余話 海辺に根付いた二人①
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side ルル
あれから、幾月かが経った。
目の前には、今日もどこまでも青い海が広がっている。
陽の光を受けた水面は細かな銀片を撒いたようにきらきらと瞬き、その上を白い海鳥が風に乗って滑っていった。
初めてこの村へ来た頃は、窓を開けるたび鼻いっぱいに入り込んでくる潮の匂いに驚いたものだけれど、今ではもう、この塩気を含んだ風を吸い込むと朝が来たのだと思うくらいには慣れてしまった。
私は両手に魚の入った籠を提げ、浜から少し高いところを通る道を歩いていた。
今朝揚がったばかりの魚は、籠の中でまだ瑞々しい銀色の鱗を光らせている。
夕食に焼くもの、塩漬けにするもの、小ぶりなものは近所の奥さんに教えてもらった通り、香草を詰めて火にかけるつもりだった。
魚を買い、自分で運び、その日の献立を考える。
昔の私なら、自分がそんな暮らしをするようになるなんて想像もしなかっただろう。
けれど、やってみれば案外悪くない。
浜では網を片付ける漁師たちの声が飛び交い、家々の軒先には魚を干す縄と洗濯物が並んでいる。どこかでは子供たちが走り回り、屋根に降りた海鳥を追い払う誰かの声まで聞こえてきた。
貴族の屋敷にあった、きちんと整えられた静けさとはまるで違う。
魚の匂いがする。
人の声がする。
潮風は遠慮なく髪を乱す。
垂れた私の白い耳までもパタパタと揺れた。
毎日が少々騒がしく、少々雑然としていて、それでも不思議と居心地がよかった。
こうして、この土地で朝を迎えることにも慣れてきたけれど、ここへ辿り着いた日のことを思い返すと、今でもずいぶん遠いところまで来たものだと思う。
◆ ◆ ◆
あの夜、私はグッドファロウ家を出た。
持ち出したものは驚くほど少なかった。
いくらかの着替えと最低限のお金、旅に必要なもの、それから、アルバ・ウィットコームだった私が最後まで捨てきれなかった小さな私物をほんの少し。
彼も同じだった。
あの時彼はまだ、モールデン・ブレイクムーアだった。
四爵家の嫡男が人生を捨てて旅立つというのに、その荷物はあまりにも簡素で、私は本当にそれだけでいいのかと何度も尋ねた。
『持っていきたいものを全部持っていったら、たぶん俺はいつまで経っても、あの家から出られない』
彼はそう言って、少し寂しそうに笑った。
爵位も、財産も、家名も。
モールデン・ブレイクムーアという名前で手に入れたものを、彼はあの夜、本当に置いてきたのだ。
私たちは馬車で街を離れたけれど、その馬車で最後まで逃げたわけではなかった。
雨の続いた山道では、ウィンがセラフィタ様に託し、私たちへ伝えられた符牒で示されていた辺りで実際に崖崩れが起きていた。
セラフィタ様の言葉が何を意味していたのか、そこでようやくはっきりと分かった。
馬を外したあと、崩れた路肩から、今までモールデンが使っていた馴染みの馬車を旅荷物ごと濁流へ落とした
そして、私たちのものだと分かる品もいくつか。
水へ投げ入れられたそれらは、馬車ごと瞬く間に濁流へ呑まれて見えなくなった。
私はそれを眺めながら、妙な気持ちになったことを覚えている。
あの川へ荷物と一緒に流れていくのは、アルバ・ウィットコームという名前なのかもしれないと思った。
『……大丈夫?』
隣にいた彼が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
『あなたこそ』
『俺は……怖いよ』
なんとも彼らしい、正直な答えだった。
けれど、そのあとに続いた言葉は迷っていなかった。
『でも、戻りたくはない』
『私もよ』
この先、どう暮らすのか。
ちゃんと仕事を得られるのか。
お金が尽きないか。
身元が知られないか。
追手が現れないか。
何一つ分からなかった。
それでも私は彼の手を取って、『行きましょう』と言った。
その後、付近で待機していた、ウィンが信頼している人たちが私たちを逃がしてくれた。
誰がどこまで事情を知っていたのか、今でも私は知らない。けれど皆、余計なことを尋ねることなく馬車を乗り換えさせ、着替えを用意し、人目につきにくい道を教えてくれた。
ある場所では荷車に乗せられ、またある場所では旅人の夫婦を装った。
そして、その途中で私たちは今までの名前まで置いてきた。
新しい私はルル。
新しい彼はキリー。
最初は呼び慣れなくて、何度も昔の名前を口にしかけたものだ。
そして最後に辿り着いたのが、ネリッサ方面のこの小さな漁村だった。
セラフィタ様が伝えてくださった、『海風の当たる場所でも』とは、こういうことだった。
ウィンが用意してくれた家は、貴族の屋敷とは比べるべくもないほど小さかった。寝台も、卓も、台所も、何もかもが慎ましく、使用人などもちろん一人もいない。
それでも初めて扉を閉め、二人きりになった時。
