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余話 海辺に根付いた二人④



 魚は時間をかけてゆっくり焼いた。


 朝、塩を振っておいたおかげなのか、皮は次第に張りを増し、端の方からぱりぱりと小さく反り返っていく。香草を詰めた腹からは脂が滲み、それが網へ落ちるたびに香ばしい匂いが立ち昇った。


 キリーが何度もこちらを見るので、そのたびに私はまだだと首を横に振った。


「今?」


「まだ」


「もう焼けてない?」


「もう少し」


「さっきからもう少しって言ってる」


「だからもう少しなのよ」


 子供のような人だと思う。


 けれど、私だってお腹が空いているので気持ちはよく分かった。


 豆の鍋にも火が通り、最後に少し味を整える。昨日よりも煮崩れた豆はとろりとして、刻んだ野菜の甘みも馴染んでいた。


 焼き上がった魚を皿へ移し、豆の煮込みを添える。


 それから、買い置きのパンも少し温めた。


「できたわよ」


「待ってました」


「あなた、今日一番嬉しそうな顔してない?」


「そんなことはないと思う」


 そう言いながら、卓へ着くのだけは随分早かった。


 二人で向かい合い、まず魚へ手をつける。


 ぱりっと焼けた皮を割ると、その下から、ふっくらとした白い身がほろりとほどけた。朝から馴染ませていた塩気は中までほどよく入り、噛むたびに魚の脂と一緒に香草の爽やかな香りが抜けていく。


「……美味しい」


 私が思わず呟くと、キリーも大きく頷いた。


「すごく美味しい」


「よかった」


「ルル、これ店で出せるんじゃない?」


「大袈裟よ。近所の奥さんに教えてもらった通りに焼いただけだもの」


「でも美味しいよ」


 そう言って、また一口。


 褒められて悪い気はしない。


 豆の煮込みは、焼いた魚とは違ってほっとする味だった。とろりと崩れた豆をパンですくうと、温かな汁を吸ったパンが柔らかくなり、少し濃くなった味がちょうどよくなる。


 魚を食べ、豆を食べ、パンで皿に残った汁まで拭う。


 仕事を終えたあとの空腹もあって、二人とも口数が少なくなるくらい夢中で食べた。


「昔って、こんなふうに食事したことあったかしら」


「どういうふうに?」


「二人で作って、できたものをすぐ食べるの」


 キリーは少し考えたあと、首を横に振った。


「ないな」


「でしょうね」


 昔なら食事は用意されるものだった。


 食堂へ行けば料理が並び、皿は下げられ、どのくらい燃料を使ったのかも、誰が魚を仕入れたのかも、考える必要はなかった。


 今は朝に自分で魚を買い、働いて帰り、同じ台所で料理をして食べている。


「どっちがいい?」


 何気なく尋ねると、キリーは魚を食べる手を止めた。


「今」


 答えは早かった。


「……即答なのね」


「だって今の方が美味しい」


「料理の話?」


「それもあるけど」


 キリーは少し笑った。


「きみと食べてるから」


「……そういうことを、さらっと言うのよね。あなたは」


「何か変だった?」


「いいえ」


 私は豆の煮込みへパンを浸した。


 こういうところが小憎らしい。


 そして、やっぱり素敵なのだと思う。


 夕食を食べ終え、二人で片付けを済ませる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 昼間は青かった海も、窓の向こうではもうほとんど見えない。波の音だけが一定の間隔で聞こえてくる。


