第6部 残された一輪②
◆ ◆ ◆
「三人ともこの荷馬車に?」
「はい。橋を二つばかり向こうへ戻った通りで奪われたものです。持ち主もそちらにいらっしゃいます」
エンヴィアさんが衛士の方へお話ししている間に私は拾われた小刀を見ておりました。
衛士の方の手に収まっているとそれほど大きくは見えません。
先ほどは肩の端から端まで届きそうに見えましたのに。
手首を縛られた男が文句を言うたびに、衛士の方がこちらへ背を向けさせます。
私も倉庫の方へ縄のお礼を申し上げました。
「いや。あんたにぶつかった時のあいつの顔ときたら」
ご自分の頬を押してみせながらお笑いになります。
私はどんなお顔をしていたのでしょう。
なるべく穏やかなものだったら良いのですが、あの時は足を踏まれないようにするので忙しかった気もいたします。
「馬は大丈夫でしょうか」
「走らされて気が立ってるが落ち着いてきたよ。ほれ」
手綱を取っている方のそばへ寄りました。
濡れた首筋が日を受けて光っております。
こちらへ向いた耳を見て足を止め、驚かせないよう少し離れたところからお顔を覗きました。
鼻の穴が広がります。
ふすんと吐き出された息が前髪を揺らしました。
「お疲れさまでした」
あなたも大変でしたね。
私たちは途中で跳んだり曲がったりできましたが馬車を繋がれたままではそうもいきません。
額へ触れても嫌がらなかったので少しだけ撫でました。
指の間へ入った毛が汗で温かく湿っています。
私も走ってきましたからお互いさまですが、労いのコミュニケーションをするのはやめておきました。
どちらの汗か分からなくなってしまいます。
「トコヨさん」
呼ばれて顔を上げるとエンヴィアさんが御者台の脇に立っていらっしゃいました。
手には書類挟みと花束があります。
包み紙の真ん中に靴底の跡がついておりました。
「……お花」
近づくと紙の端から青い花弁が一枚落ちました。
慌てて手を出しましたが指先を擦って石畳へ降りてしまいます。
細かく裂けた先が風に震えました。
「すみません。座席の下へ押し込んだ時に端が出ていたようです」
エンヴィアさんが紐を解かれました。
開いた紙の内側で花が幾つも伏せております。
茎の途中で折れたものもあれば青い部分だけ潰れてしまったものもありました。
私が拾おうとした一枚よりもっとたくさんの青が紙へ貼りついています。
蕾までぺしゃんこになっておりました。
まだこれから咲くところでしたのに。
「エンヴィアさんがお怪我をなさらなくて良かったです」
そう伝えてから紙の中へ目を戻しました。
「でも……こちらは残念ですね」
「ええ」
指を添えた茎は曲がったところから戻りませんでした。
先ほどお店でお辞儀をしていたものとは違います。
あの時の一本はどちらでしょう。
重なった花をそっと覗くとエンヴィアさんの指が包みの端を持ち上げました。
外側に一本だけ青い花が残っておりました。
紙に沿って横を向いています。
「あら」
茎を辿ると見覚えのある緩い曲がりがありました。
その先の葉も花も潰れておりません。
端へ回していただいていたので踏まれるところから外れたのでしょうか。
花弁の一部は乱れておりますが青い顔はきちんとこちらを向いていました。
「あなたはご無事だったのですね」
つい話しかけると、エンヴィアさんがその一本を抜き取られました。
指の間で半分ほど回してから、他の花と重ならないところへ置かれます。
「お嬢様には買い直しましょう。もう一度お店へ寄っても?」
「はい、もちろんです」
書類挟みの表へついた埃をエンヴィアさんが払われました。
私は石畳へ落ちた花弁を拾って包み紙へ戻しました。
何枚拾っても元へは戻りませんが、ここへ残して踏まれてしまうのは忍びませんでした。
◆ ◆ ◆
衛士の方へ名前と勤め先をお伝えしてから私たちは花屋へ戻りました。
持ち主への確認は衛士局でしてくださるそうです。
エンヴィアさんは途中で落ちた木箱のこともお伝えになっていました。
道へ散ったアラガネも、残らず持ち主の方の手元に戻ると良いのですが。
来た時にはずいぶん遠く感じられた道も歩いて戻ると幾つかの角を曲がるだけでした。
もちろん橋の上へは階段で戻りました。
どなたが、上から降りたのだから下からも跳べるのではないか、とお考えでしたら困ります。
私の足からは階段を使いたいという意見が出ておりましたので。
欄干のそばで足を緩めると下の道に荷馬車が見えました。
先ほどの馬が人に引かれてゆっくり歩いています。
あちらから、ここまではこんなに高さがあったのですね。
「……よく降りられました」
「足の置き方がお上手でしたから」
「風がなければ置く前に折れてしまいます」
お返事をしながら前足を一本浮かせました。
きちんとついていてくれて良かったです。
自分の足がきちんとそこに備わっていることのありがたみを、こんなにしみじみ感じたのは久しぶりでした。
