第3部 仔牛のブレゼ①
エンヴィアさんが籠を提げて門を出られたので私は十まで数えてから後を追いました。
すぐについていってはお供になってしまいますし、離れすぎては見失います。
十というのはそのどちらにも偏らない良い数字のように思えたのです。
ただし十を数え終わる頃には黒い翼はもう通りの角へ差しかかっておりました。
あらあらあらあら。
エンヴィアさんは随分と足がお早いのですね。
慌てて追いついてから歩調を緩め、何食わぬ顔で道端の店を眺めました。
こうしていれば休日のお散歩に見えるでしょう。
お散歩にしては目当ての方の背中ばかり見ておりますがそれは私にしか分からないことです。
石橋を渡ると水路の向こうから幌を張った荷舟がやってまいりました。
舳先の男が岸へ縄を放ち、受け取った男が鉄の杭へ掛けると舟に積まれた木箱が次々と運び出されていきます。
降ろしたばかりの箱にはまだ水滴がついていて、その脇を抜けると冷えた川の匂いがしました。
エンヴィアさんは荷運びの方が通り過ぎるまで足を止めていらっしゃいました。
私も少し手前で立ち止まります。
通りを横切る大きな木箱が途切れた頃には見覚えのある翼がもう次の店先へ移っておりました。
お待ちくださいませ。
いえ、お待ちいただいては困るのですけれど。
橋の先は露店の並ぶ通りでした。
天幕を透かした朝日が色とりどりの野菜を照らし、束ねた香草の青い匂いに焼きたてのパンの香りが混じっています。
呼び込みの声に返事をする声、お金を数える音、荷車の車輪が石を踏む音。
お屋敷にいる時とは比べものにならない賑わいの中でもエンヴィアさんは迷わず肉屋へ入っていかれました。
私は斜め向かいの果物の店で足を止めます。
梨を見ているふりをすればお肉を選ぶ様子もこちらから拝見できそうでした。
「お嬢さん、梨はいかが?」
ふりを始めるより先に声をかけられてしまいました。
「今朝入ったばかりだよ。そっちはもう食べ頃! こっちは二、三日置くと良い」
店主のおばさんが二つの籠を交互に示してくださいました。
せっかく教えていただいたので見比べてみますと、なるほど手前の梨は黄色みが濃く、ふっくらとした肩に小さな褐色の斑点が散っております。
「今日食べるのでしたらこちらですか?」
「そうそう。柔らかいから持って帰る時は気をつけてね」
「ではそちらを二つ……」
注文しながら肉屋へ目を向けるとエンヴィアさんはまだ店主とお話ししていらっしゃいました。
「……いえ、四つください」
二つ買うより四つ買う方が少し長くこちらにいられるのではないかと思ったのです。
「ありがとうねえ」
ところがおばさんは大変手際の良い方でした。
四つの梨はあっという間に紙へ包まれ、代金と引き換えに私の腕へ収まってしまいます。
四つに増えたのは梨だけで、時間はあまり増えませんでした。
仕方なく荷物を抱え直したところで肉屋から声が聞こえます。
「今日はすねかい」
「ええ。こちらをお願いします。煮込みにしますので」
エンヴィアさんが指されたのは白い筋の入った厚みのあるお肉でした。
店主が塊を取り出して刃を入れる間もその目はまな板から離れません。
「いつものか」
「お嬢様のご所望です」
「そりゃ腕の振るいどころだな」
そこはお認めにならないのですね。
私でしたらぜひそうだと頷いてお肉を一切れ多くしていただきたいところです。
エンヴィアさんはお返事の代わりに代金を用意なさいました。
包みが籠へ入るのを見届け、私は果物屋のおばさんにお礼を言って店先を離れました。
それから人参と玉葱とセロリ、香草の束が黒い翼のそばへ集まっていきます。
私は買い物客に紛れながらついていきましたがもう店先で何かをじっと見るのは控えることにいたしました。
見つめるたびに買っていたら、お散歩が終わる頃には私にも一軒分の台所が揃ってしまいそうです。
