第3部 仔牛のブレゼ②
◆ ◆ ◆
煮込みの間に昼食をいただき、買ってきた梨も切り分けました。
二つは自分でいただいて、残りは厨房の皆さんへお裾分けです。
皮を剥く手元から甘い香りが立ち、果汁が指を伝ってまいりました。
こんなに美味しい梨なら隠れるためでなくても買えば良かったですね。
いえ、買ったのでした。
どうも今日は順番のおかしなことばかりしております。
エンヴィアさんが戻られると私もまた作業台のそばへ寄りました。
蓋を開けていただくたびに湯気が立ち上り、鍋の中のお肉は朝とは違う顔になっていきます。
様子を確かめては蓋が戻され、その間に私は使った器を拭いたり筆記帳へ手順を書き留めたりしておりました。
ようやくお肉が取り出されたのは厨房へ射す光が朝よりも傾いた頃です。
エンヴィアさんは形を崩さないように皿へ移し、残った煮汁を濾して別の鍋へ入れられました。
今度は蓋をせず時折かき混ぜながら煮詰めていきます。
匙から落ちる汁が次第にとろりとした艶を帯び、ひとかけのバターが溶かし込まれると表面へなめらかな光が走りました。
見ているだけで口の中が忙しくなるようです。
お昼も梨もいただいたはずなのですがどこへ行ってしまったのでしょう。
エンヴィアさんは小さな皿を一枚取り、お肉の端を切り分けてソースを掛けられました。
「お味を見ていただけますか」
「はい! ぜひ」
差し出された小皿を両手で受け取りました。
見学に来たはずなのに、ここが本日のいちばん大切なところのような気がしてまいります。
フォークの先を入れると繊維に沿ってお肉がほろりとほどけました。
朝はあんなにしっかりした塊でしたのに今は少し力を添えただけで一口分が離れます。
湯気を逃がしてから口へ運びました。
まずソースが舌へ広がり、続いてお肉が柔らかく崩れました。
野菜の甘みと香ばしさの後に香草がふわりと香って、噛むたびに味が変わります。
慌てて飲み込むのが惜しくて私は少しずつ口を動かしておりました。
「いかがですか?」
お返事をしなくては。
「とても美味しいです……」
もっと立派な感想を申し上げたかったのですが出てきた言葉はそれだけでした。
頭の中には色々あるのです。
ありますのに、口の方はもう次の一口を迎えたがっております。
「塩はきつくありませんか」
「はい。お肉と一緒にいただくとちょうど良いです」
「そうですか」
エンヴィアさんはご自分でも別の匙で味を確かめ、何も足さずに鍋を火から外されました。
私はお皿の上を見下ろします。
お肉はもうなくなっておりましたがソースが少し残っています。
これをそのままお返しするのは何だか大変惜しいです。
けれどお皿を舐めるわけにはまいりませんし、フォークではどうにも集めにくいものでした。
困っていると横から小さく切られたパンが差し出されました。
「よろしければ」
私はパンとエンヴィアさんのお顔を交互に見ました。
「……ありがとうございます」
お皿の底に残った分まで美味しいのがいけないのです。
パンでソースを拭っていただいている間に、お肉は夕食まで温かく保てるよう鍋へ戻されました。
エンヴィアさんは台に残った道具を片づけ、私の使っていた包丁も受け取られます。
「お手伝いをありがとうございました」
「こちらこそ見せていただいた上に味見まで」
「お役に立ったのでしたら何よりです」
そのお顔を見てから私は慌てて小皿へ目を落としました。
今の言葉はたぶんお料理のお勉強のことです。
すっかり忘れかけておりました。
私は本日お料理だけを学びに来たわけではなかったのでした。
◆ ◆ ◆
お夕食のお皿を運ぶところまで手伝わせていただくと窓の外にはもう夕映えが差しておりました。
白い皿の上に盛られた仔牛のお肉には褐色のソースが掛かり、脇に添えられた野菜にも薄く照りがついています。
厨房の小皿でいただいたものと同じお料理なのに銀器の並ぶ食卓へ置くと少しよそゆきのお顔になりました。
セラフィタ様は運ばれてきたお皿へ身を寄せ、立ち上る香りを楽しむように一度手を止められました。
俯かれた頬に淡紅の髪がひと房掛かります。
指先で耳へ掛け直されると、その奥の花がふるりと揺れました。
夕日を受けた杯の縁が白い指へ細い金色を落としています。
「良い香りですね」
