第4部 コーンフラワー①
翌朝は十を数えずに玄関へ向かいました。
エンヴィアさんが出ていらしたところで、私は胸の前に揃えていた手をほどきます。
「おはようございます! 今日はご一緒してもよろしいでしょうか」
「おはようございます。どちらまでですか?」
そこはまだ決めておりませんでした。
いえ私が決めることではないのですが、昨日のうちに考えておいた言葉はここまでだったのです。
「……どちらへいらっしゃるのでしょう」
「術導院へ。お嬢様からお預かりした書類を届けにまいります」
脇に抱えていらっしゃる革の書類入れを見て頷きました。
それでしたら私も知っている場所です。
知っている場所へ行く方についていけば、少なくとも行き先に困ることはございません。
「では術導院まで」
「今日は授業がおありでしたか?」
「ありません」
正直にお答えしたためにお話が進まなくなりました。
授業がなくても院へ行ってはいけないわけではないはずですし、図書館で本を読むこともできます。
ただ本を読んでいる間にエンヴィアさんがお帰りになっては困りますので、本の話はやめておきましょう。
「お使いのお供ができればと思いまして」
エンヴィアさんは少しだけ私をご覧になり、それから書類入れを抱え直されました。
「私は構いませんが」
「ありがとうございます」
お礼を申し上げたところで奥の廊下からセラフィタ様のお声がしました。
「トコヨさんもご一緒なんですか?」
振り向くと窓から落ちる光の中を淡紅の髪が揺れてまいります。
まだ朝の涼しさが残る廊下へ蜜を溶かしたような花の香りが漂いました。
「はい。お邪魔でなければ」
「でしたら帰りに花屋へ寄っていただけますか。コーンフラワーがあれば少し欲しいのです」
「青いものでよろしいですか」
エンヴィアさんがお尋ねになるとセラフィタ様は頷かれました。
「ええ。窓辺へ飾りたいので」
「承知いたしました」
書類をお届けしてお花を買ってくる。
昨日よりも行き先がよく分かっているお出かけになりました。
これならば道端であらぬ物を買い込まずに済みそうです。
「行ってらっしゃい。トコヨさんも気をつけてくださいね」
「行ってまいります」
お辞儀をしてから門へ向かったところで、隣を歩く黒い翼が朝日に薄く透けました。
今日は隠れなくて良いのですから、背中ばかり見ていなくても良いのでした。
そう気づいて通りへ目を向けると向かいの店ではちょうど鎧戸を開けているところで、窓の中に積まれた白い布が一斉に明るくなりました。
◆ ◆ ◆
術導院へ向かう水路には細長い舟が浮かんでおりました。
同じ色の鞄を抱えた学徒たちが何人も腰を下ろし、岸へ近づくにつれて膝の上の本を閉じたり襟を直したりしております。
舟が着くなり一人が立ち上がりましたが、船頭に何か言われてストンと座り直しました。
続いて立ちかけていた方々までそろって腰を下ろしたので、舟の中を小さな波が渡ったようです。
あらあら。
急いでいらっしゃるのは分かりますが、うっかり川の方へ降りてしまっては大変です。
縄が杭へ掛けられてから今度こそ皆さんが降り始めました。
私たちはその列が通り過ぎるのを待って門をくぐります。
石の壁へ朝日が反射し、廊下の窓には水面から跳ね返った光が揺れておりました。
いつもの講義室へ向かう角で足を曲げかけたところへ、エンヴィアさんのお声が掛かります。
「こちらです」
「あら。失礼いたしました」
授業はないと自分で申し上げたばかりでしたのに。
足は毎度の道をよく覚えていて、お休みだと教えてもなかなか聞いてくれません。
慌てて向きを直すと炬の鞘が腰でこつりと鳴りました。
そこから先は私の足もまだ覚えていない廊下でした。
扉の脇には講義の名ではなく先生方のお名前が掛かっていて、開いた一室からは紙を繰る音とインクの匂いが流れてまいります。
受付でお取次ぎをお願いすると、奥にいた方が書類入れをご覧になって頷かれました。
「ヴェルディエ家からですね。少々お待ちください」
壁際へ寄って待つ間に私は戸口の札をそっと読みました。
お名前の下へ小さな文字でいくつも肩書きが連なっております。
