第1部 赤いスイートピー 〜モールデン・ブレイクムーアの花伺い〜③
具体的な駆け落ちの計画は、相変わらず何ひとつ見えてきません。
けれど少なくとも、モールデン様のお心だけは固まっているようでした。
「ブレイクムーア四爵は、それほどお身体の具合がお悪いのですか。私からもお見舞いを申し上げなければなりませんね」
「いえ、父は具合が悪いせいか、気分の方も優れないようで……。セラフィタ様のお言葉だけでも、俺から伝えておきます」
そうお答えになった途端、モールデン様の長くぴんと天を向いていたお耳が、頭に沿うようにしゅんと伏せられました。
思い出すだけでもお辛いのでしょうか。
どうやら、今のブレイクムーア四爵はよほどご機嫌がよろしくないようです。
現在のブレイクムーア家当主、ブロデリック・ブレイクムーア四爵は、エンヴィアさんから聞いたところによれば、なかなか派手な経歴をお持ちの方なのだそうです。
人によっては眉を顰めるような手段も使いながら、ブレイクムーア家を今の地位まで押し上げたのだとか。
詳しい事情までは私には分かりませんが、最近は以前ほど表立って動いてはいないとのことでした。
もしかすると、それもお身体の具合が思わしくなく、外出を控えていらっしゃるからなのかもしれません。
「そうですか……。それでは、お花だけでも四爵にお届けいたしましょう。あとでエキナセアをお送りしますわ。お願いしますね、エンヴィア」
エンヴィアさんは承知したと示すように胸元へ手を添え、静かに腰を折りました。
その動きに合わせて、両腕を成す黒い翼が、陽光を受けて紫や緑の艶をちらりと返します。
一つひとつの所作が、なんとも美しいです。
こういう仕草に、完璧な従者というものは現れるのでしょうか。
私も見習わなくては。
「色は白がよろしいですわね。白いエキナセアには、お相手を癒したいというような意味合いがございますの。もともとは根に薬効があるお花なのだとか」
「なるほど……。それはお見舞いに相応しい花なのですね。お気持ち、痛み入ります」
主人はモールデン様へ微笑みかけたあと、ふと私にもその真紅の瞳を向けました。
……これは。
私にも覚えておくように、ということでしょうか。
私はつい先ほどまで存じ上げなかったのですが、巷ではとっても有名らしい『花伺い令嬢』。
その侍女たるもの、やはりお花についても詳しくなくてはならないのでしょう。
お客人のお名前に、お家柄に、社交界のこと。
それから今度は、お花と花言葉まで。
うう。
どうやら、お勉強することがまた一つ増えてしまったようです。
セラフィタ様のお花談義はまだまだ続き、
「今日モールデン様がくださったスイートピーにも、色によってさまざまな花言葉がございますの。貴族の方々はお花に意図を含ませることも多いですから、意味をよく考えて贈りませんと、大変なことになってしまう場合もございますわ」
そうおっしゃるセラフィタ様の真紅の瞳は、なぜか私へ向けられたままです。
つられるように、モールデン様までこちらをご覧になりました。
あらあらあらあら。
これはもしや、私へ向けてご説明なさっているのでは?
「モールデン様。こちらはモチヅキ五爵令嬢のトコヨさんです。最近、私の侍女として動いていただいておりますの」
「あのモチヅキ家の……」
モールデン様が、どこか感心したように声を漏らしました。
あの、とはどのモチヅキ家のお話でしょうか。
私は五番目の妻の八女です。そんな大層な人間ではございません!
突然お話の矛先がこちらへ向いてしまったものですから、慌てて深く礼をいたしました。
……少々、不格好だった気がします。
恥ずかしい。
「トコヨさん。今日モールデン様がくださったスイートピーには、どのような花言葉があるかお分かりになりますか?」
分かりません。全然分かりません。見当もつきません。
にっちもさっちも、よっちもいきません!
――とは、もちろん申し上げられません。
必死に頭の中を探ってみます。
花言葉というものは、恋だとか愛だとか、そういう言葉が多かったような気がします。
でしたら、ひとまずそのあたりを答えておけば、運良く当たったりしないでしょうか。
「ええと……恋のお花、ではなかったでしょうか」
「ええ。間違いではありませんわ。桃色のスイートピーには『恋の楽しみ』という花言葉もございますのよ」
セラフィタ様のたおやかな微笑みを見て、
――やった!