エンヴィアさんが次に足を止められたのは魚屋の脇でした。
けれど店へ入ることはなさらず軒下へ向かって少し身を屈められます。
「いたのか」
低いお声でした。
聞き慣れた声音より幾分柔らかく、私も思わず耳をそちらへ向けました。
木箱の上に猫がおりました。
灰色の身体に白い顎をした片方の耳の先が少し欠けている猫です。
大きく伸びをして箱から降りると、尻尾をぴんと立ててエンヴィアさんの足元へやってまいりました。
「今日はずいぶん偉そうだな」
猫はお返事の代わりに靴へ頬を擦りつけます。
差し出された指の匂いを嗅ぎ、そのまま頭を押しつけました。
エンヴィアさんは顎の下を撫でていらっしゃいました。
いつもきちんと結ばれている口元がわずかに緩み、猫が顔を上げるのに合わせて指の位置も変わります。
あら。
もう少しよく見たくなって、一歩だけ前へ出ました。
猫は目を閉じてご満悦の様子です。
そんなに良い場所を撫でてもらっているのでしょうか。
お仕事中の私が何度お礼を申し上げるよりも、ただ頭を押しつけるだけでずっと気安くお話ししていただいております。
猫というものは何やらお得で可愛らしい生き物ですね。
やがてその猫が籠へ鼻先を伸ばしました。
「それは駄目だ」
エンヴィアさんが籠を少し遠ざけると猫は不満そうに一声鳴きます。
「お前のではないよ」
猫は聞こえなかったようなお顔でまた鼻を伸ばしました。
今度は額を指でそっと押し返され、ようやく諦めたのか元の木箱へ戻っていきます。
なかなか遠慮のない方でした。
世の中にはエンヴィアさんを困らせるのがお上手な方が思ったよりたくさんいらっしゃるようです。
「トコヨさん」
猫を見送っていたお顔がこちらを向きました。
「お買い物はお済みですか?」
済んでおります。
予定にはなかったお買い物でしたが梨が四つもございます。
「…………………………はい」
「ではご一緒に戻りますか」
私は抱えた包みへ目を落とし、それからエンヴィアさんへ顔を戻しました。
逃げる理由はございませんし、今さら通りすがりのふりもできません。
「あの、いつからお気づきでしたか?」
「玄関で待っていらした時からですが」
「玄関……」
まだ王都の道ですらございませんでした。
十まで数えたことも、梨を増やしたこともすべて何だったのでしょう。
梨は食べられますから良いとして、十の方は返していただきたいような気がいたします。
「何かご用があるのかと思っておりました」
「申し訳ありません。その、お料理の買い出しを拝見できればと思いまして」
お料理だけではないのですが何から何まで申し上げるわけにもまいりません。
エンヴィアさんは私の抱えている包みをご覧になりました。
「そちらは?」
「梨です」
「良い香りですね。帰ったら早めに召し上がった方が良さそうです」
「はい。今日食べ頃だと教えていただきました」
おばさんから伺ったことだけはすらすらお答えできました。
「お料理にご興味があるのでしたら厨房へいらっしゃいますか」
思いがけないお誘いに顔を上げました。
「よろしいのですか?」
「見ていただく分には。ただ、煮込みですので出来上がるまでは時間がかかりますよ」
「それでも拝見したいです。勉強になります!」
「分かりました。では戻りましょう」
エンヴィアさんが歩き出されたので私も今度はお隣へ並びます。
近くに来ると籠からセロリと香草の匂いがしました。
十を数えるよりこちらの方がずっと簡単でした。
最初からそうすれば良かったと考えられるのは声をかけていただいた後だからなのでしょうけれど。
◆ ◆ ◆
別邸の厨房では一つの作業台が空けられておりました。
料理長がそちらを顎で示すとエンヴィアさんは礼を言って買ってきた包みを置かれます。
大きな鍋もすでに用意されていて、先ほどのお話がこちらでも進んでいたことが分かりました。