上から辿っているうちに知らない言葉へ行き当たってしまい、首を少し傾けたところで背後から杖の音が聞こえました。
「こちらへお名前もお願いします。良いものを書いていただいても、どなたへお返しすれば良いか分からなくなってしまいますから」
聞き覚えのある穏やかなお声です。
振り向くと一人の学徒が紙束を胸へ抱え直しておりました。
「申し訳ありません」
「いえ。提出する前に気づけて良かった」
教頭のドリン先生が紙の上を指で示していらっしゃいます。
長い灰色の髪は後ろでひとつに束ねられ、身を傾けられると片眼鏡の鎖が胸元のベストへ細い弧を描きました。
学徒が近くの机で名前を書き入れている間も、先生は杖へ手を重ねてゆっくりお待ちになっています。
私まで自分の筆記帳に名前を書いたか気になってきました。
たしか最初の頁へ書いたはずです。
昨日の頁を開いて確かめてはいけません。
あちらには別の方のお名前がございます。
「おはようございます」
お声をかけると先生がこちらへ顔を向けられました。
「おはようございます。お待たせしてしまいましたか」
「いえ。私たちも今来たところです」
エンヴィアさんが一歩前へ出られました。
「ヴェルディエより書類をお預かりしてまいりました」
エンヴィアさんは脇に抱えていた書類入れを開き、封書を取り出されました。
端をきちんと揃えてから、先生へ差し出されます。
「ああ。ありがとうございます。どうぞこちらへ」
先生に続いて執務室へ入ると机の脇に背の低い書棚があり、その上で葉の細い鉢植えが窓へ身を傾けておりました。
先生が背の薄い翼を椅子の脇へ収めて腰を下ろされると、エンヴィアさんは封書をお渡しになりました。
私は戸口に近いところで足を止めました。
「セラフィタさんはお変わりありませんか」
「はい。お陰様で」
「それは何よりです」
先生が封書へ目を落とされました。
片眼鏡の奥の瞳が宛名を辿る間、エンヴィアさんは机の角をご覧になっています。
先生がお顔を上げられてもその目はほとんど動きませんでした。
「受取りをお渡ししますので、少しお掛けになってください。お茶もいかがですか」
「お気遣いありがとうございます。この後も用がございますので」
「そうでしたか。ではお待たせしないようにしましょう」
先生は手元へ小さな紙を引き寄せてペンを取られました。
紙の上を尖った先が滑っていきます。
エンヴィアさんは革の書類入れを閉じ、留め金へ親指を添えていらっしゃいました。
かちりと小さな音がしました。
先生が何か書いている間はいつもこんなに静かだったでしょうか。
廊下でお話ししていた時には気にならなかった時計の音が、机の向こうから聞こえてまいります。
「こちらでお願いします」
「お預かりいたします」
エンヴィアさんは差し出された紙を受け取り、丁寧に折って書類入れへ収められます。
「どうぞよろしくお伝えください」
「かしこまりました。それでは失礼いたします」
お辞儀の後に踵が返されました。
私も慌てて頭を下げると、先生は戸口まで見送ろうと杖を引き寄せられます。
「どうぞそのままで」
エンヴィアさんのお声に先生の手が止まりました。
「では、また」
「失礼いたします」
廊下へ出て扉が閉じられると、ちょうど遠くの講堂で鐘が鳴り始めました。
私は一歩遅れて黒い翼のそばへ並びます。
「お届け物は済んだのですね」
「ええ。お待たせしました」
「いえ。あの……」
エンヴィアさんがこちらをご覧になりました。
先ほどは先生へなかなか向けられなかった目が、今は私の返事を待っています。
何をお尋ねするつもりだったのか考えているうちに、お茶を断られたことくらいしか言葉になりませんでした。
お茶は必ずいただかなくてはならないものでもございません。
私なら大抵いただきますが、それは私の都合です。
「次はお花屋さんでしたね」
「はい」
そのまま歩き出されたので私もついていきました。
先生はお話ししやすい方だと思っておりましたが、エンヴィアさんにとってもそうとは限らないのでしょうか。
もしかして少し苦手な方なのかもしれません。
門へ向かう途中でもう一度お顔を窺いましたが、何かを急いでいらっしゃる様子はありませんでした。




