第1部 信頼 決意の日
教壇の鉢植えに白い花が咲いた時、私はセラフィタ様のことを考えておりました。
あの方もよくお手元の花を咲かせていらっしゃいます。
お話をしながら蕾に触れその薄い花弁がほどけてゆくのをご覧になるお姿は、花伺い令嬢という呼び名にいかにも相応しいものでした。
あの時も、セラフィタ様は笑っていらっしゃいました。
――私がお前を殺す。
エンヴィアさんは確かに、そうおっしゃったのです。
聞き間違いではありません。冗談をおっしゃっているお顔でもありませんでした。いつもはセラフィタ様を丁重にお呼びになる方が、あの時ばかりは「お前」と呼んでいらっしゃいました。
「モチヅキ君」
それなのに、セラフィタ様のお返事は「楽しみにしていますね」だったのです。
何をどう楽しみになさるのでしょう……。
私でしたら、まず逃げます。
足には多少の自信がございますから、逃げながら大声で助けを呼ぶくらいはできるはずです。
ところがセラフィタ様は、まるで嬉しいお約束でも交わしたかのように――。
「モチヅキ君」
昨日、盆を持って廊下を歩いていた時にはエンヴィアさんが扉を開けて待っていてくださいました。
いつものようにお礼を言おうとして喉がつかえました。
扉を押さえる手に目が留まるとあの日のお声まで蘇ってきてしまったのです。
不審に思われたでしょうか。エンヴィアさんは何も尋ねず、私が通り終わるまで待っていてくださいましたけれど。
「モチヅキ君」
「はい!?」
慌てて顔を上げると、教室中の目がこちらを向いておりました。
教壇の前に立つガードラー先生もじっと私をご覧になっています。
白い花の鉢植えは先生の傍らにあり、その後ろの黒板にはいつの間にやら文字が増えておりました。
「俺の話を聞いていたか?」
「……申し訳ありません。途中から、別のことを考えておりました」
筆記帳へ目を落としてみても、助けになりそうなことは何も書いてございません。
日付と授業の題目だけが、妙に丁寧な字で並んでおります。
書いた時には、きちんと聞くつもりだったのです。
「では、今の術はどちらに当たる。界力か、魄力か」
先生が鉢植えへ手を向けられたので、私は開いたばかりの白い花を見ました。
「界力です」
「理由は?」
「鉢の中の植物に働きかけて、花を咲かせたから……でしょうか?」
「そうだ。では何もないところから炎を作り出すのは?」
「そちらも界力ではないのですか?」
ガードラー先生の手が止まりました。
前の席に座っていた男の子が私と先生を交互に見ています。
隣の女の子は自分の筆記帳を見下ろし何やら一生懸命に指で叩いておりましたが、残念ながらここからでは文字が読めません。
「そこが、今説明したところだ」
「申し訳ございません……」
私は四本の脚を揃え直し、できるだけ姿勢を正しました。
王立アロウェン術導院では、必要な単位に応じて授業を受けます。
草原で育ち、家の者に教わってきた私には、皆さんがとうに学んでいることも抜けているようで、この『界力と魄力の基礎学』でも周囲は年下の子ばかりでした。
身体が大きいので後ろの広い席を使わせていただいておりますが、お陰で振り向いた皆さんと漏れなく目が合います。
もう少し小さくなれれば良いのにと願ったところで胴も脚も縮んではくれません。
「既にあるものへ働きかけるのが界力。自らの力で、そこになかったものを形作るのが魄力だ」
先生は黒板に書かれた二つの言葉を順に指されました。
界力。魄力。
私は筆記帳に急いで書き留めました。
授業の題目にも並んでいたというのに、こんなにはっきり区別するものだとは思ってもみなかったのです。
「……あら」
思わず自分の手を見下ろしました。
何もないところへ火を出す。
それならば私にもできます。
母も姉たちも日常的にしていたことですし、王都へ来てから耳にする界力というのも当然同じものだと思っておりました。
「私はずっと界力を使っていると思っておりました」
口からこぼれた言葉を、先生は聞き逃されませんでした。
「君は火を扱えるのか?」
「はい。かなり」
「……かなり?」
「はい」
答えたところで、何だか妙なことを申し上げた気がしてまいりました。
つい今しがた授業を聞いていなかったと叱られ術の区別もつかなかった者が、火ならかなり扱えますと胸を張っております。
先生のお立場からすれば、本当か? と考えても仕方ございません。
けれど、火の扱いについては嘘ではないのです。
「家で教わりました。モチヅキの家には火を扱う者が他にもおりますので」
「術理については?」
「そちらは、あまり……。どう扱うかは教わりましたが、力の呼び名までは」
ガードラー先生は少し考えるように顎を引かれました。
トカゲの上半属でいらっしゃる先生は、顔から首筋にかけて細かな鱗に覆われ、顎の周りには鋭い棘が並んでいます。
セラフィタ様の竜車を引く地竜とはまた違い、乾いた土地に棲むトカゲを、そのまま立派にしたようなお姿です。
お顔立ちも姿勢も整っていらっしゃるのですが、黙って見据えられるとなかなか背筋の伸びるものがございました。
私もなるべくまっすぐに立ち、先生のお言葉を待ちます。
「術を扱えることと、術理を知っていることは別だ。知らなかったなら今から覚えればいい」
返ってきたお声は、それまでと変わらぬ落ち着いたものでした。
できると言ったことを疑われるかと思っていた私は、少し肩の力を抜きました。
先生は黒板の文字を消さずそのまま続けられます。
