第7部 赤いチューリップ 〜ウィニフレッド・ブレイクムーアの花伺い〜③
「生きておりますわよ。今は連絡は取り合えていませんが、きちんと逃避行場所まで送り届けましたわ」
「生きてる!」
思わず大きな声が出ました。
音を外へ通さないヴェルディエ家の魔道具。
ありがとう、ヴェルディエ家。
今ほどありがたく思うことはありません。
「お二人とも御無事です」
セラフィタ様が、にっこりと仰いました。
「現在は人相を少し変え、ネリッサ方面の小さな漁村で、一頭の馬とともに暮らしていらっしゃるそうですよ」
「漁村……!」
「ええ」
ウィニフレッド様も楽しそうです。
「平民の暮らし方などほとんど知らないモリーは、まあ苦労するでしょうけれど」
「モリー」
あの愛称です。
「アルバがいますもの。きっとなんとかしますわ」
「……随分と信頼していらっしゃるのですね」
「あの子は強かで賢い子なので」
「貴女よりもですか?」
セラフィタ様が、さらりと尋ねました。
ウィニフレッド様はわずかに目を見開きましたが、次の瞬間には、黒き瞳には愉快そうな色が浮かんでいました。
「ふふふ」
その笑みには、友人への信頼と、それに負けぬだけの自分自身への確信がありました。
「私には負けますわね!」
ぴんと伸びた黒い長耳まで、誇らしげです。
なんという自信。
けれど不思議と、嫌味には聞こえません。
この方はきっと、本気で、アルバさんを賢いと認めたうえで、それでもなお、自分が一枚上手だと思っていらっしゃるのです。
「ですが……」
私はまだ追いついていない頭を必死に働かせます。
「崖崩れは、偶然だったのですか?」
「事故そのものは、私たちが起こしたものではありませんわ」
ウィニフレッド様のお顔が、少し真面目になりました。
「守猟ギルドが公開している報告書を調べましたの」
「守猟ギルドの?」
「大きな災獣が通った地域や、地盤が荒れている場所。降雨量。道の状況。そういう記録は、きちんと探せば誰でも閲覧できます」
「私は少しだけお手伝いをした程度ですのよ」
セラフィタ様が弾んだ声で仰います。
「雨のあと、崖崩れが起こりやすい道をウィニフレッド様が見つけられて。それを避けるべき道として、モールデン様へお伝えしたのです」
「……避けるべき道」
私は思い出しました。
赤いスイートピー。
門出。
別離。
そして。
『山沿いの近道は景色は良いのですけれど、雨の後は足元が緩むと聞きますわ。遠回りでも川沿いの道の方が馬には優しいと――』
「…………」
あ。
「あああ……!」
あれ!
あれです!
「あれは道案内だったのですか!?」
「ええ」
セラフィタ様は、さも当然のことのように頷かれました。
「モールデン様にも、きちんと伝わっていましたよ」
『馬には優しい道、というのは大事なことだと思います。大切な友なので……』
伝わっていた!
ウィニフレッド様が続けます。
「崖崩れが起きる日時まで、完全に予測できるものではありませんの。ですから、あくまでも地盤の危うい場所を選んだだけですわ。実際に崩落が起きたのを確認したあと、その場所を偽装に使いましたの」
「ではアルバさんのクレマチスも!」
「もちろん。海風の当たる場所でも根を張れる。見知らぬ土地でも生きていける。あれはアルバからの返答でもありましたの」
クレマチス。
旅人の喜び。
策略。
たくらみ。
「…………」
花言葉の全てに意味があったのですね。
「では、新聞に載っていた馬車の破片や所持品は……」
「用意したものです」
「用意したもの!」
「川へ流れたように見えるように」
「あらあらあらあら」
また出てました。
「衛士局が調べれば、二人の持ち物だと分かるものも混ぜました。遺体が見つからないのは、川へ流されたのだろうと思われる程度に」
「…………」
この方。
ニコのお腹に顔を埋めそうになっていた方ですよね?