と、私は心の中で両の拳を天へ突き上げました。
「ただ、モールデン様がお持ちくださったスイートピーは赤いお色です」
桃色とは、また別の意味があるのでしょうか。
「赤いスイートピーは、門出の花の意味合いがございます。春の終わり頃、雨が続いたあとにふっと晴れた日に、一番よく咲くと聞きますね。南へ向かう道では特に」
なるほど。
暖かな土地を好むお花なのでしょうか。
南へ続く道の傍らいっぱいに赤いスイートピーが咲いているところを想像して、きっと綺麗だろうなあ、と思いました。
「ただ……山沿いの近道は景色こそよいのですけれど、雨のあとは足元が緩むと聞きますわ。遠回りでも、川沿いの道の方が馬には優しいと、エンヴィアが申しておりましたの」
「馬に優しい道、というのは大事なことだと思います。大切な友なので……」
そうおっしゃったモールデン様の表情は、とても優しげでした。
モールデン様は二ツ足の下半属でいらっしゃいますから、乗馬がお好きなのかもしれません。
私のような四ツ足の下半属ですと、自分の脚で駆けることの方がよほど身近ですので、馬の背に乗るという感覚はなかなか想像がつきません。
けれど、馬は賢く愛らしい生き物だと聞きます。
そんな相棒と一緒に草原を駆けるのなら、それはきっと、とても楽しいことなのでしょう。
「あら。モールデン様は馬がお好きですか? 私が使っておりますのは竜車なものですから、あまり触れ合う機会がありませんの」
「ええ。幼い頃から慣れ親しんでいて。馬は……嘘をつかないので、好きなんです」
貴族社会には、すっかりうんざりしていらっしゃるらしいモールデン様のお言葉。
きっと、根は素朴な方なのでしょう。
「小さな頃は、アルバとウィン……あ、ウィニフレッドと、よく乗馬をしました。アルバは一人では馬に乗れなくて、俺と一緒に跨って……ウィニフレッドは勇ましくて、一人でどこまでもどこまでも走っていってしまうんです。二人で探すのが大変だったなあ」
昔を懐かしむように、モールデン様は目を細めました。
ウィン。ウィニフレッド様のことを、そんな愛称で呼んでいらっしゃるのですね。
モールデン様と、アルバさんと、ウィニフレッド様。
三者三様の想像の幼い頃の姿が、なんとなく頭の中に浮かんでは消えていきました。
「あの頃は良かった……。でも、懐かしんでばかりもいられませんね。俺も、なんとか変わらないと」
そう言って、モールデン様は居住まいを正し、席を立たれました。
セラフィタ様も、お見送りのために立ち上がります。
どうやら、このお茶会もおしまいの時間のようです。
「良いご報告ができれば、と思います」
「果報をお待ちしておりますわ」
遠ざかっていく兎の紳士の背を、セラフィタ様は静かに見送っていらっしゃいました。
その長い薄紅色の髪と、美しい御髪を彩るボルドー色のリボンが、風でさらりと揺れています。
髪に咲く可憐な花からは、爽やかな柑橘と甘い蜂蜜を思わせる香りが漂い、ガゼボの中をやさしく満たしていました。
世間では『花伺い令嬢』などと噂されているそうですが。
これが、その花伺いのお茶会――というものなのでしょうか。
少なくとも、私にとって初めてのソレは、どうやら無事に終わったようです。
「緊張してしまったかしら、トコヨさん」
セラフィタ様が、優しく微笑みかけてくださいました。
こういう時は、侍女として「いいえ」とお答えするべきなのでしょうか。
ほんの少し迷った末に、
「……緊張しました」
正直に申し上げました。
セラフィタ様はくすりと笑って、私の背を軽く撫でてくださいます。
お優しい方だなあ。
そう思っていたところで、
「また近々ありますから、少しずつ慣れていってくださいね」
主人は、にこやかにそう告げました。
その傍らでは、エンヴィアさんが慣れた手つきで、何事もなかったかのように紅茶の片付けを始めています。
……。
どうやら私はやっぱり、大変なところへ侍女に来てしまったのやもしれません。




