終幕 真実の愛 花の残香
◆ ◆ ◆
ウィニフレッド様をお見送りしたあと。
つい先ほどまで賑やかだったガゼボには、いつもの静けさが戻っていました。
卓上には、幾輪もの赤いチューリップ。
飲み終えられたティーカップの底には、鮮やかな花弁が一枚だけ残っています。
そしてセラフィタ様のお膝の上では、ネイコさんが何事もなかったかのように丸くなって、ごろごろと喉を鳴らしていました。
私は使い終えた食器を盆へ載せながら、何度目になるかも分からないため息を、ほう、と零しました。
「ウィニフレッド様、素敵な方でした……。また来てくださいますかね」
「彼女のお悩みは解決したようですので、花伺いはもうないのではないでしょうか」
そう答えたのは、向かいでティーポットを片付けていたエンヴィアさんです。
いつも通りのお顔。
いつも通りのお声。
先ほどまであれほど大変なお話を聞いていたというのに、もうすっかり日常のお仕事へ戻っていらっしゃいます。
「そう、ですよねえ……」
分かってはいるのですけれど。
なんだか少し、寂しい気がします。
モールデン様がいらして、
アルバさんがいらして、
そして最後に、ウィニフレッド様がいらして。
それぞれ違うお花を携えて、それぞれ違うお話をしてくださいました。
けれど結局。
あのお三方のお話は、最初から最後まで、一本の蔓のように繋がっていたのです。
赤いスイートピー。
クレマチス。
そして、赤いチューリップ。
今になって思い返してみれば、どのお花にも、あの三人の姿が重なって見えるような気がしました。
「……花伺いでなくても、遊びにいらしてくださればよいのですけれど」
「それならば、いらっしゃるかもしれませんね」
「あら」
エンヴィアさんがそんなことを仰るとは思わず、私は顔を上げました。
「そう思われますか?」
「少なくとも、ニコ目当てで」
「……随分と確信がおありですねえ」
ごろごろごろ。
当のネイコさんは、セラフィタ様のお膝でたいへん満足そうです。
「あれだけ好かれていましたので」
「なるほど」
非常に説得力があります。
「ふふ。ウィニフレッド様には、またいつでもいらしていただきたいですね」
セラフィタ様が、ネイコさんの漆黒の背をゆるりと撫でました。
「お話をお伺いする用事がなくとも。お茶を飲んで、お花を眺めて、ネイコを可愛がっていただくだけでも」
「ネイコさんは、優秀なおもてなし要員ですねえ」
「自覚もありそうですしね」
エンヴィアさんが淡々と仰います。
その膝の上へ視線を落とすと、ネイコさんがぴくりと耳を動かしました。
……本当に分かっているのでしょうか。
分かっていそうなのが、ネイコさんの恐ろしいところです。
私は思わず、ふふ、と笑いました。
なんだか。
とても穏やかな気持ちでした。
あれほど大がかりなお話だったというのに。
最後に残ったものは、不思議なくらいあたたかくて。
モールデン様とアルバさんは、生きています。
遠いネリッサの方角で。一頭の馬と一緒に。
きっと今頃は、慣れない平民暮らしに四苦八苦しながらも、二人で同じ場所にいるのでしょう。
そしてウィニフレッド様は、王都で御自身の未来へ向かって歩いていく。
三人とも、同じ場所にはいなくてもそれぞれが望んだ方へ進んでいるのです。
――真実の愛と呼べるものが、恋愛だけだと誰が決めましたの?