「もちろん、私一人ですべて行ったわけではありませんわ」
私の顔を見て察したのか、ウィニフレッド様が笑いました。
「信頼できる者の手も借りました。二人がその後、安全な場所へ移るための準備も」
「そして」
セラフィタ様が赤いチューリップの花弁へ、指先でそっと触れました。
「お二方が亡くなったことになれば、モールデン様を追う理由もなくなる」
「……なるほど」
これまでの一連の花伺いの流れの裏に、こんな企みがあったなんて。
「……ブレイクムーア家は、嫡男を失ったことになりますわ」
ウィニフレッド様の声が少し低くなりました。
「そして私は、嫡男の妻――未亡人となる」
スカビオサ。
私はふと、あの日の紫色の花を思い出しました。
セラフィタ様の白い指先で、静かに花開いたあの一輪。
未亡人。
私はすべてを失った。
不幸な恋。
悲哀の心。
あの日は、そんな悲しい意味ばかりが胸に刺さりました。
けれど。
何ひとつ。
あの時想像していた通りではなかったのです。
そして今思い返せば、同じ花にはもう一つ。
――不変の愛。
そんな言葉も、あったのでした。
「では……ブレイクムーア家の不正が今になって表へ出てきたのも」
ウィニフレッド様は、それはもう陰るところがない美しい微笑みを浮かべて、言い放ちました。
「偶然ではありませんわ」
「…………」
「あらあらあらあら」
本日三回目でしょうか。
もう正確に数える余裕もありません。
「以前から材料は集めておりましたの」
「材料」
「ブロデリック様がこれまで積み上げてこられた、あまり褒められたものではない行いの証拠です」
「全部、明るみに出したのですか?」
「まさか」
即答でした。
「全部出してしまったら、ブレイクムーア家そのものが潰れてしまうかもしれませんでしょう?」
「…………」
「必要な分だけですわ」
「必要な分」
「ええ」
なんということでしょう。
この方。
怖いです。恐ろしいです。
ちょっとだけ。いえ、結構、かなり、とても。
私は思わず身震いしてしまいました。
「家の威信は傷つく。ブロデリック様のお立場も弱くなる。けれど爵位そのものがすぐに失われるほどではない」
ウィニフレッド様は、まるで帳簿の数字を確認するような口調で仰います。
「もともと御身体の調子も思わしくなく、嫡男を失い、その上で過去の行いが表へ出る。大きな心痛を受けられることになりますわね。その痛みが御身体に更に御負担をかけることになると思われますわ。ブロデリック様には、しばらく御静養いただくことになるでしょう」
「そして、その間に――」
セラフィタ様が楽しそうに続けます。合いの手かコーラスでもされているかのような軽快さです。
「御家を立て直す方が必要になりますね」
「…………」
私はゆっくりとウィニフレッド様を見ました。
喪の黒いドレス。鈍い金と黒真珠の飾り櫛。
黒に近いブルネットの毛をもつ兎耳。
そのとき、ウィニフレッド様の唇の端が艶やかに跳ね上がりました。それは、勝算を確信した者だけが浮かべ得る、美しい微笑のように見えました。
「……ウィニフレッド様」
「はい?」
「もしかして」
「はい」
「そのお役目を……」
「務めさせていただくつもりですわ」
これは、やはり勝者の笑みです。間違いありません。
「あらあらあらあら」
なるほど。
なるほど?
