第四五話 思いもよらぬこと
王妃の茶会の翌日、フィロメナは熱を出した。過労だ。布団に包まり、潤んだ眸を宙にさまよわせる。
「無茶をなさるからです」
「お疲れが出ましたのよ」
ギーゼラとアルマに叱られ、フィロメナは眉を下げた。ギーゼラはそっとフィロメナの額を拭き、アルマは盆を持って来た。寝台用机の上に林檎をすりおろしたものと、温めた牛乳に蜂蜜を溶かしたものを置く。
「介助いたしましょうか?」
「……自分で食べられるわ」
フィロメナはよろよろと林檎を口に運び、牛乳を飲んだ。
「こういう時は、マサラチャイが良いのよ。香辛料たっぷりで、お砂糖も利かせて」
「お嬢様でなければ作れません。そして厨房への出入りは禁止です。危ないったらありゃしません」
「……わかってます」
フィロメナは唇を尖らせた。
「生姜に肉桂、丁字に小荳蔲。それに鬱金」
「お嬢様」
「――治ったら作るわ」
「そうしてください」
ギーゼラとアルマは顔を見合わせて苦笑を交わす。
「でも、お元気になられて良かった。……お気持ちの方ですよ」
「ええ。見違えるほどです。……今は火照っておいでですけど」
フィロメナはふにゃりと笑った。
「私もそう思うわ」
「熱が下がりましたら、婚礼衣装の仮縫いを再開しなくては」
「帯の刺繍、進捗はどのくらいですか?」
フィロメナは沈黙した。
ギーゼラは少し頬を掻く。アルマは口元に手をやった。
「――まあ、最後の一針が肝心ですから」
「後はお針子に任せるのが通例ですもの」
フィロメナは深く溜め息を吐いた。
「――可及的速やかに治すわ」
「お気持ちを楽にお持ちください」
「気合を入れてはダメですよ。気を抜くのです」
過保護な侍女たちに苦笑して、フィロメナはまた横になった。
「おとなしく寝てます」
熱は一晩で下がった。
そして次の日から、フィロメナは刺繍に勤しんだ。婚礼衣装の仕立ては滞りなく進んでいる。
金糸銀糸を一針一針、縫い込んで。
ある日には王宮に呼び出され、監視制度の原案を練る。相変わらずアルブレヒトは容赦がない。ローデリヒは細々とした指摘をしてくれるのでありがたいが、痛烈だ。
そしてまたある日にはアーデルハイドの訪問を受け、ヴィンフリートに礼を言伝た。本当は直接に会って伝えたかったのだが、ヴィンフリートの所属する騎士団も十三月の式典に向けて多忙を極めている。
誰もが特別な十三月に向けて、全力で疾走していた。
今日はディートリヒを訪問する日だ。
会わせたい人がいるとのことだったが、何だかんだと延び延びになっていたのだ。
ゼーベルク商会王都館の応接室で、フィロメナは長椅子に座りディートリヒを待っていた。ギーゼラがそっと囁く。
「やけに待たされませんか?」
「ギーゼラ」
フィロメナに窘められ、ギーゼラは肩をすくめた。
「はいすみません」
扉が開く。
「おっとすまん。間違えたか」
白髪頭の老人がひょっこりと顔を覗かせ頭を掻いた。
「お嬢さんが、もしかしてブルーメンフェルト伯爵家のフィロメナさんかな?」
ギーゼラが眉を跳ね上げた。無礼者、と一喝する前にフィロメナが、立ち上がり一礼した。
「はい。ブルーメンフェルトのフィロメナと申します」
ギーゼラが膨れた。
「失礼ですが、あなたは……」
老人はにこにこと頭を下げた。
「ディートリヒの養父、ギュンターと申します。あれが世話になっております」
ギーゼラが目を剥き、フィロメナは忙しく瞬きをした。伝説の商人――一部では神とも崇められている途轍もない人だ。
「お義父上様でしたか。初めてお目にかかります。フィロメナ・マルリス・フォン・ブルーメンフェルトと申します。この度はご挨拶が遅れ、申し訳ございませんでした」
最敬礼をするフィロメナに、ギュンターはにこにこと目を細めた。
「いやいや、こちらこそ。今回は不意打ちですみませんな。いや、あれがちっともあなたに会わせてくれんもんでな。こっそり見に来たというわけだ。覗くだけのつもりが予期せずの対面になってしもうた。すまんな。驚かせたろう」
「こっそり、ですか?」
「うん。本当の客人が来る前に退散せんとな。怒られるわ」
お茶目に片目を瞑り、ギュンターはそそくさと扉に向かった。手をかけると同時に、扉は向こう側から開いた。
「お待たせして申し訳な……、親父殿?」