フォークとナイフが取り上げられました。
お肉を切り分ける動きはゆっくりで、ソースを少し絡めてから口元へ運ばれます。
私はお皿の方ばかり見ておりました。
何しろ味を存じ上げておりますからセラフィタ様のお返事が気になって仕方ございません。
エンヴィアさんも主人の手元をご覧になっていました。
白い皿へフォークが戻されるまでどちらからも言葉はありませんでした。
「やはり貴方のこのソースが好きです」
セラフィタ様はナイフの先でお肉を少し寄せ、皿に広がったソースへ浸されました。
「今日は香草を控えめになさったの?」
「お肉の香りを残したかったので」
「そう。こちらも良いですね」
味見をした時には分からなかった違いがお二人の間では当たり前のように交わされます。
私ももう一度いただけば分かるでしょうか。
いえ、前のお味を存じ上げませんので何度いただいても比べようがありません。
セラフィタ様は次の一口を召し上がり、少し間を置いてからこちらへお顔を向けられました。
「トコヨさんもお手伝いくださったのですか」
「はい。野菜を切るところなどを少し」
「ありがとうございます。お休みでしたのに」
「私がお願いして見せていただいたのです。とても勉強になりました」
今度は隠し事のためだけのお返事ではありませんでした。
実際に筆記帳も埋まりましたし、口では説明できなかったお肉の柔らかさも覚えております。
「それなら良かった。貴女も召し上がってくださいね」
「先ほど味を見ていただきました」
「まあ。では、お味はもうご存じなのね」
セラフィタ様は皿の上のお肉へ視線を落とされました。
「もう一口いただきたくなってしまうでしょう?」
私はつい頷いてしまいました。
頷いてからそれではおねだりのようではないかと気づきます。
「……あの、とてもおいしゅうございました」
取り繕うつもりが何のお役にも立たないお返事でした。
主人の唇から小さな笑いがこぼれます。
お皿を運ぶだけのつもりでしたので私はここで失礼することにいたしました。
頭を下げて食卓を離れる間にも背後では銀器が触れるかすかな音が続いています。
扉の手前で振り返るとエンヴィアさんが空きかけた杯へ水を注いでいらっしゃいました。
セラフィタ様は何も言わずに手を脇へ避け、その手元へ一度目を向けてからお食事へ戻られます。
水の細い音を聞いているうちに足が止まりました。
あの東屋にいたお二人が目の前にいらっしゃいます。
同じお二人なのに、今は静かに夕食が進んでおりました。
エンヴィアさんの指が水差しの柄を持ち直します。
朝には猫の顎を撫で、つい先ほどは私へパンを差し出してくださった手でした。
お名前を呼ぶだけならできそうです。
その後はどういたしましょう。
お料理のお話でしたらもう幾つも伺いたいことがあります。
けれど本当に尋ねたかったことへ考えが触れると、喉がきゅっと狭くなりました。
結局お辞儀だけをして扉を離れました。
厨房へ借りていた布を返し、皆さんへご挨拶を済ませると別邸の外はすっかり涼しくなっておりました。
鞄から筆記帳を取り出して今日の頁を開いてみます。
お肉を返すのは焼き色がついてから。
煮る時はお肉が少し顔を出すくらいの出汁。
その下にはお鍋の絵まで描いてあります。
最初に書いた『エンヴィアさん』というお名前の下がすっかりお料理の覚え書きになっておりました。
これでは『エンヴィアさん』というお料理のレシピを記したようです。
少し迷ってから空いたところへ『猫がお好き』と書き添えます。
こちらは間違いございません。
あの灰色の猫に尋ねても頷いてくれるはずです。
ただ、いちばん伺いたかったことを書く場所では指が止まりました。
あのお言葉を紙へ移すのはためらわれて余白はそのままにしておきます。
明日もお休みです。
筆記帳を閉じようとしたところで頁の端に透き通った小さな染みを見つけました。
どうやらお料理を教わっている間に何かをつけてしまったようです。
鼻を近づけるとほんの少しバターの香りがしました。
……なるほど。
この頁を開くたび、お腹が空いてしまうのではないでしょうか。
それは少し困ります。
思い出すために書いたのですけれども。
染みが向かいの頁へ移らないよう紙を一枚挟み、私は筆記帳をしまいました。