あの言葉を思い返すと、胸の奥に仄かな灯りが灯ったような気持ちになりました。
恋とは、難しいものです。
愛ともなれば、もっと難しいのでしょう。
けれど、
分からないからこそ、こうして誰かのお話を聞くことには意味があるのかもしれません。
……なんて。
侍女になってまだ日の浅い私が考えるには、少々偉そうでしょうか。
私は一人で小さく笑って、最後のカップを盆へ載せました。
「こちらのチューリップは、お部屋の方へお下げしますね。こちらのカップも、もう必要ではないようですのでお下げいたします」
ぺこりと、セラフィタ様とエンヴィアさんへ頭を下げます。
そのまま盆を抱えてガゼボを退こうとすると、ネイコさんがこちらを見上げました。
「にゃーん」
なんとも可愛らしいお声です。
ふわふわの背中の翅が、まるで私に挨拶するかのように開閉しています。手を振られているみたいです。
愛嬌の振りまき方のプロフェッショナルです。
つい足を止めて、にこにこと見つめ返してしまいます。
……などと、すっかりネイコさんの愛らしさにメロメロになりながら歩んでいったところで、
「あら」
ふと気がつきました。
移動させるつもりでまとめていた小皿のうち、最後の一枚をガゼボへ置いてきてしまったようです。
もう中庭を抜けようかというところまで来ていましたので、ほんの少し迷いました。
けれど、戻ることにします。
これくらいの距離なら、四ツ足の私にとってはひょいひょいのひょーいです。
学院の中庭はとても広く、ところどころに皆の憩いの場としてガゼボがあります。
その中でも、少しばかり場所の分かりにくい奥の――さらに、おくーの方。
そこに、セラフィタ様がいつもお使いになっているガゼボがございました。
どうやらここは暗黙の了解で、ほとんどセラフィタ様専用のガゼボのような扱いになっているようです。
私は来た道を戻りながら、ふと、お伽噺の中のお嬢さんが不思議な庭園へ迷い込むような光景を思い浮かべました。
生垣には薔薇がいくらか咲いていて。
緑の間から赤や桃色の花が覗く様子は、まるで誰かを奥へ奥へと誘う花道のようです。
素敵な道なのです。
そんなことを考えながら、私は元の道を軽やかに戻っていきました。
そうしてガゼボへ近づくにつれて、ふと、かすかに人の声が、耳へ触れました。
「……?」
思わず足を止めます。
ガゼボの手前。ちょうど、生垣の辺りです。
確か、このガゼボにはヴェルディエ家の魔道具の効果が働いていて、中で交わされた会話は外へ届かないはずです。
けれど、もう一歩、さらにもう一歩と近づけば。
途切れ途切れではあるものの、確かにセラフィタ様とエンヴィアさんのお声が聞こえてきます。
……あら?
以前お伺いしたお話と、少し違うような。
それとも、私の耳が他の方よりほんの少しばかり欲張りなのでしょうか。
まあ、四ツ足ですし。
耳も大きめですし。
そういうこともあるのでしょう。
たぶん。
耳へ届いたのは、セラフィタ様の声でした。
「真実の愛の正体が、二人の愛ではなくて、三人の愛のお話だったなんて。こんなに素敵なお話を私達しか知らないというのは、少しもったいない気持ちもしますね」
「…………」
返事はありません。
それでもセラフィタ様は気にする様子もなく、そのまま言葉を続けました。
「でも同時に、私達だけしか知らないお話だというのは、とても贅沢な気持ちでもあります。この芳醇なお味は、しばらく堪能できそうです」
くすり、と笑う気配。
先ほどまでと変わらない柔らかな声のはずなのに、その言い回しだけが妙に耳へ残りました。
人のお話を、味わう。
そう表現すること自体は、いかにもセラフィタ様らしいのです。
なのに今は、ひとつのお話を舌の上でゆっくり転がし、香りも後味も余さず楽しんでいるように聞こえて。
ほんの少しだけ、ひやりとしたものを感じました。
「こういうことがあるから、人のお話をお伺いするのはやめられませんね。ふふふ」
「…………」
また沈黙です。
「無言を貫こうとするのはおやめなさい。感想も御馳走ですのよ」
しばらくして、ようやくエンヴィアさんが口を開きました。
「……飽きもせず、よくやると思う」
その声を耳にした瞬間、私は思わず息を潜めました。
いつもの、隙なく整えられた従者の声音とは違います。
大きな声ではありません。
けれど、平坦さの下へ押し込められていた何かが、もはや隠す気もないというように言葉の端へ現れていました。
「まあ。お話の感想を求めているというのに、無粋ですね。エンヴィアは」
「いつまでも続けられると思うなよ、とも思っている」
低い声でした。
そこで初めて、私は生垣の向こうをそっと窺いました。
葉の隙間から見えるのは、ほんの一部だけ。
エンヴィアさんは、セラフィタ様を見ていました。
普段なら何を考えているのかほとんど読み取れない黒い瞳が、今だけは違います。
そこに浮かんでいるものを、私はうまく表現できそうにありませんでした。
