第7部 兆しの青い花①
ヴェルディエ家の門をくぐった頃には、私の前髪もおおよそ定位置へ戻っておりました。
指で梳かすたびに細かな砂が落ちてきます。
ずいぶんたくさん連れて帰ってしまいましたね。
お花は頂きましたが砂まで頂くつもりはございませんでした。
最後のひと撫でを終えて玄関へ入るとマルグリットさんが足を止められました。
「お帰りなさい。……お二人とも何かございました?」
私の袖からエンヴィアさんの上着へ移った目が、もう一度袖へ戻ってまいります。
髪周りばかり整えても、仕方がなかったようです。
「途中で荷馬車を盗んだ者を見かけまして。三人とも衛士へ引き渡してあります」
「まあ! お怪我は?」
「ありません」
「私も大丈夫です。お馬さんも」
マルグリットさんの垂れた耳が根元から少し浮きました。
お馬さんまで加わるとはお思いになりませんでしたよね。
私も出かける前には想像もしておりませんでした。
侍女長は私たちを順にご覧になってから息をつかれました。
「お話の前に手を洗っていらっしゃい。トコヨさんはお顔もね」
「顔にもついておりますか」
「ええ。右の頬に」
教えていただいた頬へ手をやりかけて止めました。
指の方にも汚れがございます。
取り除くつもりで汚れを増やしては、お顔へ申し訳が立ちませんね。
「あの。お水を頂いてもよろしいでしょうか。先にお花を」
包みから覗く青をお見せするとマルグリットさんの口元が和らぎました。
「お花も一緒に走ったのね。花瓶を出してきましょう」
私はお礼を申し上げて後に続きました。
水差しを置いた台の前で薄紙を外すと、茎へ巻かれた布はまだ湿っておりました。
けれど手のひらで包んでいたせいか、冷たさはなくなっています。
待っていてくださいませ。
もう橋から飛び下りたりはいたしませんので。
マルグリットさんが出してくださった花瓶は、丸いお腹と細い口を持つ小さな硝子の器でした。
淡い緑が底の方だけに溜まっております。
水を入れて花を挿すと曲がった茎が口の縁へもたれました。
青い花は器の丸みに重ならない高さで落ち着きます。
「まあ。ちょうど良いです」
「一本でしたら大きなものより似合うでしょう」
「はい。ふふ、お腹の辺りも可愛らしくて」
花瓶の丸いところを撫でてから自分の手を見ました。
硝子へ指の跡がついております。
あらあらあらあら。
洗うものを増やしてしまいました。
私が慌てて手を引っ込めるとマルグリットさんは布で花瓶をひと拭きしてくださいました。
「お花は私が見ておりますから」
「……お願いいたします」
やっと手を洗いに向かった私の後ろで小さな笑い声がいたしました。
◆ ◆ ◆
セラフィタ様のお部屋には窓から細長い陽が差し込んでおりました。
髪に咲いたロドダモーニの影が薄紅の髪へ重なっています。
エンヴィアさんは新しい花束を卓へ置いて紐を解かれました。
「お待たせいたしました」
「お帰りなさい」
紙の中から青が広がるとセラフィタ様の指が、開きかけの蕾へ伸びました。
触れる寸前で指先を止めて、花の形をなぞられます。
「あら。トコヨさんのお花も同じなのですね」
「はい。エンヴィアさんに頂きました」
両手に持った小さな花瓶をお見せしました。
口に出して申し上げると、嬉しさがもう一度湧いてきて耳まで動いてしまいました。
「帰りに色々ありまして……。最初の花束を傷めてしまったのです」
エンヴィアさんが鋏を手に取られました。
コーンフラワーを一本ずつ持ち上げて切り口を揃えていかれます。
「トコヨさんへお渡しした花だけ無事でしたので」
「お怪我をなさったのはお花だけですか?」
「ええ」
「折れたお花も、花屋さんで飾っていただけるそうです」
「まあ。それでしたら少し安心ですね」
お嬢様は私の花瓶へ目を留められました。
「よくお似合いの器ですこと」
「マルグリットさんが選んでくださいました。今はお借りして飾っております」
硝子越しに細い茎が見えます。
水に沈んだ部分だけ少し太くなったようでした。
お水を飲んだからといって、もう太ったわけではございませんよね?