なるほどでしょうか。
私の頭は理解したのに、していないような。
「そして、いずれブロデリック様が正式に御役目を退かれる時が参りましたら」
セラフィタ様が、こともなげに仰います。
「先ほど申し上げましたように」
黒真珠の眼を見つめるセラフィタ様のお顔には、隠しきれない喜色が浮かんでいました。
「――ウィニフレッド・ブレイクムーア女四爵、という未来もあり得るのでしょうね」
「ですから、お気が早いですわ、セラフィタ様」
窘めるように仰りながら、ウィニフレッド様の唇がいたずらっぽい三日月の形になっておりました。
まだ見ぬ高みを見据えるその表情には、やり手な彼女らしい不敵な余裕と、向けられた賛辞を素直に楽しむ無邪気な高揚が、絶妙なバランスで混ざり合っているようなのでした。
「…………」
私は赤いチューリップを見ました。
愛の告白。
真実の愛。
モールデン様はアルバさんを愛している。
アルバさんはモールデン様を愛している。
それは、間違いありません。
けれど。
「ウィニフレッド様」
「はい?」
「ウィニフレッド様は……」
少しだけ迷います。
「お二人のことを、とても大切に思っていらっしゃるのですね」
その瞬間。
ウィニフレッド様のお顔から、
先ほどまでの策士めいた、少し得意げな笑顔が消えます。
木漏れ日がそっと緑を照らすかのような、そんな優しい穏やかな笑顔が表れました。
「ええ」
短いお返事でした。
「私の、大切な友人たちですもの」
モールデン様と、
アルバさんと、
ウィニフレッド様。
恋をしているのは二人。
けれど。
大切に想っているのは、
二人だけでは、なかったのです。
「……これはもう、想像なのですけれど」
ウィニフレッド様は、どこか可笑しそうに首を傾げました。
「花伺いに来たモリーは、恋に酔っ払った、なんとも情けのない男のように映ったでしょう?」
モリー。
その愛称を口にするウィニフレッド様の声には、長い付き合いを思わせる親しみが滲んでいました。
「でも、あの男。本当にアルバへ強烈な恋心を抱いているくせに、きっと実際よりもっと情けなく見えるように、盲目な恋の演技までしたに違いありませんわ」
そこで、ふふふ、と堪えきれず漏れてしまったような、小さな笑い声。
「あの人はね、嘘をつくのは下手くそなのに、演技――というより、演劇は得意なの。おかしいでしょう?」
随分と楽しそうです。
「逆にアルバなんて、普段ができすぎているくらい賢い子ですもの。恋に酔っているふりをしようとしても、きっと途中から現実を見すぎたことを言い始めてしまったに違いありませんわ」
「…………」
私は思わず、あの日のことを思い返しました。
家も爵位も捨てて構わない、どこへでも行く、
そうまで仰り、どこか恋に酔いすぎているように見えたモールデン様。
一方でアルバさんは、
愛しているけれど、それだけではお腹は膨れない、自分は働ける、
モールデン様も今は何もできなくても覚えればよい、
そのように、夢よりも目先の現実のお話をしていらっしゃいました。
「…………その通りでした」
「あら」
ウィニフレッド様の黒い瞳が、愉快そうに輝きます。
「やっぱり!」
まるで、その場にいらしたかのようです。
いいえ。
きっと、いらっしゃらなくても分かるのでしょう。
モールデン様が、どういうふうに恋へ溺れる男の振舞いをするのか。
アルバさんが、どんな風に現実を語るのか。
お二人をずっと傍で見てきた、この方なら。
「…………ウィニフレッド様は、モールデン様とアルバ様を、ずっと傍で見てこられたのですものね」
セラフィタ様が、どこか温かみを持ったお声でそう仰いました。
その時のウィニフレッド様のお顔を、私はきっと忘れないと思います。
漆黒の宝石のような瞳が、柔らかく弧を描いて。
いつもきりりと立っている長い黒耳も、ほんの少しだけ力を抜くように傾きました。
そこにあったのは、計画を成し遂げた方の得意げな笑みでも、何もかも思い通りになった方の勝ち誇った笑みでもありません。
もっと静かで柔らかく、遠くにいる大切な人たちの姿を、今もすぐ傍に見ているような笑顔でした。
「……ええ、ええ! 私が世界で一番、あの二人のことを知っていましてよ。誰よりも、ずっと二人のことを想っていますのよ」
その言葉を口にするウィニフレッド様は、それはもう幸せそうでした。
未亡人として見せる静かな微笑みとも、ネイコさんを前にして蕩けていたお顔とも、先ほどまで計画を語っていた自信に満ちた笑みとも違います。
ただ、モールデン様とアルバさんという、大切なお二人を想うためだけの笑顔。
それはとても誇らしく、温かく、見ているこちらまで胸の奥が温かくなるようなものでした。
この方は、本当に、お二人のことを愛していらっしゃるのですね。
「真実の愛と呼べるものが、恋愛だけだと誰が決めましたの?」