怒っていらっしゃるのでしょうか。
それとも、もっと別の。
少なくとも、好意的なものではないことだけは、私にも分かります。
鋭く細められた目と、低く抑えられた声。
そのどちらにも、普段のエンヴィアさんからは想像もつかないほど、苛烈な何かが滲んでいました。
私は、エンヴィアさんのことをまだあまり知りません。
けれど、こんなお顔をなさる方だったなんて、微塵も気づいていませんでした。
今まで何度も見てきたはずのお顔なのに、知らない方を見ているようです。
その眼差しに宿るものも、冷徹な声音に含まれるものも、到底、ただの不機嫌などではありません。
対するセラフィタ様は、その視線を真正面から受けながら、少しも身じろぎしません。
「……ふふ」
かすかな笑い声が零れました。
怯えるでもなく、咎めるでもなく。
むしろ、挑戦者が凛然と立ち上がる姿を待ち望んでいたかのように、深紅の瞳がゆるやかな弧を描きます。
「貴方に、終わらせられるとお思いですか」
声音は優しいままでした。
けれど、その優しさの奥には、揺るぎようのない余裕がありました。
挑発しているというより、確かめているようにも聞こえます。
あなたは、私を終わらせることができるのかと。
「私がお前を殺す」
エンヴィアさんは、迷いなく言いました。
「私がお前を終わらせる」
静かな言葉でした。
だからこそ、冗談にも脅しにも聞こえませんでした。
怒りに任せて口を滑らせたのではなく、とうの昔に決めたことを、ただ改めて口にしただけのような響きでした。
私は生垣の陰で、すっかり身体を固くしていました。
何でしょう。
これは。
何のお話でしょう。
しかしセラフィタ様は、そんな私の混乱など知る由もなく。
赤い花の残り香でも楽しむように、悠然と、泰然と、笑みを深めました。
「楽しみにしていますね」
その笑みは、常日頃から美しいと思っていたセラフィタ様の笑顔を、遥かに凌駕する美しさを纏っていました。
凄艶で、妖艶で、──婀娜の花。
ロドダモーニの花の甘くも爽やかな香りがここまで漂ってきているかのよう。
ぞわ、と。
今度こそ、背中を冷たいものが走りました。
「…………」
私はしばらく、その場から動くことができませんでした。
手には、持ち帰るはずのお盆。
ガゼボには、置き忘れた小皿が一枚。
本来なら、今すぐ取りに戻るべきです。
戻るべきなのですが。
「…………」
私は、そろりと踵を返しました。
小皿。
申し訳ございません。
今の私には、取りに戻る勇気がございません。
お盆を抱えたまま、生垣に沿って静かに中庭を離れていきます。
四ツ足なら、来た道を簡単に戻れるはずだったのに。
今ばかりは、足取りがどうにも重たいのでした。
――エンヴィアさんは、
――セラフィタ様を、殺す?
頭の中で、その言葉だけが何度もぐるぐると回ります。
お二人は、いったいどういう御関係なのでしょう。
まず思いついたのは、仇。
実はセラフィタ様が、エンヴィアさんの御家族か御友人に何かをしてしまったとか。
いいえ。
それなら、なぜ今までずっとお傍に?
では、殺人を依頼された暗殺者。
……。
それも、あまりしっくりきません。
長い間従者としてお仕えしておいて、今さら暗殺も何もないような気がします。
では、宗教上の理由。トゥア教に異を唱える、異端信仰者で……とか。
その他……呪い。
宿命。
家同士の政争。
実は昔、何かしらの交戦をしたことがある。
あるいは――。
「…………」
私は足を止めました。
いけません。
想像が、どんどん途方もない方向へ走っています。
けれど、どれだけ考えてみても、あの時のエンヴィアさんの険相と、セラフィタ様のあまりにも穏やかな微笑。そして――
『私がお前を殺す。私がお前を終わらせる』
『楽しみにしていますね』
あのやり取りだけは、どうにも頭から離れてくれません。
何だったのでしょう。
本当に。
お二人には、いったい何があるのでしょう。
私には計り知れないほど深い因縁。
それとも、何か大きなものに結びつけられた運命。
いえ、私にはまだ想像もつかない別の事情が?
考えて、考えて、考えてみましたけれど、結局のところ、答えは、ひとつも思いつきませんでした。
どうしましょう……。
父上、母上。
良縁と思っていた主人と、その職場環境は、
もしかしたら私が思っていたものとはまったく別の、あまりよろしくない何かである可能性が出てまいりました。
この職場で、トコヨは、これからやっていけるとお思いですか。
私は立ち止まり、思わず空を仰ぎました。
素晴らしい快晴で、今日は雲一つ流れていません。
どこまでも澄みきった青が広がっているばかりで。
残念ながら、蒼穹には私の知りたいことは何ひとつ書かれていないのでした。
――私はこれから、あのお二人の間で、いったいどうすればよいのでしょう。
答えの代わりに、長い嘆息だけが、青い空へ吸い込まれて消えていきました。