「ただし。覚えるつもりで来ているなら俺の話を聞きなさい」
「おっしゃる通りでございます……」
せっかく教えていただける場所へ来ておきながら、私は何をしているのでしょう。
今度こそ筆記具を持ち直すと、隣から小さな声が聞こえました。
「お姉さん、大丈夫?」
先ほど筆記帳を指してくれていた女の子です。
こちらを見上げる丸い目に心配そうな色が浮かんでおりました。
「大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「気分が悪いのかと思った。ずっと怖い顔してたから」
「……そんなお顔をしておりましたか」
女の子はこくりと頷き、自分の筆記帳を私の方へ少しずらしました。
「終わったら、ここ写していいよ」
「ありがとうございます。助かります」
教壇へ向き直った小さな横顔を眺め、私はそっと耳を伏せました。
先生からは授業を聞くよう諭され、年下の子からは体調を気遣われた上に、筆記帳まで貸していただく始末です。
せめて残りの時間くらいは、お姉さんらしいところをお見せしたいものですが。
「そこは授業の後にしなさい」
「申し訳ありません!」
まず、お喋りをやめるところからでございました。
◆ ◆ ◆
授業が終わってから、約束通り筆記帳を見せていただきました。
女の子の文字は小さいながらも丁寧で、先生が鉢植えを使ってなさった説明も順序よく書き留められています。
私が余白を埋める間、彼女は次の授業で使う本を開いて待っていてくれました。
「もう大丈夫?」
「ええ。本当にありがとうございます。次の授業に遅れませんか?」
「まだ平気」
筆記帳を鞄へしまうと女の子はひらりと手を振って教室を出ていきました。
私も荷物をまとめ他の生徒たちが出てから廊下へ向かいます。
授業の遅れはどうにか取り戻せましたがエンヴィアさんのことは何一つ片づいておりません。
今度はお屋敷で顔を合わせた時のことが気になって鞄の紐を握る手に力が入りました。
エンヴィアさんとすれ違うたびに身構えていては同じお屋敷で働けません。
かといってセラフィタ様にご相談しようにも、あの方は殺すと言われて楽しみになさっていた張本人なのです。
できることなら、何を楽しみになさっているのかそちらも伺いたいくらいでした。
廊下の端へ寄り窓から差し込む光の中で筆記帳を抱え直しました。
授業を終えた子供たちが、友達を呼びながら私の横を通り過ぎていきます。
エンヴィアさんに直接お尋ねすることも考えなかったわけではありません。
ただ、何と切り出せば良いのでしょう。
「先日はセラフィタ様を殺すとおっしゃっていましたが」などと、朝のご挨拶に続けて伺えるはずもございませんし、二人きりになったところを見計らうのは、もっと怖いです。
それにあの会話を私が聞いていたと知ったらエンヴィアさんはどんなお顔をなさるでしょう。
そこまで考えるとどうしても足が止まってしまうのでした。
お尋ねする勇気は出ず、忘れてしまうには恐ろしすぎます。
このままではお仕事もお勉強も、にっちもさっちもよっちもいきません。
鞄へ筆記帳をしまいかけた時、頁の間に挟んでいた紙が覗きました。
お屋敷のお勤めの日取りを書き留めておいたものです。
授業の予定と間違えないよう毎日確かめておりました。
近々、二日続きのお休みをいただいています。
王都へ来てからは何かと慌ただしくせっかくのお休みをどう過ごすかまだ決めておりませんでした。
街を歩いてみるのも良いですし部屋でのんびりするのも良いでしょう。
けれど一人で部屋にいたところで、私はまたあの時のことを考え始めるに違いありません。
私は紙に並んだ日付を、指先でたどりました。
お勤めの日には頼まれた用事を済ませるだけで精一杯です。
エンヴィアさんと顔を合わせても、お仕事を教わったり、セラフィタ様のご用を取り次いだりするばかりで、あの方が他の皆さんと過ごしているところは案外知らないのでした。
お休みなら、私の方には時間がございます。
「そうです! エンヴィアさんを観察いたしましょう」
声に出してみるとようやくできることが一つ見つかった気がしました。
誰とどんなお話をなさるのか。
セラフィタ様のおそばにいない時には何をしていらっしゃるのか。
普段は見過ごしていたところにも気に留めてみれば何か分かることがあるかもしれません。
もちろんご本人に気づかれないようにしなくては。
何をしているのかと尋ねられた時に「貴方が怖いので見ております」とはとてもお答えできません。
それでは相手を怖がらせてしまいそうです。
なるべく普段通りに振る舞いながら少し離れたところから様子を拝見する。
まずはそのくらいから始めてみましょう。
私は予定の紙をもう一度広げ休日の日付の隣へ『観察』と書き添えました。
少し眺めてから線を引き、その上へ『お勉強』と直しておきます。
これならお屋敷の方に見られても困らずに済むでしょう。
紙を筆記帳の奥へ挟み鞄の留め具を掛けました。
ようやく決まった休日の予定を胸に廊下を歩き始めると、先ほど叱られた教室から次の授業を始める先生のお声が聞こえてまいりました。
「そうとなれば大作戦決行です……!」
口にしてから思ったより大きなお声になっていたことに気づきました。
廊下を歩いていた子が、一人、こちらを振り返ります。
私は何でもないようなお顔をして小さく会釈いたしました。
……観察するのでしたら、もう少し静かにしなくてはなりませんね。
まずはそこからでございます。




