第2部 大作戦、始動①
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水を注いだ杯の前で私は両手を差し出したまま考え込んでおりました。
これから人をこっそり見張りに行くのですが、どうかお見守りくださいませ。
そうお願いしかけて、少々都合が良すぎるのではないかと気がついたのです。
私だけ見守っていただいて、見張られる方はよろしいのでしょうか。
窓から射す朝日が水面を照らし、杯の底に小さな光を落としています。
せっかくの清らかなお水に向かって何やら後ろ暗いお願いをしている気分になってまいりました。
水の女神ヴァイへ捧げる『水の杯』は、幼い頃から続けている朝の習慣です。
自分が選んできた行いを振り返り、今日は何を選ぶのかを考えるひとときなのですが、二日続きのお休みの初日からこの有様でございます。
そもそも見張るという言い方が良くありませんね。
観察です。
もう少し穏やかに言いますと、お人柄を知るためのお勉強です。
……言い方を変えても、することは変わりませんけれど。
エンヴィアさんのお顔を見るたびに身構えてしまうのは嫌でした。
親切にしていただいたことまで疑わしく思えてしまうのも、何だか悲しいのです。
だからといって怖いものは怖いのですけれど。
せめて、お仕事の用件だけで目を逸らしてしまうのはやめましょう。
あの方が何をしていらっしゃるのか、今日は自分の目で見てみたいと思います。
「ヴァイ様。どうかお見守りくださいませ」
そこまで申し上げてから、続けて火の神アヒ様へ祈りました。
故郷で暮らしていた頃から水の杯の後にはこちらも欠かしておりません。
アヒ様のお名前を口にする前に一度唇を湿らせ、短い祈りを終えて目を開けると、窓の外では鳥が囀っておりました。
良いお天気です。
街を歩くにも洗濯をするにも気持ちの良い一日になるのでしょう。
私もできれば気持ち良く帰ってきたいものです。
身支度の仕上げに腰の帯を確かめ壁に立てかけてあった愛刀の炬を吊るしました。
鞘がいつもの位置に収まると少し落ち着きますが、お勉強に出かける持ち物としてはいささか物騒な気もいたします。
もちろん、使うつもりはございません。
念のためです。
こういう時の念というものは大切にしておくに越したことはないのですから。
◆ ◆ ◆
「あら、トコヨさん。おはようございます」
ヴェルディエ家の王都別邸へ伺うと、玄関を入って間もなく呼び止められました。
畳んだ布を抱えて立っていらしたのは、侍女長のマルグリットさんです。
頬に沿って垂れる長い耳が柔らかな印象の、犬の二ツ足の女性でいらっしゃいます。
「おはようございます、マルグリットさん」
「今日はお休みでしょう。お勤めの日を間違えてしまいましたか?」
「いえ、覚えております。今日は少し、皆さんのお仕事を拝見できればと思いまして」
お休みを忘れるほど熱心ではないのですが、別の用事に熱心になってしまっております。
マルグリットさんは私の顔を見てから、抱えていた布を傍らの台へ置かれました。
何かを尋ねる時には手を止めて聞いてくださる方ですので、こちらもつい隠さずお話ししたくなります。
「分からないことがありましたか?」
「ええと……お勉強をしておきたいことがございまして」
筆記帳へ書いた時より、口に出した方が立派に聞こえました。
あまり立派に聞こえても困ります。
褒められるようなことをする予定は特にありませんので。
「分からないことなら、次のお勤めの時に聞いてくださって良いのですよ」
「ありがとうございます! ただ、気になったままお部屋にいても落ち着かないものですから」
「まあ。それでは少し見ていらっしゃいな」
許していただけたと思って頭を下げかけたところで、マルグリットさんがそっと片手を上げました。
「その前に、もう少しこちらへ」
示された方へ二歩進むと、背後で待っていた侍女さんが洗濯物の籠を抱えて通り抜けていかれました。
上半身だけ壁へ寄せたつもりで、後ろの脚が通り道に残っていたようです。
「あっ、申し訳ありません」
「お話しする時にも、周りを確かめましょうね」
「はい……」
お仕事を拝見しに来たはずが、早くもお仕事の妨げになっておりました。
マルグリットさんのお声は少しも尖りません。
それなのに、直すところだけはきちんと残ります。
柔らかな垂れ耳と穏やかなお顔につられて気を抜いていると、こうして自分の至らなさをそっと手渡されるのでした。
「それから見学が済んだらちゃんとお休みすること。明日までずっとお勉強、ということにはしないでくださいね」
「はい。心に留めておきます」
明日の予定まで見透かされたようで、耳が伏せてしまいました。
侍女長というのはお屋敷の中のことなら何でもお分かりになるのでしょうか。
だとしたら肝心の用事もすでにご存じかもしれませんが、そこは知らないままでいていただきたいです。
お願いばかりで恐縮でございます。
今度こそ通り道を空けてお礼を言い、私は廊下の奥へ向かいました。
朝の別邸には食器の触れ合う音や扉の開く音が行き交っております。
厨房から漂う香ばしい匂いに鼻先がそちらを向きかけましたが、曲がり角の向こうに黒い翼を見つけたので踏みとどまりました。
エンヴィアさんです。
不意にお姿が見えたものですから、足を止めた拍子に四本の蹄がこつこつと鳴ってしまいました。
私は何食わぬ顔で壁に掛けられた絵を見上げます。
果物の絵でした。
籠に葡萄と梨が盛られていて、大変おいしそうです。
いえ、今は果物について考えるために止まったのではありません。
「ベルトラン。こちらはお嬢様へ。返書があれば夕方の使いに持たせられる」
そうおっしゃって書状を渡しているのは、この別邸の執事を務めるタルボットさんでした。
赤茶色の狐耳には白い毛が交じり、年配の紳士らしい落ち着いた物腰をなさいます。
「承知しました、タルボット殿。お返事を伺い次第お持ちします」
「ああ。急ぐのはこちらだけだ。残りはお手の空いた時で構わない」
タルボットさんの指が一通の封筒を示すと、エンヴィアさんはそれを一番上へ重ねました。
お二人とも他に確かめることはないらしく、会話はそれだけで終わります。
別邸の使用人を取りまとめるのはタルボットさんで、セラフィタ様のおそばに控えるのはエンヴィアさんです。
私にはまだ尋ねる相手に迷う用事が時々ありますが、お二人の間では迷うようなこともないのでしょう。
書状を受け取ったエンヴィアさんは、庭に面した居間へ向かわれました。
扉を叩く間だけ歩みが止まり、内側から返事がすると再び黒い翼が動きます。
私は果物の絵に別れを告げ、少し遅れて後を追いました。




