第6部 残された一輪①
お腹の中身だけ橋の上へ置いてきてしまったようでした。
足の下にあるはずの道はまだ遠く、川面が目の端でぎらりと光ります。
あらあらあらあら!
下から風が吹き上がりました。
腹を押し上げる空気に四本の足が浮きかけましたが、背にかかる重みは左右へぶれません。
私は咄嗟に顎を引いて足を下へ向けました。
迫っていた石畳がふっと遠のくように見えます。
「そのまま」
耳元のお声とほとんど同時に、前足の蹄が道を捉えました。
足を畳んで衝撃を受け流し、後ろ足が着くのを待たずに身体を前へ送り出します。
背中で上着の裾が翻るのを感じる間も無く、次の一歩ではもう走り出していました。
「着きました!」
「ええ。追いつけます」
私の足もエンヴィアさんもきちんとついてきています。
お腹の中身だけはまだ少し遅れているようですが待っている暇はございません。
前を行く荷馬車との間は先ほどよりずっと縮まっておりました。
荷台の男がこちらへ顔を向けます。
橋の上に目をやってから、私たちへ視線を戻したお顔が妙な形になりました。
橋から降りてくるとはお思いになりませんでしたよね!
私もつい先ほどまでそうでした。
「おい! 後ろ!」
男が荷台の隅へ手を突っ込みました。
引きずり出された縄の網が木箱の角へ引っ掛かり、乱暴に外されるとぱっと広がります。
あれを足へ絡められては走ることができません!
男が腕を振るより早く、私は川と反対の側へ寄りました。
それでも投げ出された網は道を斜めに塞ぐように降ってまいります。
「上へお願いします!」
返事より先に網の真ん中が持ち上がりました。
風を孕んだ目がぴんと張り、私たちの方へ膨らんできます。
右手を上げました。
指先へ魄力を寄せると小さな赤が灯ります。
その色に一瞬だけ喉が狭まりました。
けれど焼きつける場所は目に入っております。
網の端から端へ細く走らせた火が結び目を順に断ちました。
焦げた縄の匂いが鼻を掠めます。
開いた切れ目へ風が通り、裂けた網が私たちの両側へ捲れ上がりました。
火を消してその間を駆け抜けます。
乾いた縄が背後の石畳へ落ちる音を聞きながら私は指を握りました。
「抜けました!」
「そのまま横へ。川側は避けてください」
倉庫の並ぶ側へ回りました。
車輪の軸が目のすぐ下で忙しく回っております。
こちらへ寄せられても逃げられる幅を残して足を運ぶと、エンヴィアさんの手が帯から離れました。
「御者台へ移ります。合図をしたら寄せていただけますか」
「はい!」
御者の隣にいた男が腰を浮かせました。
握った小刀をこちらへ突き出してきます。
「離れて!」
私は倉庫の方へ一歩跳ねました。
刃が肩のあった場所を通り過ぎます。
身を乗り出した男の腕が伸びきるのを見て、帯から鞘ごと引き抜いた炬を返しました。
手首を捉えた感触が掌へ伝わります。
緩んだ指から小刀を攫ったのは風でした。
刃が石畳を滑って壁際へ遠ざかります。
男は空になった手を見てから私へ向き直りました。
そちらをご確認いただいている間に失礼いたします。
馬の歩調を見ながら御者台の脇へ身体を寄せました。
「今でしたら!」
背の重みが腰の辺りへ移りました。
黒い裾が肩を越えていきます。
エンヴィアさんは御者台の縁へ足を掛けると書類挟みと花束を座席の下へ滑り込ませました。
振り向いた御者が鞭を振り上げましたが、その鞭の先はおかしな方へ曲がって男自身の腕に巻きつきました。
エンヴィアさんの片手がその腕を押さえます。
もう片方は手綱へ伸びておりました。
「馬の横を空けてください」
「分かりました!」
離れる間際に風で上着を煽られた男が後ろへよろめくのが見えました。
先ほど小刀を持っていた方が荷台へ尻餅をついております。
箱の間で起き上がろうとしているお姿を横目に私は少し速度を落としました。
馬の首が上を向きます。
手綱を握る二人の腕が重なり、荷馬車の車輪が少しずつ遅くなり──
途端に荷台の後ろから人影が飛び下ります。
網を投げた男でした。
「そちらへ行きます!」
私は後ろ足を踏み込みました。
逃げる男の前へ回って進路を塞ぐと、勢いのついた肩がこちらへぶつかってきます。
四本の足で地面を踏んで受け止めます。
私の方が軽いとお思いになったのでしょうか?
