第七話 敵情視察
ブルーメンフェルト伯爵家の朝はいつも静かで慎ましい。黒パンと紅茶、乾酪。または鯡の燻製を少し。
今日はいつにも増して静かだった。
「姉上」
ルードヴィヒが吐息した。
「大変なことになってませんか」
「――なってるわね」
フィロメナは黒パンを千切って口に入れた。黙々と噛んで紅茶を飲む。食事は慎ましいが所作は優雅だ。
「国一番の政治家の甥と、国一番の商人からの求婚。姉上、すごいです」
「もはや国家問題並みだな」
パルツィファルが言い、ルードヴィヒが頷いた。
「うちはただの貧乏な伯爵家だというのに、なんでこんなことになったのかしらね」
フィロメナは遠い目をして紅茶を飲み、そっと吐息をこぼした。
「貧乏でも七大貴族の一角だからなのでは?」
「過去の栄光よ」
すっぱりと切って捨てるフィロメナに、パルツィファルが気まずげに視線を泳がせた。現在のブルーメンフェルト伯爵家の窮状は、おおむねパルツィファルが原因だ。
「父上のことを責めているわけではありません。領民を飢えさせるより、節制を選ぶ父上を尊敬しております」
「だが、新種の苗の育成に失敗しなければ、ここまでの窮状はなかったはずなのだ。――やはり私の責任だ」
冷害に強い新種の小麦。パルツィファルはその育成に投資した。成功すればブルーメンフェルト領の食料事情は大きく改善するはずだった。
「我が家は代々利益の追求には向いていないのです」
「反論できんな。だがその分、奥方がしっかりしているのも、ブルーメンフェルト代々の傾向だ。お前たちのお祖母様もそうだった」
「姉上はお祖母様に似ておられると聞きました」
ルードヴィヒは祖母を覚えていない。祖母が亡くなったのは彼が二歳の時だ。
「光栄だけど、風格や威厳の点でまったく及ばないわ」
当主は祖父だが、実質的に家を運営していたのは祖母だったそうだ。大奥様には誰も逆らえませんでした、と家令のハーネマンに聞いたことがある。
「いや、似ているな。見目は母上似だが、中身はお祖母様似だ」
「そうでしょうか」
「いや、イングリドも中々に気丈夫だったか」
イングリド・ヘレーネ・フォン・ブルーメンフェルト。今は亡き母の名。優しく目を細めるパルツィファルに、フィロメナもルードヴィヒもにっこりと顔をほころばせた。
母が生きていれば、ブルーメンフェルトの没落はなかっただろう。そう思わないこともない。だからといって父を責める気持ちもない。父を支えるのに、フィロメナでは力不足だっただけだ。自分に言い聞かせるように、そう繰り返す。
ルードヴィヒが成人するまで、ブルーメンフェルトを消滅させるわけにはいかない。
だから、これは好機でもあるのだ。借金返済だけでなく、有力な後ろ盾を得る機会。
(ヴィンフリート様か、ディートリヒ様か。どちらがより、ブルーメンフェルトの益になるのか)
見極めるためには知らねばならない。
フィロメナは決断した。
「本日、偵察に行こうと思います」
「どこへ?」
「ゼーベルク商会王都館」
◇
ルフトブラウ川の船着き場脇に建つゼーベルク商会王都館は荘厳な建物だ。小船と荷馬車が行き交い賑やかだ。白い石造りで正面に広い階段。何層もの重厚な構えに、大きなアーチ窓。華美ではないが洗練されている。貴族の屋敷に見劣りしないどころか勝っているようにすら見えた。
王都館でこれならば、港湾都市ゼーミュンデに存在するゼーベルク商会本館は、どれほどの規模なのだろうか。
だが気圧されている場合ではない。フィロメナは気合を入れて門衛に話し掛けた。名を名乗った途端、門衛の顔色が変わった。
「ブルーメンフェルト、伯爵家の、お嬢、様」
「はい」
「少々お待ちください!」
門衛は転げるように走り出した。途中で躓くが持ち堪えた。
供も連れずに貴族令嬢が出歩くことはほとんどない。勿論、皆無ではないし、禁止されてもいない。だが珍しいのは確かだ。
