会話
安穏を作りだす家の扉を開いて不穏を有する外界へ足を踏み出すと、不安定な天候だった昨日とは打って変わり秋晴れが頭上に広がっていた。
家から駅へと向かう慣れ親しんだ道を歩きながら今日の予定を頭に思い浮かべる。私が出席しなければならない本日火曜の授業は十一時十五分から始まる二限目のみだが、九時四十分頃には大学へ到着している必要がある。早めに大学へ行く理由は、例えば大学図書館で勉強をしたいといった殊勝なものではない。唯一の友達と会話をするためだ。
大学には一号館、二号館、三号館とあり、それぞれにはたくさんの教室があるけれど、全ての教室があらゆる時間帯に使用されているわけではない。使用されていない一つの教室は、私に少しの安穏をもたらしながら他愛のない会話を行う場所となる。
駅の改札を定期で通り、嫌がらせのように長い階段を、重い足取りで歩いてホームへと向かい、ドアの開く場所であると教えてくれる黄色い丸印の前に立つ。
向かいのホームには大量の人間と視線が存在する。そのような光景は、多くの人にとって平凡な日常の一コマに過ぎないのだろう。しかし、人が近くに存在すると心の平穏をかき乱されて苦痛を感じる私にとっては、ホームにひしめく人間と向かい合い、彼らを視界に捉えて、また彼らの視線にさらされることは無用の劇薬を摂取するようなものだ。
目を閉じて視覚からの情報を遮りながら幸せな想像世界を思い浮かべ現実逃避をする、というのが辛い時によく行う自衛の策であるけれど、当然ながら根本的な解決にはつながらない。しかし他にやりようもないのだ。
乗るべき電車がやって来た。いつものように電車の中には大勢の人が乗っていて強い不安を感じたが、意を決し足を踏み入れる。
電車内の状況としては、あらかたの座席は埋まっており立っている人がチラホラいるという感じだ。そんなチラホラの中に私も入っているのだが、いつもよりは立っている人数が少ない気がして少し嬉しかった。しかし、ささやかな幸せは時間が経過するにつれ摩滅していき、数分後には跡形もなく消え失せてしまった。
ガタンゴトンと電車に揺られながら、恐らく誰も意図していない圧力を電車に乗っている人間から感じ続けており、そろそろ現実逃避でもしようかと考えていた頃、チノパンのポケットに少しの振動を感じた。
スマホを取り出してみると一通のメールが届いていた。それは「スマイル」の城野さんより届いたメールであった。もちろん私が城野さん本人と面識があるわけもなく、このメールは「スマイル」の運営が行っている有料メールサービスとして送られてきたものだ。
このサービスは昨日の歌番組で紹介されていて、メンバーを選ぶとアイドル本人が書いたメールが送られてくるという仕組みらしい。
到来した一服の清涼剤はタイトル欄に<おはようメール>と書かれており、本文は、
『おはよう。今日も一日頑張ろうね!』
という簡潔なものだった。このサービスに加入するまでは、アイドルからメールを貰うことで幸せな気分に浸れるとは思ってもいなかった。しかし、昨日の音楽番組終了後に送られてきた<おやすみメール>を読んだ時と同様に紛れもない事実だ。
幸福の余韻に浸りながら目を閉じて吊り革を握っていると、降りるべき駅がアナウンスされて電車のスピードは徐々に落ちていった。いつものように想像の世界から生まれたものなのか、それとも昨日起こった偶然の出会いに端を発した現実の世界から生まれたものなのか。判然としない、真夏にある泥濘のように温かな余韻は電車速度の逓減と同じ運命を辿った。
目標の駅へと到着した。一限目の授業に向かっていると思われる学生たちが、私の憂鬱を芽生えさせ、同時にそれを育む元凶が大量にホームへと流れ込む。電車内がすっきりとして、もう誰も降りる人がいなくなった頃、ようやく私もホームへと降りた。
改札へと続く階段には遅々として解消されない憂鬱の源が存在している。それらが視界より消えてから階段を上り改札を通過して外へ出ると、再び気持ちの良い秋晴れと出会うことが出来た。少し時間を空けたため前方には殆ど人がおらず、暖かな太陽の光を浴びながら閑散とした道を意気揚々と進んでいく。
とうとう大学へと到着した。一限目の授業は九時半から始まるため、その時間を十分ほど過ぎた大学キャンパスは閑散としている。正門を通り、草花が左右に茂っている道を進んで三号館へと到着する。
