余話 海辺に根付いた二人③
「あなた、こういう時は本当に頼もしいのね」
「こういう時は?」
「あら。褒めたのよ」
「前半に何か余計なものがついてた気がするな」
「気のせいよ」
笑って誤魔化すと、キリーは少し不満そうな顔をしながらも、結局笑った。
午後になると彼は荷車に乗って町へ出かけ、私は加工場に残った。
魚を何枚も開き、塩を振り、吊るしていくうちに、陽は少しずつ西へ傾いていった。
仕事が終わる頃には腕も肩も重くなっていたけれど、不思議と嫌な疲れではない。
自分で働いて、自分で食べるものを買い、自分たちの暮らしを作る。
昔なら当たり前ではなかったことが、今では一日のほとんどを占めている。
店の片付けを終えて外へ出ると、ちょうど道の向こうから見慣れた荷車が戻ってくるところだった。
キリーが手綱を握り、その前では栗毛の馬がゆっくりと荷車を引いている。
「おかえりなさい」
「ただいま。ルルも終わった?」
「今ちょうど」
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
荷物を下ろすのを少し手伝ってから、私たちは家へ向かった。
朝とは違い、海は傾いた陽を受けて赤みを帯び、浜から吹く風も少し冷たくなっている。
「町はどうだった?」
「いつもの宿に干物を四箱、残りは食料品店へ。塩漬けも全部引き取ってもらえたよ」
「ちゃんと値段も確認した?」
「した」
「お釣りは?」
「確認した」
「偉いわ」
「子供扱いしてない?」
「してないってば」
そう言いながら笑っていると、朝に歩いた道がずいぶん短く感じられた。
家へ着く頃には、二人ともほどよく疲れていて、お腹も空いていた。
朝のうちに下ごしらえをしておいた魚も、そろそろちょうどいい頃だろう。
「さて、夕食にしましょうか」
「俺も手伝うよ」
「……本当に?」
「なんだ、その間は」
「いいえ。やる気があるのは、とても良いことだと思っているわ」
そう答えながら家の扉を開けると、後ろからキリーが少し不満そうについてきた。
彼の名誉のために言っておけば、決して怠け者ではない。
頼めば何でもやろうとするし、知らないことは覚えようとする。
仕事から帰れば水を運んでくれるようになったし、食器の置き場所も覚えたし、最近では翌日に必要なアラガネの残量まで確認してくれるようになった。
問題は、やる気と結果が必ずしも同じ方向へ向かってくれないことだった。
「じゃあ、炉をお願いしてもいい?」
「任せて」
自信満々に返事をしたキリーを残し、私は魚を台所へ運んだ。
私たちの家にも、他の家と同じように小さな界力炉が備えつけられている。燃料には安価なアラガネの粗石を使うもので、料理をしたり、お湯を沸かしたりする程度ならこれで十分だった。
炉へ収められたアラガネは、まだ淡い光を帯びている。
使うほどにその輝きは薄くなり、力を使い切れば、最後には淡い光を残してふわりと消えてしまう。
この村へ来るまで、私はそれをじっくり眺めたことなどなかった。
アラガネはヴァイの恵み。
幼い頃から当たり前のようにそう教わってきたけれど、暮らしの中で毎日のようにその光が消えていくのを見るようになってからは、その言葉を以前より身近に感じるようになった気がする。
「ルル」
そんなことを考えながら、朝に下ごしらえしておいた魚を取り出していると、背後からキリーに呼ばれた。
「なに?」
「これで合ってる?」
振り返ると、界力炉が随分と威勢よく熱を放っていた。
「……あなた、何を作るつもり?」
「夕食」
「二人分の夕食に、その火力はいらないわよ」
「強い方が早く焼けるかと思って」
「表面だけ焦げて、中が生になるわ」
「なるほど」
キリーは素直に出力を落とした。
炉に刻まれた調整用の流印へ触れると、強かった熱がゆっくりと穏やかになり、それに合わせてアラガネの輝きも落ち着いていく。
「前にも言ったでしょう。強くすれば何でも早く済むわけじゃないの」
「馬なら速く走らせたい時は速く走らせるんだけどな」
「魚は馬じゃないのよ」
「それは知ってる」
「知っていて安心したわ」