フィロメナはしばらく周りを観察した。活気がある。だが整っているし、清潔だ。徒弟たちは怠りなく掃除に励んでいた。
「お待たせいたしました」
フィロメナは振り返った。ディートリヒが少し驚いた表情で立っていた。深い青の眸は相変わらず海のようだ。
「前もって言ってくだされば、お迎えにあがりました」
「思い立ったのが今朝でしたので。突然の訪問をお詫びいたします」
「いいえ」
ディートリヒは目を細めた。
「歓迎します」
柔らかい表情に、門衛ほか、周りにいた者たちが一斉にディートリヒを見た。ざわめきが広がる。ディートリヒは意に介さず、フィロメナに手を差し出した。
「どうぞ中へ」
「ありがとうございます」
案内する姿を見送り、門衛は徒弟を肘でつついた。
「見たか?」
「見た見た」
場が一気にざわめいた。
「何あの顔」
「総帥、あんな顔できたんだ」
「俺、女嫌いかと思ってた」
「それな」
「べた惚れじゃん」
「な?」
背後でそんな会話がなされているとも知らずに、ディートリヒはフィロメナを連れ、館内を案内していく。
玄関ホールは大理石の床が輝き、巨大なシャンデリアが吊られていた。壁には世界地図に航路図、貿易都市の描かれた絵画が飾られていて。フィロメナは世界地図の前で立ち止まった。
「世界地図を、初めて見ました。レーヴェンライヒは思ったよりも――小さいのですね」
「はい」
「ここが、スナハリーグルダウディ……」
ディートリヒが少し目を瞠った。東方帝国の名を正確に覚えている者は少ない。
「ここから紅茶が運ばれて来るのですね」
「はい。――紅茶の倉庫に、興味はありますか?」
フィロメナは勢いよくディートリヒを振り返った。
「見せていただけるのですか?」
「あなたが望むなら」
応接間と大広間、小応接室を通り過ぎ、中央回廊を抜け、居住棟の横を通った。整えられた中庭の向こうに執務棟だ。
「裏庭の向こうに倉庫と馬車庫、使用人棟があります」
淡々と説明するディートリヒに、フィロメナは嘆息した。
「まるで宮殿ですね」
「ゼーミュンデの本館はもっと広いですよ」
「目が回りそうですね」
「昔、中で迷子になったことがあります」
「ディートリヒ様がですか?」
「ええ。なんでこんなに広いんだと、先代に文句を言いました」
フィロメナがおかしそうにくすくすと笑った。ディートリヒは優しく目を細め、フィロメナを見つめた。視線に気付いたフィロメナが顔を上げ、ディートリヒはさりげなさを装って視線を逸らせた。
「ここが、紅茶を保管してある倉庫群です」
石造りの小さな小屋が幾つも並んでいた。
「この小屋ひとつひとつが紅茶の倉庫なのですか?」
「ええ。中へどうぞ」
倉庫番が鍵を開け、重い音を立てて扉を開いた。二人が入るとすぐに扉が閉められた。
「――失礼。説明を怠っていました。扉を閉めたのは温度安定と湿度管理のためです」
ディートリヒは口元を押さえた。焦っているようだ。
「つい、商売相手と同じ扱いをしてしまいました。令嬢に対してあるまじきことを」
「お気になさらず。私はとても感激しております。こんな素晴らしい場所に案内していただけるだなんて」
フィロメナは辺りを見回した。
「漆喰が塗られているのは湿度調整のためですか?」
「ええ」
ディートリヒは少しほっとしたようだった。
「防臭効果もあります。木箱は杉か樅など、匂いの少ないものを使っています」
「紅茶の香りが損なわれるのを避けるためですね」
「ええ。木箱は鉛で裏打ちをし、油紙で茶葉を守っています」
「簀の子の上に置いてあるのも湿気対策ですか?」
「あなたは聡明だ」
ディートリヒは目を細めた。
「ますますあなたをゼーベルクに迎え入れたくなりました」
フィロメナはわずかに頬を染めた。
「紅茶に関してだけです」
「それで十分です」




