余話 海辺に根付いた二人②
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火傷の残る頬へ馬が遠慮なく顔を擦りつけ、キリーは困ったように笑いながら、その額を優しく撫で返している。
そんな姿を眺めながら、私は思った。
あの夜、私たちは何も持っていなかった。
けれど今は、家があり、仕事があり、この馬がいて、明日の食事の予定まである。
そして隣には、相変わらず少し頼りなくて、けれどあの頃よりずっと逞しくなった彼がいる。
ここでなら、私たちは案外、ちゃんと生きていけるのかもしれない。
そんなことを考えている間にも、キリーと馬の戯れはしばらく続いていた。
馬はよほど彼が帰ってきたのが嬉しいらしく、首筋へ鼻先を押しつけたり、肩口へ顔を擦り寄せたりしている。キリーも嫌がるどころか、魚の入った籠を足元へ置いたまま「分かった、分かった」と笑いながら額を撫で、耳の後ろを掻いてやっていた。
ずいぶん和やかな光景だった。
だからこそ、少し言い出しにくかったのかもしれない。
「……まだ早いんだとは思うけど」
私がそう切り出すと、キリーは馬を撫でていた手を止めてこちらを見た。
「ウィンに連絡したい気持ちでいっぱいなのよね」
「ああ」
何のことかは、説明するまでもなかったらしい。
「彼女が一番の功労者だからね。俺たちが今こうしていられるのも、ほとんどウィンのおかげだ」
「ええ。本当なら、とっくの昔にお礼を言いたかったわ」
ウィンがいなければ、私たちはここまで来られなかった。
逃げるための道も、助けてくれる人も、この家も、何ひとつ自分たちだけでは用意できなかっただろう。
キリーは少し考えるように目を伏せてから、静かに息を吐いた。
「父上は、もう長くはないだろうけど……今頃、相当荒れているだろうな」
「でしょうね」
「俺が死んだことになって、そのうえ色々なことまで表に出始めたんだ。癇癪くらいでは済んでいないかもしれない」
その声音はひどく冷たかった。
昔なら、その横顔を見て驚いたかもしれない。
けれど今は、もう分かる。
あれは、四爵家の嫡男として身につけた最後の貴族らしい冷淡さなのかもしれないし、あるいは実の父親に対する情が、長い年月のうちにすっかり擦り切れてしまった結果なのかもしれない。
どちらにしても、キリーが父親の死を悲しむことはないのだろう。
「ウィンは、自分が全部引き受けるつもりだったんでしょうけどね」
「うん。そう言っていた」
キリーは困ったように眉を下げた。
「でも、それと心配しないでいられるかは別だよ」
「そうね」
私も同じだった。
あの子なら大丈夫だと分かっている。
誰より頭が良くて、強くて、自分が何をしようとしているのかも十分承知している。
それでも、大切な友人が厄介事の真ん中にいると分かっていながら、何もできないのは落ち着かなかった。
「まだ数ヶ月じゃ、連絡は取れないかな」
キリーはそう言って、馬の首筋をゆっくり撫でた。
「いつ、どこから父上に知られるか分からない。せめて父上が亡くなって、家の中が完全にウィンの手中に収まってからじゃないと」
「……やっぱり、そうよね」
分かってはいた。
結局のところ、ブレイクムーア家の当主ブロデリック様が生きている限り、私たちはウィンへ連絡を取らない方がいい。
どんなに遠く離れていても、どんなに名前を変えていても、わずかな糸を残せば、それを辿られる可能性はある。
今の私たちは、アルバ・ウィットコームとモールデン・ブレイクムーアではない。
ルルとキリーだ。
身分も暮らしも何もかも違う、第三者から見ればウィニフレッド・ブレイクムーアとは何の関わりもない、見知らぬ二人でいなければならない。
仕方のないこととはいえ、それはやっぱり少し悲しかった。
できることなら今すぐにでも伝えたい。
あなたのおかげで、私たちはちゃんと一緒にいます、と。
ウィンなら、それを聞いて何と言うだろう。
私は少し考えてから、すぐにひとつの答えへ行き着いた。
『便りがないのが元気な証拠と申しますでしょう? でしたら今は、何も知らせてくださらない方が安心ですわ』
脳裏に浮かんだウィンは、いつものように胸を張り、いかにも当然という顔でそう言っていた。
「……ふふ」
「どうしたの?」
「いいえ。ウィンなら、便りがないのが元気な証拠だって言いそうだなと思って」
キリーは一瞬目を丸くしたあと、吹き出すように笑った。
「ああ。言うな。絶対に言う」
「でしょう?」
「たぶん、そのあとに『わたくしを誰だと思っておりますの?』くらいは付く」
「それも言うわね」
想像の中のウィンがあまりにもウィンらしくて、私はとうとう声を上げて笑ってしまった。