彼は粗末な卓の向こうで、しばらく私の顔を眺めてから言った。
『……本当に、来てしまったな』
『ええ』
『後悔してる?』
『していたら、ここまで来ません』
そう答えると、彼は安心したように笑った。
あの時の私たちには、何もなかった。
家名も、爵位も、これから先の保証もない。
あったのは少しのお金と、一頭の馬と、お互いだけ。
◆ ◆ ◆
―― それから幾月。
今では、少しずつ持っているものが増えた。
暮らす家。
仕事。
顔を覚えてくれた村の人たち。
魚の美味しい焼き方を教えてくれる隣人。
そして――。
「ルル」
背後から聞こえた声に、私は回想から引き戻された。
振り返ると、少し先の道をキリーがこちらへ歩いてくるところだった。
「どうしたの?」
「きみが魚を買いに行ったと聞いたから。迎えに来た」
「すぐそこなのに?」
「すぐそこでも、その籠は重いだろう」
そう言うなり、彼は私の手から片方の籠を受け取った。
「……重いな」
「魚が十匹以上入っているもの。軽いわけないでしょう」
「なるほど」
納得したように頷きながら籠を持ち直す様子を見て、私は思わず笑ってしまった。
少し前までこの人は、魚が一匹いくらなのかも、アラガネをどのくらい買えば一晩もつのかも知らなかった。
話をしながら歩いていると、やがて海沿いの小さな家が見えてきた。
家の脇には簡素な柵があり、その向こうから栗毛の馬がこちらへ首を伸ばしている。
私たちの姿を見つけるなり、馬はぶるる、と嬉しそうに鼻を鳴らした。
「おお、ただいま」
キリーの顔がぱっと明るくなる。
さっきまで魚籠の重さに少々くたびれていた人とは思えない。
籠を置いて柵へ近づくと、馬も待ちきれないというように大きな顔を伸ばし、彼の肩や頬へぐいぐいと擦りつけ始めた。
「分かった、分かった。ただいま。いい子にしてたか?」
声まで違う。
私はそれを見て、くすくすと笑った。
「あなた、本当にその子には甘いわね」
「ルルだって可愛いものには甘いだろう」
「大きな馬と一緒にしないでちょうだい」
「同じようなものじゃないか?」
「全然違うわよ」
即答すると、キリーも笑った。
この子は家族だし、とっても可愛いけれど、小動物の可愛さとはまた違うもの。
馬はもう一度、彼の顔へ鼻先を寄せた。
人相を変えるために残した、顔の半分を覆う火傷の痕。
それを初めて見た時、私は言葉を失った。
そこまでしなくてもよかったのではないかと、今でも時々思う。
けれど、彼はその傷を隠そうとはしない。
モールデン・ブレイクムーアとして生きた顔を捨てるために、自分で選んだものだからなのだろう。
今では私も、その痕から目を逸らすことはなくなった。
◆ ◆ ◆
キリーが顔を変えたのなら、私も以前のままというわけにはいかなかった。
アルバ・ウィットコームといえば、白銀の長い髪。
自分で言うのもなんだけれど、そこそこ見栄えのする髪だったと思う。昔は手入れにも随分と時間をかけていたし、腰近くまで伸ばしたそれを褒められることも少なくなかった。
だから、この村へ来て間もない頃、私は思い切ってばっさりと切った。
そして、その髪は売った。
『……髪って、売れるのか?』
切った髪を束ねている私を見て、キリーは目を丸くしていた。
『売れるわよ。これだけ長くて傷みも少なければ、それなりのお金になるもの』
『知らなかった……』
元四爵家の嫡男らしいと言えば、実にらしい反応だった。
髪が金になるかどうかなど、これまでの彼の人生では知る必要もなかったのだろう。
けれど私は、切った髪を手にしながら少しだけ気になっていた。
彼は、長い髪の私をずっと見てきた。
子供の頃から知っている顔が変わり、髪まで短くなったら、少しくらい寂しがるのではないだろうか。
そんなことを考えながら振り返ると、キリーは短くなった私の髪をしばらく眺め、それから嬉しそうに笑った。
『髪の短いルルも、すごく可愛いね』
あまりにも迷いなく言うものだから、私は一瞬、返事に困ってしまった。
『……悲しくないの?』
『何が?』
『長い髪、好きだったでしょう』
『好きだったよ』
キリーは当然のように頷いたあと、私の短くなった髪へそっと触れた。
『でも、俺が好きだったのは髪だけじゃないから』
『……そう』
『短いのも似合ってる。顔がよく見えて可愛い』
『もういいわ』
『本当に可愛いのに』
『分かったから』
そう言いながら、たぶん私は少し笑っていたと思う。
こういうところが、小憎らしいというか。
いえ。
きっと、素敵なところなのだ。
昔からそうだった。
何もかも器用にこなせる人ではないし、今だって暮らしのことでは私の方がよほど頼りになる。それなのに、こちらが少し不安に思っていることを、本人は大したことでもないような顔で飛び越えてしまう時がある。
長い髪を失っても。
私がアルバではなくルルになっても。
彼にとっては、それほど大きな問題ではないらしい。
そういうところが、私は昔から好きなのだと思う。