少し笑いながら、私は魚の表面の水気を拭った。
この人は馬なら遠目に歩き方を見ただけで疲れているかどうかまで分かるのに、台所へ入ると途端に加減というものが怪しくなる。
「それに、そんなに出力を上げたらアラガネがもったいないでしょう」
「あ」
「……今、気づいたのね?」
「屋敷にいた時は、残量なんて気にしたことがなかったから」
「でしょうね」
四爵家の嫡男が、夕食を一度作るのにアラガネをどの程度使うかなど、知る必要もなかったのだろう。
けれど今は違う。
炉の中で淡く光っているのは、この家で料理をして、お湯を沸かし、風呂を使うための燃料でもある。使い切れば光を残して消えてしまい、次のものを買わなければならない。
「今夜、お風呂も沸かすんだから。夕食だけで使い切らないでね」
「ああ、そうか」
「そうか、じゃないわよ」
私は思わず笑ってしまった。
この家には、小さいながらも浴槽がある。
立派なものではないし、二人で入るにはかなり窮屈だけれど、炉へアラガネを入れて流印を作動させれば、きちんと湯を沸かすことができる。
この村へ来たばかりの頃は、こんな小さな家にも風呂があることに少し驚いたけれど、考えてみればアラガネがあれば、火を焚くための薪を大量に置いておく必要もない。粗い石でも、日々の暮らしに使う程度なら十分なのだ。
「じゃあ、夕食のあとに俺が湯を沸かすよ」
「……大丈夫?」
「なんでそこでも疑うんだ」
「この前、熱すぎて足を入れられなかったでしょう」
「あれは少し出力を上げすぎただけだよ」
「少し?」
「……かなり」
「でしょうね」
界力炉には湯温を調整する流印もついているのだから、本来ならそこまで難しいことではない。
ただし、キリーはどうやら何事にも『少し強めにしておけば早く済む』と思うところがあるらしく、料理でも風呂でも、その考え方があまり良い結果を生まないのだった。
「今日はちゃんとやるよ」
「本当に?」
「適温にする」
「どのくらいが適温か分かる?」
「……ルルが入って熱くないくらい?」
「それを判断するのがあなたの仕事でしょう」
しばらく考えたあと、キリーは真面目な顔で頷いた。
「分かった。手で確かめる」
「それならよろしい」
こういうことも、最初から知っていたわけではない。
アラガネをどのくらい使えば夕食を作れて、どのくらい残しておけば風呂まで足りるのか。湯を沸かす時にはどの程度の出力にすればよくて、使い終わった炉をどう止めるのか。
昔なら使用人がすべてやってくれていたことを、今は一つずつ、自分たちの手で覚えている。
それが不便かと聞かれれば、確かに不便なのだろう。
けれど、仕事から帰って夕食を作り、そのあとに湯を沸かして、今日あったことを話しながら眠る。
そんな暮らしも、私は案外好きだった。
「じゃあ次は、昨日の豆を出してもらえる?」
「豆」
「棚の上の器よ」
「ああ、あれか」
今度こそ大丈夫だろうと思ったのだけれど、しばらくして再び「ルル」と呼ばれた。
「どっち?」
見ると、キリーは両手にひとつずつ器を持っている。
「右が豆。左は乾燥させた木の実よ」
「……両方、豆に見える」
「全然違うでしょう」
界力炉を扱えるようになっても、豆の区別はまだつかないらしい。
生活というものは、覚えることが本当にたくさんある。
結局、豆は私が選び、キリーには鍋へ移してもらった。
昨日のうちに柔らかく煮ておいた豆へ少し水と追加の別の豆を足し、刻んだ野菜と一緒にゆっくり温め直す。その横では、朝から塩と香草を馴染ませておいた魚を焼き網へ並べた。
熱された網へ魚を乗せた途端、じゅう、と食欲を誘う音が立つ。
ほどなくして、魚の脂と香草の匂いが台所いっぱいに広がった。
「……いい匂いだな」
隣にいたキリーが、分かりやすく鼻をひくつかせた。
「まだよ」
「何も言ってないだろう」
「顔に書いてあるもの」
「少しくらいなら」
「だめ」
伸びてきた手を軽く叩く。
「焼いてる途中の魚をどこから食べるつもりなのよ」
「端?」
「生焼けだったらどうするの」
「……待ちます」
「よろしい」
素直で結構。