「助かりました。ありがとうございました」
エンヴィアさんが立ち止まられたので私も足を揃えました。
川からのぼってきた風が襟元の布を小さく動かします。
先ほどまでそこにしがみついていた埃を、指で払われるといつものお姿に戻ってしまいました。
私の前髪はまだ右と左で別の方を、あちこち向いて乱れておりますのに。
「私もです。あの……重くありませんでしたか」
尋ねてから逆だと気づきました。
乗っていらしたのはエンヴィアさんです。
「橋から降りる時のことです! 支えていただいたので!」
「ええ。そちらのことだろうと思いました」
目尻にほんの僅かな皺が寄りました。
分かっていただけていたのでしたら、大きな声で説明しなくても良かったですね。
通りかかった方までこちらを振り向いてしまいました。
「あなたこそ足を痛めていませんか。少し休んでからでも」
「大丈夫です。お花を先にお水へ入れてあげましょう」
包みの外へ青が覗いております。
私よりずっと細い足でここまでお付き合いくださったのですから、座る順番を譲るくらいはいたします。
花屋の戸口へ戻ると鈴がちりんと鳴りました。
店主の方は私たちの手元を見て口を開き、そのまま奥から浅い器を持ってきてくださいました。
「どうなさいました」
「少し取り込みまして。同じものをもう一束お願いできますか」
「それは構いませんが……お二人ともお怪我は?」
「ありません」
私も頷きました。
差し出された器へ花束が移されます。
店主が紙を開くと青い花弁が白い底へ零れました。
「これはまた」
それ以上はおっしゃらずに手際よく茎を分けていかれます。
折れたところで切れば短く飾れる花もあるそうで、その幾つかは小さな器へ移していただけました。
手のひらへ載りそうな水たまりの上で、青い花が浮かんでおります。
茎の長い時とは違うお姿ですがこちらも可愛らしいものでした。
「お店に置かせてもらいますね」
「ありがとうございます」
お礼を言うと店主は少し不思議そうになさってから器を窓辺へ寄せてくださいました。
私のお花ではないのですが、ここでお水を飲ませていただけるなら良かったです。
新しく選ばれたコーンフラワーが台へ並びました。
エンヴィアさんはまだ開いていない蕾を二本加えていらっしゃいます。
紙が巻かれていくそばで、曲がった茎の一本だけが台へ残りました。
店主が花の端をそっと整えてくださいました。
「こちらは大丈夫ですね。茎を切り直しておきましょう」
鋏が一度鳴りました。
切り口へ濡らした布が巻かれていくのを見ながら私は首を傾げます。
新しい花束の方はもう紐で結ばれておりました。
そちらには一緒にしないのでしょうか。
「トコヨさん」
エンヴィアさんが一本の花を差し出されました。
「よろしければお持ちになりますか」
「……私がですか?」
「はい」
青い花の向こうへ目をやりました。
薄い紙で足元だけ包まれた茎がこちらへ差し向けられております。
手を出しかけてから新しい花束を見ました。
「こちらもお部屋へ飾るのでは……」
「数は揃いましたから。捨てるよりは」
そのようにおっしゃいましたが切り口にはもう濡れた布が巻かれています。
捨てるものにもこんなふうにしてくださるのでしょうか。
お尋ねする前に花の方が近づいてきたので私は両手を出しました。
「ありがとうございます。頂きます」
指へ触れた紙がしっとりと冷たく感じられました。
曲がった茎の先で青い花が一度揺れます。
今朝は桶の端でこちらを覗いていた方が私の手へ引っ越してまいりました。
あちらでは頭を持ち上げたり離したりしてしまいましたが、今度はこちらを向きやすいようにいたしましょう。
包みを少し回すとちょうどお顔が見えるところへ落ち着きました。
「今度はそのままで大丈夫ですよ」
「何か?」
「お花にです」
エンヴィアさんは私の手元へ視線を下げられました。
何もおっしゃらずに花束を抱え直されます。
店を出る時にはその空いた手で戸を支えてくださいました。
私は角と青い花の両方を戸口へぶつけないよう少し身を屈めました。
表へ出ると花弁の先が陽を透かし、青の縁に細い光が宿りました。
私の影の中に小さなお花の影が一つ増えております。
歩くたびに伸びたり丸くなったりするので少しだけ持つ高さを変えてみました。
あら。
上へ持ち上げすぎると角のお仲間になってしまいますね。
胸の前へ戻して顔を上げるとエンヴィアさんは角の手前で足を緩めていらっしゃいました。
花の影ばかり見ていてはまた道を教えていただくことになってしまいます。
私は包みを胸へ寄せてその隣へ追いつきました。
帰ったらまず、水を入れる器を探しましょう。
少し首を傾けたままでもお顔のよく見えるものが良いですね。
次の角を曲がる時には花へ風をまともに当てないよう、私は手のひらをそっと添えました。