「じゃあ、湯を沸かしてくる」


「覚えてる?」


「適温」


「そう。適温よ」


「分かってるって」


 少し不安はあったけれど、今日は任せてみることにした。


 しばらくして呼ばれ、恐る恐る指先を湯へ浸してみる。


「……あら」


「どう?」


「ちょうどいい」


「本当?」


「本当よ」


 キリーが嬉しそうに笑った。


「成長したな、俺」


「お風呂を普通に沸かしただけでそこまで誇らしげになれるの、すごいわね」


「前は熱すぎたから」


「自分で言うのね」


 それでも、ちゃんと適温だったのは事実なので褒めておいた。


 この家の浴槽は、一人で使うには困らないけれど、二人で入るにはかなり狭い。


 当然、最初は順番に入るつもりだった。


「ルル、先に入る?」


「そうしようかしら。ありがとう」


 そう答えてから、私は炉の方を見た。


 今夜使ったアラガネは、朝よりもずいぶん輝きが弱くなっている。


「……ねえ」


「うん?」


「一緒に入れば、湯が冷める前に二人とも済むわよね」


「え」


「アラガネも節約できるし」


「いや、でも」


 キリーが浴槽を見る。


 私も見る。


 確かに狭い。


「入れると思う?」


「詰めれば入れるんじゃない?」


「詰めれば」


「夫婦なんだから、今さらでしょう」


 そう言うと、なぜかキリーの方が少し気まずそうな顔をした。


「あなた、今さら照れてるの?」


「照れてない」


「じゃあ入れるわね」


「待って、心の準備が」


「しておいて」


 結局、本当に二人で入った。


 そしてすぐに後悔した。


「狭い」


「だから言っただろう」


「でも入れたじゃない」


「入れるのと快適なのは別だよ」


「もう少しそっちへ寄って」


「これ以上寄ったら壁なんだけど」


「じゃあ足を畳んで」


「畳んでるよ」


「膝が当たってる」


「ルルの膝も当たってる」


「……狭いわね」


「うん」


 しばらく二人で悪戦苦闘した結果、向かい合って座るのは諦めた。


 最終的には、私がキリーの足の間に収まる形で座ることになった。


「これなら少し広い」


「広くはないよ」


「さっきよりはましでしょう」


「それはそうだけど」


 背中に彼の身体が触れている。


 狭い浴槽の中では、腕も脚も離しようがなくて、少し動けばどこかがぶつかる。


「ねえ」


「なに?」


「やっぱり一人ずつ入った方がよかったかもしれない」


「言い出したのルルだろう」


「そうだけど」


 振り返ろうとして、頭が彼の顎へぶつかった。


「痛っ」


「あ、ごめんなさい」


「大丈夫」


「だから狭いのよ」


「それもさっきからずっと言ってる」


 今度は二人とも笑ってしまった。


 仕事を終え、美味しい夕食を食べ、節約のためだと言い張って二人で小さな風呂へ押し込まれている。


 昔の自分が見たら、何と思うだろう。


 きっと、信じない。


 アルバ・ウィットコームが小さな漁村の家で、こんなふうに暮らしている未来など、想像できるはずがない。


「ルル」


「なに?」


「幸せ?」


 耳元で、不意に尋ねられた。


 私は少しだけ考えた。


 働けば疲れるし、家事は毎日あるし、アラガネの残量も気にしなければならない。ウィンにはまだ連絡できず、いつ連絡できるかも分からない。


 それでも。


「幸せよ」


 答えると、後ろでキリーが小さく笑った。


「俺も」


「知ってるわ」


「なんで?」


「顔を見てれば分かるもの」


「今、顔見えてないだろう」


「見なくても分かるわよ」


 そう言うと、背中越しに彼がまた笑ったのが伝わってきた。


 浴槽は狭くて、少し動けば膝も肩もぶつかるし、お世辞にも優雅な入浴とは言えない。


 けれど、こうして二人で笑っていられるなら、狭いお風呂も案外悪くない。


 もう少しだけこのままでいようかと思いながら、私は温かな湯の中で肩の力を抜いた。




◆ ◆ ◆


 その夜は、二人ともいつもより少し遅くまで起きていた。


 何をしていたのかは、詳しく語るほどのことでもない。


 ただ、狭い家の中で二人きり、今日あったことを話したり、笑ったり、ときどき言葉が途切れたりしながら過ごしているうちに、いつの間にか夜も随分深くなっていた。