待ち合わせ場所である三一八号室へと向かうため建物内にある階段を上っていく。三号館は新しく出来た建物なので当然エレベーターが設置されているけれど、一時的とはいえ狭い密室の中で知らない人間と一緒になる可能性を有する恐怖の箱に、足を踏み入れる勇気は毛頭ない。
階段を上り切り廊下を歩いて三一八号室へ到着し、ゆっくりと引き戸を開いていく。ドアを開ける僅かな音と共に教室内が徐々に明らかとなっていく。光が入りにくい三一八室は薄暗く、人は誰もいなかった。
椅子に座り、明日が提出期限である英語の課題をカバンから取り出した。彼がやって来るまでの間、その課題を進めておこうと考えたのだ。名前欄には漢字とローマ字の両方を書く必要があり、それぞれ牟田昭宏とAKIHIRO MUTAと記し課題に取りかかる。安定した静寂を貫く教室において、シャープペンシルを走らせ音を立てている私の存在は社会から追放された異物のように思えた。
「おはよう。久しぶりやな」
課題に集中していたせいか、穂村が私の隣りに座り声を掛けてくるまで彼が教室へ入って来ていたことに気が付かなかった。
「おう、おはよう。来たならすぐに声を掛けてくれよ。急に隣りから声が聞こえたら怖いよ」
と返事をしつつ、私は残り三分の一程度となった課題を進めていく。
「悪い悪い。あ、その課題明日までやんな。俺もやらなあかんわ。えっと、あれ、どこにいったんや」
リュックサックの中を穂村はゴソゴソしている。大阪出身の彼は当然ながら関西弁をいつも話す。関東出身の私には本来なら馴染みの薄い方言のはずだが、私の両親が関西出身であり、実家暮らしの時に聞いていた言葉と似ているので違和感を覚えることはない。
「お、あったあった。え、なんで漢字とローマ字の両方で名前書かなあかんねん」
意味わからんわ、と文句を言いつつ、彼はシャーペンを走らせる。穂村大樹、TAIKI HOMURAと書いているのだろう。静かな場所で二人は黙々と課題に取り組んでいる。
お互いに課題を終えてからは、いま楽しいと思っていること、これから楽しいと思いたいこと、将来の展望など、心躍らせることもない平凡な話を彼とした。
人が苦手な私にとって、穂村の存在というのはコミュニケーションを気兼ねなく取れる貴重な存在だ。心を許せる友達がいるというのは人生を鮮やかに彩ってくれるものだと思う。また友達のいない人間は恐ろしいほどの不幸を味わっていると思う。平凡な会話でも、何も得るものがなくても、友達とコミュニケーションを取ることに価値があるのだ。例え相手のバックグラウンドに問題があろうとも。
話題が近々行われるサッカー代表戦になった時、一限目の授業終了を告げるチャイムの音が聞こえてきた。
「もう十一時か」
チャイムの音により改めて気付かされた時が過ぎるスピードの速さを、何百回目かの後悔と共に思い知った。チャイムが鳴り止むと、授業を終えて教室から出てきたと思われる学生たちの楽しそうな声が寂しい空き教室にも聞こえてきて、その声は、私たちは人生を謳歌しているのだ、という主張のように思えた。
「あの声を聞いただけで、日々の生活へ向ける熱意を失ってしまうよ」
と自嘲気味に私はいう。
「いやいや、あの笑い声とお前の生活は関係ないやろ。そんなん気にしてどうすんねん」
揶揄を感じる言葉・声のトーンで穂村が答える。本当に関係はないのだろうか。競争社会において、自分より下の人間に対し優越感を持つのは当然のことだろう。そして下の人間は劣等感を抱いたり辛いと感じたりするのが多数派ではないだろうか。
「他人なんて気にせず、自分のことに集中するんや」
と穂村は難しいことをいう。まあ、そう出来ればいいんだけどね、と私は適当に答えて、二限目の授業へ行く旨を穂村に伝える。
「今週の金曜日にあるサッカー日本代表の試合、一緒に見ようや。牟田の家で」
「ああ、いいよ」
と返事をして、先ほど穂村がいった、他人を気にせず自分のことに集中する、という考えに憧れを抱きつつ、また穂村と話が出来たことに感謝しつつ安住の地を後にした。
作品全体で42,000字ぐらいになると思います。
明日も投稿しますので是非ご覧ください。




