「当然……」
「愛していればお腹が膨れるわけではありませんし、雨風もしのげませんので」
ごもっともです。
ごもっともなのですが。
では先ほどまでの、すべてを投げ打ってでも愛する方と共に――というお話は一体。
「ですから、働きます」
アルバさんは続けました。
「私は使用人として働くことができます。掃除も洗濯も炊事も覚えました。帳簿も読めますし、簡単な商取引の計算もできます。必要であれば、他の仕事も覚えます」
ひとつひとつ、指折り数えるように。
「モールデン様は、平民として暮らした経験がありません。きっと最初は、驚くほど何もできないと思います」
言い切りました。
随分と信頼のおける評価です。
「ですが、あの方は教えれば覚える方です。弱いところもありますし、迷うことも多い方ですけれど……投げ出す方ではありません」
その声だけが、少し柔らかくなりました。
「ですから、私が支えます」
静かな言葉でした。
けれど、先ほどまでのどの言葉より強く聞こえます。