後ろ足を省いて数えられては困ります。
「どけ!」
襟元へ伸びてきた腕を鞘で外へ払い、空いた手で男の肘を取りました。
身体を捻りながら足先へ鞘を差し入れます。
踏み出せなかった足がもつれて男は尻餅をつきました。
すぐに起きようとなさったので掴んだ腕を背中へ捻り上げます。
「動かないでください! 腕を痛めます!」
痛めさせるのは私ですのでお願いするのも少し変ですが、動かれると本当にそうなってしまうのです。
倉庫の戸口に人の姿が見えました。
「縄をお借りできますか!」
「そこで使うならある! 待ってろ!」
顔を引っ込めた方が縄の束を抱えて戻ってきてくださいました。
その向こうで馬の蹄が足踏みをします。
もう車輪は回っておりませんでした。
「トコヨさん、伏せて!」
耳がそちらを向くより早く上体を伏せました。
頭上を腕がかすめていきます。
小刀を失くした男がすぐ脇まで来ておりました。
背後から首へ腕を回すおつもりだったようです。
掴まれている男まで暴れ出して、にっちもさっちもよっちもいかなくなりそうでしたが、目前へ来た袖が横へ引っ張られました。
男の襟も髪も倉庫の方へ靡いております。
肩越しに御者台を見ればエンヴィアさんが片膝をついてこちらをご覧になっていました。
その足元で御者の腕が押さえ込まれています。
「こっちは持つ!」
縄を持ってきてくださった方が座り込んだ男の肩を掴みました。
私は手を離して右へ向き直ります。
風に逆らってこちらへ伸びてきた手を鞘で払い、腕の内側へ踏み込みました。
掴んだ肘を持ち上げながら身体を回すと、男の踵が浮きます。
足の置き場所がなくなったところで肩を押し下げました。
膝をついた背中へ腕を畳ませ、鞘を脇に挟んで差し出された縄を受け取ります。
「縛りますからじっとしていてください!」
「知るか!」
あらそうですか。
それでは知らないままで結構です!
暴れる手首を揃えて縄を回しました。
指を挟まないよう結び目を締めたところでようやく自分の息の音が聞こえてまいります。
ふぅ。
御者台から男が下ろされました。
腕を後ろへ取られたまま足をもつれさせておりますが、エンヴィアさんの片手はその襟を離しません。
馬は少し先で首を振っておりました。
倉庫から出てきた別の方が手綱を持ち、鼻先へ手を差し出していらっしゃいます。
「怪我は」
エンヴィアさんに尋ねられて私は自分の手を見ました。
指も腕も動きます。
四本の足へ順に体重を移してみてもおかしなところはございませんでした。
「大丈夫です! エンヴィアさんは!」
「私もありません。もう聞こえますよ」
「……はい」
そうでした。
車輪も蹄も騒いでおりません。
声だけがまだ先ほどの勢いに乗っておりました。
私は息を一つ吐いてから炬の鞘へ目を落としました。
薄くついた白い傷を親指でなぞります。
帰ったらお手入れをしましょうね。
最後にもう一度柄を握って帯へ戻すと橋の方から呼び合う声が聞こえました。
衛士の方々がこちらへ駆けてきます。
そのお姿を見た途端に、後ろ足が少しだるくなっていることに気づきました。
疲れましたね……。
いえいえ、今はまだ畳みませんよ。
座る場所はもっと良いところを探してからです。




