第7部 兆しの青い花②
◆ ◆ ◆
陽が傾き始めた頃に私はお暇することにいたしました。
花瓶はマルグリットさんのご厚意でお借りして帰ることになりました。
持って歩いても水が跳ねないように、少し減らしていただきます。
硝子の底へ折った布を巻くと、両手にちょうど収まりました。
「花が終わってからで構いませんよ」
「ありがとうございます。綺麗にしてお返しいたします」
お礼を申し上げたあとで、花へ目を落としました。
長く咲いていてくださると良いですね。
花瓶をいつまでも借りたい、という意味ではございませんよ。
玄関まで出ると、エンヴィアさんが書類を揃えていらっしゃいました。
薄い革の書類挟みからは、もう埃が払われております。
紐へ指を掛けた横顔を見て、私は足を止めました。
「……あの。エンヴィアさん」
「はい」
「またお買い物へ、ご一緒してもよろしいでしょうか」
口にしてから肩に力が入っていたことに気づきました。
お花を揺らさないように肘を下げます。
「お仕事のお邪魔でなければ。ご用事のある時だけで結構ですので」
「構いません。トコヨさんのお勤めが済んでいれば」
「ありがとうございます」
エンヴィアさんは書類へ目を戻されました。
お願いする前に、頭の中で用意していたご説明がまだ幾つか残っております。
出番がなくなってしまいました。
お忙しいところへ大勢で押しかけなくて良かったです。
「……え、と、荷物を持つものもございますし。次は籠を持ってまいりますね」
「助かります」
紐の先がきちんと揃えられました。
「ただし何も起きなければ普通の買い物ですよ」
「普通のお買い物が良いです!」
少し声が大きくなってしまいました。
エンヴィアさんの目が書類から私へ戻ります。
橋から飛び降りる用事は当分ございませんように。
「ではまた」
「はい。……また」
挨拶をお返ししてから、私は花瓶を抱え直しました。
戸口の手前で角を低くする間にも、青い花は胸の前で小さく揺れております。
通りへ出て振り向くとエンヴィアさんはまだ玄関にいらっしゃいました。
空いた片手を少し上げると静かに会釈が返ってきました。
私は花瓶の下へ手を戻して歩き出しました。
◆ ◆ ◆
夜になって身支度を終えると足の疲れが今度こそ追いついてまいりました。
四本を畳んでしまえば立ち上がりたくなくなると分かっておりましたので、先に炬を手元へ運びます。
次のお買い物に持っていく籠も寄せておきました。
花瓶の水も替えました。
今日は私よりずっと長く立っていらっしゃったのですから、お花にも綺麗なお水を差し上げなくては。
鞘の白い擦り傷は布で拭いても消えませんでした。
けれど埃を落とすと、傷の周りにはいつもの艶が戻ります。
指の腹でそっと確かめてから刀を置きました。
今日は一日お世話になりました。
明日はぶつけずに、持って歩きますので。
ようやく身体を休めると、前の足の付け根がじんわりと重くなりました。
窓辺の硝子へ灯りが映っています。
水の中を通った茎が、器の丸みに沿って曲がって見えました。
ほんの少し身体を動かすと、水の下の茎だけ違う方へずれます。
昼間にも見ていたはずなのに、ついもう一度やってしまいました。
変な顔をしておりましたら申し訳ございません。
お花ではなくて硝子を見ているのです。
背を戻して息をつくと、部屋の中がようやく静かになりました。
エンヴィアさんは今頃どうしていらっしゃるのでしょう。
まだセラフィタ様のお世話をなさっているかもしれません。
帰り際にもお仕事の書類をお持ちでした。
私の足はもうすっかり畳まれておりますのに。
お仕事が済んだら何をなさるのでしょう。
本をお読みになるのでしょうか。
好きなシーンを読んでいれば、少しくらいお顔も変わるのかしら。
玄関で一つくらい伺ってみても良かったのかもしれません。
次のお買い物のお許しを頂けただけで、すっかり慌ててしまいました。
私は籠を引き寄せて持ち手を確かめました。
何も入れていない今は気になりませんが、荷物が増えると指へ食い込みそうです。
用意しておいた細長い布を巻いてみることにしました。
端を重ねながら巻きつけていると、背中に残った重みを思い出します。
エンヴィアさんを乗せて走る日が来るなんて、昨日の私へ教えてもきっと信じないでしょう。
しかも途中で降りていただくどころか、橋から一緒に飛び降りてしまうのですから。
あの時、怖かったはずなのですが、風に身を預けることへためらいはありませんでした。
布の端を持ったまま花を見ました。
花言葉を考えて差し上げたわけではない、とおっしゃっていましたね。
私の足は頼りにしていただけたのですよね。
止まっていた指を動かすと、布が緩んで落ちかけました。
慌てて押さえてから結び目を作ります。
聞きたいことを一度に並べてしまったら、きっと玄関では足りなくなりますね。
でも、お買い物のお許しは頂けました。
次は籠を持ってお待ちしていれば良いのです。
陰へ隠れたり、十秒を数えたりせずに。
巻き終えた持ち手を握って持ち上げると、布が指へ柔らかく当たりました。
これなら梨を入れても、手のひらが痛くならないでしょう。
お花を買うなら、林檎や梨の下へ押し込まないようにいたしませんと。
……まだ何も頼まれておりませんよ。
私は空の籠を脇へ置いて朝の杯を取りました。
洗って乾かした縁を布で拭きます。
いつかエンヴィアさんが、大事なお話をなさりたい時にも私の名前を呼んでくださったら嬉しいです。
走ったり荷物を持ったりする以外にも、出来ることがあるかもしれません。
すぐに上手なお返事が出来るかは分かりませんけれど。
お話を伺う間くらいは、私の頭の中にも静かにしていただきましょう。
いつか信頼していただけたら。
教えていただいた花言葉を、心の中で呟いてから杯を窓辺へ置きました。
小さな花瓶の隣に今はまだ空の器が並びます。
明日の朝はお花の分も水を汲みましょう。
青い花へおやすみなさいを申し上げてから、灯りを落としました。




