第2部 大作戦、始動②
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居間の扉は開いておりました。
庭から入る光が長椅子の端を照らし、セラフィタ様の薄紅色の髪を淡く透かしています。
肩へ落ちた一房を指先で掬い上げると、白い喉から耳元へなだらかな線が覗きました。
寛いでいらっしゃるだけですのに、絵の中の方が動いたような艶麗さがございます。
そのおそばでは、侍女さんが小卓の本を片づけていました。
「こちらも書棚へお戻ししてよろしいでしょうか」
「ええ、お願いします。たくさんありますから、何度かに分けてくださいね」
「かしこまりました」
セラフィタ様は本の山から一冊だけ抜き取り、侍女さんの持つ分を軽くなさいました。
「これはまだ読んでおりますから、こちらへ」
本を、根の絡み合う膝へ置いたセラフィタ様に一礼し、侍女さんが扉へ向かわれます。
私は少し手前の飾り棚へ身体を寄せ、陶器の小鳥を眺めることにいたしました。
果物の次は小鳥です。
今日はお屋敷の美術品にも詳しくなれそうですね。
侍女さんと小さく会釈を交わしてから、私は小鳥の向こうへ目を戻しました。
扉越しに見える範囲では、エンヴィアさんが書状を差し出しているところです。
セラフィタ様は封を開けて中を確かめ、手元の紙へ何かを書き付けられました。
「こちらは午後にお返事を書きます。タルボットにもそう伝えてください」
「かしこまりました」
紙の擦れる音がして、残りの書状も小卓へ置かれます。
お茶の席でお見かけする時と変わらぬ、静かなお勤めの様子でした。
あまり見つめてはいけないと思うたびに小鳥へ視線を逃がしていたものですから、しまいには青い羽の模様をすっかり覚えてしまいそうです。
「エンヴィア」
セラフィタ様のお声で、私はまた顔を上げました。
「久しぶりに、貴方の仔牛のブレゼが食べたいです」
書状を揃えていた指が止まりました。
「料理長にお伝えしましょう」
「貴方のものをいただきたいのですけれど」
「……本日の献立は、もう決まっているはずですが」
「ええ。ですから変更をお願いしておいてくださいね」
あらあらあらあら。
エンヴィアさんが作るというお話は、いつ決まったのでしょう。
私が小鳥を見ている間でしょうか。それにしては随分お早いです。
「面倒なことをおっしゃいますね」
今度こそ小鳥を見る余裕がなくなりました。
セラフィタ様に向かって、面倒なこと。
そう感じることは私にもございます。
お客人のお話が思わぬところへ転がっていく時など、どうぞ今日はこの辺りでお帰りになってくださいませんかと思ったことだってあります。
けれど、それをお顔に出すことと、口に出すこととでは随分と違うのではありませんか。
叱られるのではないかと身を縮めた私をよそに、セラフィタ様は膝の本へ栞を挟まれました。
「お夕食までには間に合うでしょう?」
「材料が揃えば、です」
「では、見てきてくださいな」
ぱたん、と本が閉じられました。
お夕食までには間に合うのでしょうけれど、間に合うかどうかだけのお話でしたでしょうか。
仔牛の方はともかく、エンヴィアさんのお気持ちはまだ煮え切っていないようにお見受けします。
エンヴィアさんもすぐには答えず、小卓へ置いた封筒の角を揃えていらっしゃいました。
もう十分揃っているように見えるのですが、それでも指先が紙の縁をなぞります。
「……承知しました。厨房には私から話しておきます」
「ええ。お願いしますね」
「使う肉は自分で選びますので、これから市場へ出ます。何かお入り用でしたら、その前に」
「今はございません。お夕食を楽しみにしていますね」
その声に、喉の辺りがひやりとしました。
ガゼボで耳にした時も、こんなふうに穏やかなお声でした。
今はただ仔牛のブレゼを楽しみになさっているだけなのに私は扉の陰で息を詰めております。
エンヴィアさんは胸元へ手を添え、いつも通りの礼をなさいました。
嫌そうなお返事の後でも、その所作には乱れがありません。
主人を殺すと告げた方が主人のお夕食のためにお肉を選びにいらっしゃる。
頭の中で並べてみても、うまく収まりませんでした。
片方を追い出せば済むのでしたらお肉の方だけ残しておきたいのですが、そういうわけにもまいりません。
エンヴィアさんが扉へ向き直ったので私は慌てて飾り棚へ顔を戻しました。
青い小鳥はお行儀良く枝に止まっています。
私もせめてそのくらい落ち着いていたいものですが、もう羽の模様を数える余裕もございません。
「トコヨさん」
背後から声をかけられ尻尾の先までぴんとしました。
ゆっくり振り向くと、エンヴィアさんが扉を出たところに立っていらっしゃいます。
「おはようございます」
「お、おはようございます」
「本日はお休みでは?」
先ほどマルグリットさんに尋ねられた時とは、まるで違う問いに聞こえました。
いえ、同じです。
どなたがお尋ねになっても、私のお休みはお休みですとも。
「はい。少し、お勉強に」
「そうでしたか」
エンヴィアさんの目が飾り棚へ向いたので、私もつられて小鳥を見ました。
違います。
鳥の置物のお勉強ではありません。
けれど今から訂正するのもおかしいので、私は黙ってもう一度頷きました。
「失礼します。こちらを通りますので」
「あっ、はい」
私は壁へ寄りかけて今度は後ろの脚の位置も確かめました。
エンヴィアさんは軽く会釈をなさると私の横を通って厨房の方へ進んでいかれます。
お姿が角の向こうへ消えるまで見送ってからようやく息を吐きました。
居間ではページを繰る音がしてセラフィタ様がもう読書へ戻っていらっしゃいました。
扉の向こうには穏やかな朝が続いていて私だけが妙に疲れております。
以前フォンドボーを教わった時なら、ブレゼとはどのようなお料理なのか、ためらわずに尋ねていたでしょう。
今日もお答えくださったかもしれませんが、口を開くより先に身構えてしまうのでした。
鞄へ手を入れると筆記帳の端が指に触れました。
朝からお勉強とばかり言っているのに、まだ何も書いておりません。
今でしたら青い小鳥についていちばん詳しく書けそうですが、そういうことではないのです。
エンヴィアさんはこれから市場へいらっしゃいます。
厨房での用事が済むまでに私も外へ出る支度をしておかなくては。
鞄の留め具を掛けると私は玄関へ向かいました。
分からないことはお部屋を出る前より増えておりますが、少なくとも次に行く場所は決まりました。