遠く離れていても、しばらく声を聞けなくても、あの子が何を言うのかくらいは簡単に想像できる。
それが少しだけ嬉しくて、同じくらい寂しかった。
いつか、本当にきちんと連絡を取れる日が来たら、その時には伝えたいことが山ほどある。
まずは、ありがとう。
それから、ちゃんと二人で立って生きていること。
そしてきっと最後には、海辺の村で魚を運びながら暮らすのも、思っていたより悪くないのだと話すのだろう。
そんな話をしているうちにも、朝の時間は過ぎていく。
いつまでも馬と遊んでいるわけにもいかないので、私はキリーを促して魚籠を家の中へ運び込み、買ってきた魚を台所へ並べた。
夕食に使う二匹は鱗と内臓を取って軽く塩を振り、近所の奥さんから分けてもらった香草と一緒に置いておく。こうして朝のうちに下ごしらえをしておけば、仕事を終えて帰ってくる頃にはちょうど味が馴染んでいるらしい。
残りは塩漬けにするものと、干すものに分けた。
「これは?」
横からキリーが一匹持ち上げる。
「それは干す方」
「こっちは?」
「塩漬け」
「見分け方があるの?」
「大きさと身の具合を見てるのよ」
「なるほど」
分かったような顔をしているけれど、たぶんまだ分かっていない。
「覚えたいなら、また今度一緒にやりましょう」
「うん」
素直に頷くところを見ると、本人なりに本気なのだろう。
最初の頃は、何を頼んでも知らないことばかりだったけれど、キリーは知らないことを恥じるより、ひとつずつ覚える方を選んだ。できないことの多さに本人が一番驚いていた時期もあったけれど、それでも投げ出さなかったのだから、ずいぶん立派だと思う。
魚の下ごしらえを終えると、私たちは揃って仕事へ向かった。
今、二人とも村の魚問屋で働いている。
港で揚がった魚を仕入れ、村の中や近隣の町へ卸したり、塩漬けや干物に加工したりする、小さいけれどこの辺りでは昔からある店だった。
私は主に加工場の手伝いをしている。
魚を洗って、開いて、塩を振り、干す。初めの頃は魚の匂いが髪や服について取れないことにも驚いたけれど、今では仕事終わりに自分から魚の匂いがしても、今日もよく働いたなと思うくらいになった。
それに最近では、加工の仕事が一段落すると、店主から帳簿を渡されることも増えている。
「ルル、ここの数字、昨日の分と合ってるか見てくれるか」
「はい」
差し出された帳面を受け取り、仕入れと売上を照らし合わせていく。
魚の種類ごとの値段、塩の仕入れ、荷車の使用料、町への配達で受け取った代金。
こういう数字を見ることには、昔から慣れていた。
ウィットコーム家にいた頃、家政や領地経営の基礎として教わったものが、こんなところで役立つとは思っていなかったけれど、覚えておいて損になることなど案外少ないらしい。
「ここ、昨日の干物一箱分が抜けています」
「ああ、本当だ」
「それを足せば合いますよ」
「助かった。俺はこういう細かい数字がどうにも苦手でなあ」
店主が頭を掻くのを見て、私は少しだけ嬉しくなった。
ここへ来たばかりの頃は、何の役にも立てないのではないかと不安だった。
けれど今では、魚の捌き方を教えてもらう代わりに帳簿を手伝い、知らない保存方法を教えてもらう代わりに計算を引き受ける。
少しずつだけれど、ちゃんとこの村の中に自分の居場所ができ始めている気がした。
一方のキリーはというと、主に荷運びを任されていた。
港から店へ魚を運び、出来上がった干物や塩漬けを荷車へ積んで、近隣の店や宿へ届ける。
最初は荷物の積み方も縄の結び方も知らず、店主や年上の働き手に何度も教えられていたけれど、馬が関わると話はまるで違った。
「その子、今日は使わない方がいいと思います」
昼前、荷車へ馬を繋ごうとしていた男へ、キリーがそう声をかけた。
「なんでだ?」
「右前脚を少し庇ってます。昨日、石でも踏んだんじゃないかな」
言われた男が馬の脚を確かめると、蹄の際に小さな傷が見つかった。
「よく分かったな」
「歩き方がいつもと違ったので」
キリーはそれだけ言うと、代わりに使う馬の様子を見始めた。
馬の背や脚に触れ、鼻先を撫で、耳の動きを眺めながら、その日の調子を確かめている。台所では最初野菜と薬草の区別すら怪しかった人と同一人物だとは、時々こちらまで分からなくなる。
「キリー、午後は町まで行くんでしょう?」
「ああ。干物を六箱と塩漬けを二樽」
「道は大丈夫そう?」
「海沿いは昼過ぎから風が強くなりそうだから、内側の道を使うよ。少し遠回りだけど、その方が馬も楽だと思う」
そういうことを話している時の彼には迷いがない。
昔から馬が好きだったのは知っていたけれど、それが単なる趣味ではなく、こうして生活を支える技術になるとは、私も思っていなかった。