ハインリヒが片眉を上げ、ディートリヒが扉の前で固まった。
「邪魔したな。また来る。それじゃあフィロメナさんや、また改めて」
「はい、義父上様。また、お会いできる日を楽しみにお待ちしております」
ギュンターはディートリヒの肩を力強く叩いた。
「いっ、」
「良い娘さんじゃないか。しくじるなよ、坊主」
「だ、いや、どうして親父殿が、」
「じゃあな」
ひらひらと手を振って去っていくギュンターに、その場の誰もが呆気に取られて動けなかった。
ごほんと咳払いがひとつ。
「出直すか?」
後ろの人影が無愛想に言い放つ。ディートリヒは首を横に振った。
「いや、すまない。こちらの不手際で混乱を来した」
ディートリヒは改めて扉を押し開け、人影を前に出した。
「フィロメナ嬢、お待たせして申し訳ない。こちらが本日あなたに引き合わせたかった人物です」
人影は不機嫌そうな顔付きで進み出た。ギーゼラがあっと口元を押さえた。
フィロメナも目を見開いた。
「ウーヴェ・シュミットだ。また会ったな」
フィロメナは一礼する。
「またお会いできて光栄です」
「世辞を言っても無駄だぞ」
「お世辞ではなく。嬉しいです」
本当に嬉しそうなフィロメナに、ウーヴェは眉を顰め、ディートリヒもまた眉を寄せた。
「男爵、嫉妬はお止めなさい」
「――ハインリヒ」
ギーゼラが苦笑した。まるで思春期の少年のようだ。
「本日はウーヴェ殿に、我がゼーベルク商会紅茶部門顧問に就任していただきたく、場を設けた」
「引き受けるとは言っとらん。そこのお嬢さん次第だ」
フィロメナは目を瞬いた。意味がわからない。
「――説明を、求めてもよろしゅうございますか?」
困惑するフィロメナに、ディートリヒは頷いた。
改めて卓を囲み、三人が席に着く。フィロメナ、ディートリヒ、ウーヴェ。ギーゼラとハインリヒは後ろに控えて立っている。
「ゼーベルク商会の紅茶部門を、一段階大きくしようと思っています」
ディートリヒはフィロメナを見た。
「あなたに、本部長になっていただきたい」
フィロメナは何度かその言葉を反芻した。
「――ええと、本部長とは何をするのでしょうか」
「紅茶部門の頂点です。組織の最適化と事業目標の設定、最終的な意思決定を行います」
フィロメナは困惑した。
「要するに、ゼーベルク商会の紅茶の扱いを、あなたにお任せしたいということです。どの紅茶をどのくらい仕入れるか。どこにどれくらい売るか。どのように保存し、どのように管理するか」
「それは――大変な業務のような気がするのですけれど」
「ええ。あなたが私の妻になった暁には、共同経営者にと以前申し上げました」
「――覚えております」
「あなたは紅茶にお詳しい。そこへウーヴェ殿に顧問になっていただけば、百人力だ」
それは、とても魅力的な誘いだった。
レーヴェンライヒで手に入る最高の紅茶を最大量、最大種、そして最高の師と共に扱えるということだ。
だが――
「荷が勝ち過ぎます」
「そもそもわしは受けるとも言っとらん」
フィロメナとウーヴェ二人から反対の声を上げられ、ディートリヒは笑った。
「ですから試験をいたしましょう」
「試験」
「婚姻までもう間がない。フィロメナ嬢もお忙しいでしょう」
帯のことを言われているのかと、内心フィロメナは冷や汗を掻いた。
「一月に、ウーヴェ殿に試験をしてもらいたい。その試験に合格したら、フィロメナ嬢は本部長に。ウーヴェ殿は顧問になっていただく」
ウーヴェは顔を顰めた。
「それは、わしが試験の内容を決めるということか。合格させるか否かも、わしの一存か」
「ええ。お任せします」
ディートリヒは頷いた。自信に満ちた表情だった。
「ですが、ディートリヒ様――」
「私はあなたを信じています。あなたこそが相応しい」
帰りの馬車の中、ギーゼラは溜め息を吐いた。
「お嬢様、大変ですわね」
「他人事だと思って……」
「他人事ですから」
ギーゼラは笑った。
「ですが、張り合いがありそうで良かったじゃないですか。結婚後も退屈しなさそうですね」
フィロメナは苦笑した。
「退屈が恋しいくらいになるかもしれないわね」
窓の外を、乾いた風が枯葉を巻き上げて通り過ぎていった。今年最初の雪が、もうすぐ降るだろう色の空だった。