セラフィタ様に笑われそうですので口には出さずにおきました。
「コーンフラワーの花言葉はご存じですか」
「いいえ。何というのでしょう」
「信頼、というものもあるのですよ」
花瓶を持った指が硝子の丸みに沿って動きました。
信頼。
私は青い花の向こうにいるエンヴィアさんへ、目を向けました。
「ご存じでしたか?」
「存じています。ただ花言葉を考えて差し上げたわけではありません」
「あ。はい」
……承知しておりますとも。
頂いたのが嬉しくて、私の方で勝手に大きなお包みへ入れ直すようなことはいたしません。
でも覚えておいてはいけない、というお話ではございませんよね。
せっかく教えていただいたのですから。
セラフィタ様は私たちの間へ視線を巡らせると紅茶のカップを持ち上げられました。
「窓辺へ置いてくださいますか? 午後の間だけでもよく見える場所へ」
「承知しました」
エンヴィアさんが白い花瓶を持ち上げました。
ひと抱えの青が光の中へ運ばれていきます。
陽を受けた花弁の縁は、銀の糸を梳いたように細くほどけておりました。
お嬢様の薄紅とはまるで違う色なのに、同じ窓の光を透かすと不思議と馴染みます。
私の一本も少し離れてご一緒させていただきました。
並べるとずいぶん小さな花瓶です。
花束へご挨拶をしているように、青い顔が傾いておりました。
「トコヨさんはもう少し休んでいらしてくださいね。紅茶もございますから」
「ありがとうございます」
お言葉に甘えて窓のそばで足を畳みました。
前の二本を揃えると、後ろの二本からもようやく終わりですか? という具合に力が抜けます。
思ったより走っていたのですね。
身体を落ち着けた途端に、お腹までお返事をいたしました。
こちらからはまだ終わっておりません! というご意見のようです。
四本の足とお腹で話し合っておいてくだされば良いのに。
紅茶を運んでくださったマルグリットさんが小さなお皿も卓へ置かれました。
「お台所からです。まだ温かいうちにどうぞ」
林檎の焼き菓子でした。
薄く重ねた生地の端がこんがり色づいております。
中の林檎には煮汁が艶を添え、焼けた縁へ蜜のように寄っていました。
お礼を申し上げてフォークを入れると、底の方でさくりと軽い音がいたします。
温かい林檎がほどけた生地へ沈みました。
一口頂くとまずバターの香りが鼻へ抜けていきます。
歯を立てた林檎から甘酸っぱい汁が滲み、舌に残った薄い生地までじゅわりと湿りました。
端の焦げた砂糖は、少しだけほろ苦くて次の一口を急がせます。
ああ。
お腹の意見が正しかったです。
まだ終わりにしなくて良かったです。
「美味しいです……!」
「ええ。林檎が柔らかくなりましたね」
セラフィタ様は紅茶を一口召し上がってから、お皿へ手を戻されました。
小さく切り分けた林檎の表に窓の光が滑ります。
「それで。お花を傷めてしまったお話を伺っても?」
フォークを置くとエンヴィアさんが、首を僅かに振られました。
「召し上がっていてください。私からお話しします」
荷馬車を見かけた場所や、衛士へ引き渡したことを淡々とお伝えになりました。
短くまとまると、何とも手際の良い出来事のように聞こえます。
私のお腹が橋へ置いていかれかけた部分は入っておりませんでした。
今はちゃんと戻ってきておりますから良いのですが。
「トコヨさんが道を塞いでくださったので、三人とも逃がさずに済みました」
名前が出た時には、ちょうど焼き菓子を口へ入れたところでした。
セラフィタ様が私をご覧になりましたがすぐにはお返事ができません。
急いで頷くと生地の欠片がお皿へ落ちました。
落ち着きなさいませ。
もう逃げる方はいらっしゃいません。
林檎を飲み込んでから、私は背筋を伸ばしました。
「エンヴィアさんにお助けいただきました。私だけでは追いつけなかったと思います」
「お二人でお出かけになって良かったですね」
セラフィタ様の赤い瞳に、窓辺の青が小さく映っていました。
私が何かお返事をする前に、セラフィタ様は空になったカップをソーサーへ戻されます。
「もう少し頂けます?」
「はい」
エンヴィアさんがティーポットを持ち上げました。
琥珀色の細い流れがカップへ注がれ、紅茶が八分目まで満ちたところで手が止まりました。
エンヴィアさんは取っ手がセラフィタ様の手元へ向くようにカップをソーサーごと回してから手を離されました。
とても見慣れた動作です。
私はお皿の端に残った生地をフォークで寄せました。
紅茶を差し出す手を見ると、聞いてしまったあの言葉が戻ってきました。
──私がお前を殺す。
あんなことをはっきりおっしゃった方と、今日の私は一緒に走ったのでした。
「トコヨさん。紅茶はいかがですか」
顔を上げると、エンヴィアさんがティーポットを手に待っていらっしゃいました。
「……頂きます。ありがとうございます」
差し出したカップへ湯気が昇りました。
掌を包む温かさは私がうまく考えられるようになるまで待ったりはせずに指の先まで広がってまいります。