私は梨を邪魔にならない棚へ置き、皆さんにご挨拶をしてから台の端へ寄りました。
エンヴィアさんは袖を整えて丁寧に手を洗い、私にも隣の水場を示されます。
「トコヨさん、こちらの野菜を運んでいただけますか」
「はい」
洗った人参を受け取って台へ並べ、包まれていた香草の紐を解きます。
そばではお肉の水気が布で拭き取られ、塩が振られておりました。
「切るものがありましたらお手伝いできます」
「では人参とセロリをお願いします。このくらいの大きさに」
切り分けられた人参を一つ見せていただき、その大きさに合わせて包丁を入れました。
刃の通り具合を確かめながら揃えていくと台の上に橙色の山ができていきます。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ええ。では次はこちらを」
差し出されたセロリを受け取ってから私は少しおかしくなりました。
これでは普段のお勤めとあまり変わりません。
ただいつもならお茶の器がある手元に今日は刻んだ野菜が並んでおります。
炉の小窓の奥ではアラガネが淡く光っていました。
エンヴィアさんが鍋を温め、油を馴染ませてからお肉を並べられます。
途端にじゅうっと音が立ち、厨房の匂いが変わりました。
切っているセロリよりも鍋の方が気になります。
何とか手元へ目を戻すとエンヴィアさんはお肉を動かさずにそのまま待っていらっしゃいました。
「まだ返さないのですか?」
「焼き色をつけたいので。あまり触るときれいにつきません」
ならば私も触らずに待ちましょう。
もとより手を出すつもりはなかったのですが見ているだけでも何かしたくなる音なのです。
頃合いを見て返されたお肉にはこんがりとした褐色の面が現れました。
包みを開けた時の淡い色からは想像できない香ばしさが漂ってまいります。
このまま少しいただくわけにはいかないのでしょうか。
そう考えたところでまだ途中だと自分に言い聞かせました。
今日は出来上がるまで待つと申し上げたばかりです。
お肉が鍋へ入って早々に約束を曲げるのはいくら何でも気が早すぎます。
焼けたお肉がいったん取り出され、空いた鍋へ野菜が入りました。
木べらが動くたびに玉葱の角が透き通り、鍋底の褐色が野菜へ移っていきます。
そこへ白葡萄酒が注がれると湯気が一気に立ち上り、甘酸っぱい香りが鼻先をくすぐりました。
エンヴィアさんは鍋底を木べらで丁寧になぞっていらっしゃいます。
見ている間にこびりついていた焼き色が溶け、汁の色が少しずつ濃くなりました。
「そちらも残さず使うのですね」
「ええ。せっかくつけた焼き色ですから」
焼いたお肉が鍋へ戻されました。
そこへ小鍋から褐色の出汁が注がれます。
覚えのある名前を口にしてみます。
「フォンドボーですか?」
「はい。今日は厨房に用意してあったものを使います」
以前はお話だけで覚えたものが、目の前でお料理の一部になっていきます。
私は鍋の縁へ視線を戻しました。
お肉はすっかり沈められるのかと思いましたが注ぐ手はその手前で止まります。
香草が加えられて蓋が閉じられました。
エンヴィアさんが炉を調節すると、先ほどまで賑やかだった鍋が静かになります。
「これで、あとは煮るのですか?」
「ええ。穏やかに火を通していきます。時々様子を見ながら」
「ずっとこちらにいらっしゃるのでしょうか」
「返書を預かる用事がありますので煮ている間に済ませてきます。トコヨさんも休んでいらしてください」
そうでした。
あのお手紙の用事はまだ続いていたのでした。
私は蓋のつまみを見ました。
あれを開ければ今よりもう少し良い匂いがするのでしょう。
「まだ開けなくて大丈夫ですよ」
手を伸ばしてもおりませんのに先に言われてしまいました。
……顔に出ていたのでしょうか。