 やがて寝台へ入り、キリーと抱き合って愛し合ったあとは、仕事の疲れと湯上がりの心地よさも相まって、すぐに眠気が訪れた。


 夢を見た。


 ずっと昔の夢だった。


 まだ私たちが小さくて、家のことも、身分のことも、これから先に待っているものも何も知らなかった頃。


 庭を走っているモリーがいて、その後ろを私が追いかけている。


『待ちなさいよ、モリー!』


『アルバが遅いんだよ!』


『二人とも、何をしておりますの!』


 少し離れたところから、ウィンの声が飛んでくる。


 けれど声とは裏腹に、あの子もすぐにこちらへ走ってきた。


 三人で何をして遊んでいたのかは、もうよく覚えていない。


 花を摘んでいたような気もするし、木の陰に隠れて誰かを驚かせようとしていたような気もする。


 ただ、三人ともよく笑っていた。


 それだけは、はっきり覚えている。


 夢の中では、何も変わっていなかった。


 モリーはモリーで、ウィンはウィンで、私はアルバだった。


 大人になって、名前も暮らしも変わり、それぞれ別の場所にいる今となっては、もう戻ることのできない時間だ。


 それでも、不思議と寂しい夢ではなかった。


 目を覚ました時、隣ではキリーが静かな寝息を立てていた。


 窓の外はまだ薄暗く、夜と朝の境目にあるような青い光が部屋へ差し込んでいる。


 私はしばらく寝台の中で夢の続きを思い出していたけれど、どうにも目が冴えてしまったので、そっと起き上がった。


 キリーを起こさないように服を羽織り、家の外へ出る。


 早朝の海は、昼間とはまるで違っていた。


 水平線の向こうがわずかに明るみ始め、まだ眠っているような海面が淡い光を返している。風は少し冷たく、潮の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、身体の奥まで朝の空気が染み込んでくるようだった。


 なんとなく海を眺めながら歩いていると、家から少し離れた岩場に、小さな花が咲いているのが目に入った。


 銀色がかった葉の間に、小さな白い花が咲いていた。


 岩の割れ目から細い茎を伸ばし、その先にいくつも小さな花をつけている。


「あら」


 しゃがみ込んで、そっと覗き込む。


 たしか、ヒナヒナという名前だったはずだ。


 以前、同じ花を見かけた時に近所の奥さんへ尋ねると、そう教えてくれた。


『この辺じゃよく咲いてるよ。岩の間でも平気で根を張るし、潮風にも強いんだ』


 この村の人たちにとっては、特別珍しい花でもないらしい。


 当然、花言葉なんて誰も知らなかった。


 そもそも、そんなものを気にしたこともないようだった。


「セラフィタ様なら、ご存じだったかしら」


 ふと、あの美しい人の顔が浮かんだ。


 花を一輪携えて訪ねれば、どんな話でも楽しそうに聞いてくれる、不思議な令嬢。


 ウィンは、私たちが無事に逃げおおせたことまで、あの方にお話ししたのかしら。


 もし、この花を持ってお伺いしたなら、セラフィタ様はどんな意味を教えてくれるのだろう。


 そんなことを考えながら、私はヒナヒナの小さな花弁を指先でつついた。


 可愛らしい花だった。


 けれど、この岩だらけの海辺で根を張り、潮を浴び、強い風に吹かれながら毎年花を咲かせるという。


「見かけによらないのね、あなた」


 風に揺れる花へ話しかけると、細い茎が小さく震えた。


 私も、ここで生きていく。


 アルバ・ウィットコームとしてではなく、ルルとして。


 魚の匂いのする仕事をして、アラガネの残りを気にしながら夕食を作り、少し頼りない夫と狭い風呂へ入り、ときどき遠くにいる大切な友人を思い出しながら暮らしていく。


 昔とは何もかも違うけれど、それでいい。


 できることなら、この小さな花のように、どこへ根を下ろしても強く、それでも可憐に生きていきたいものだ。


 ヒナヒナが、朝の潮風に揺れた。


 その向こうでは、昇り始めた陽の光が海を少しずつ銀色に染めていた。


 私はもう一度だけ花へ触れてから立ち上がり、キリーの眠る家へと戻っていった。



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