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第四四話 婚約破棄の撤回を

 ローデリヒが草案を受け取り、何度か読み返すと頷いてカーティスに渡した。カーティスは研ぎ澄まされた刃のような光を目に宿した。

「――成程。まだ甘いが、よく考えられている」

「草案としては、悪くない。勿論、詰めるところは多々ありますが」

 そして草案はアルブレヒトの手に渡った。

 フィロメナは小さく息を吸った。

如何(いかが)でしょうか、クローネンベルク侯爵閣下。これでは、まだ足りぬと思われますか」

「――足りる、とは言い難い」

 突き返されそうになった草案を受け取らず、フィロメナはしっかりと言い返した。

「その場合、どこをどう詰めたら、抜け道を潰せるでしょうか」

 アルブレヒトは沈黙した。沈黙したままじっと草案を睨みつけている。

 永遠にも思える静寂の後、アルブレヒトは細く長く、息を吐いた。

「足りぬ、が――思い付きにしては、良くまとまっている」

 フィロメナの顔が輝く。王妃が微笑んだ。

「無論、皆の言う通り足りぬ部分は多々ある。構造が雑だ。だが方向は間違っていないと言っておこう」

「ありがとう、ございます」

 フィロメナは溜め息と同時に頭を下げた。第一関門は突破できた。まだ気は抜けないが、ひとつめの穴は回避できた。

 ぐったりと椅子に埋もれてしまいたい気分だった。だが、ここで脱力してはすべてが台無しになる。

(気を抜いちゃ駄目)

 そんなフィロメナを見つめ、王妃は軽く手を叩く。

「さあ、皆様。お菓子を少しも食べていないのではなくて? 陛下、林檎のパイは如何です?」

「うん? そうだな、貰おう」

「私は紅茶のお代わりをいただきたい」

「ええ、用意させましょう」

 手を叩き、王妃は侍女たちを呼び寄せた。

「実はね、フィロメナ嬢。お茶会にはもう一人お招きしたのよ。少し遅れてくるように言い添えてあったのだけど」

 フィロメナは目を瞬いた。

「――どなたです?」

 王妃は国王と顔を見合わせ、楽しげに笑った。

「あなたが心待ちにしている人だと思うわ」

 フィロメナは目を見開いた。心待ちにする人など、この場ではひとりしか思い当たる節はない。

 だが、何故。


「おいでになりました」


 侍女がその人物の来訪を告げ、人影がゆっくりと近付いてきた。黒衣に身を包んだ背の高い男性。黒髪に海のような青い眸。

「ようこそ、ゼーベルク男爵」

 王妃が声をかけ、ディートリヒは深く頭を下げた。

「お招きいただきありがとうございます」

 声は低く、硬い。

 国王が笑った。

「ゼーベルク男爵、そなたは素晴らしい婚約者を得たな」

 ディートリヒは弾かれたように顔を上げた。

「陛下、畏れながら――」

「いやいや、見事な令嬢だ」

 ローデリヒが国王の言葉を継いだ。

「今回の茶会は、大貴族と大商人の婚姻による、構造の公私混同や腐敗を審理するものでもありました。ありましたが――」

 ローデリヒは肩をすくめた。

「結果として不正はなし。あったのは三件の忖度のみでした。ですが忖度であれ、歪みは見つかった」

 ディートリヒは深く頭を下げた。

「承知しております。監督不行届でございました」

 苦い声だ。フィロメナの胸が、その声に呼応するように痛む。

 ローデリヒはアルブレヒトに視線をやる。頷いて、アルブレヒトが重々しく繋げた。

「この歪みを放置した場合、いずれ大きな綻びに通じるだろう。見過ごすことはできぬと判断した」

 ディートリヒは頭を下げたまま、表情を硬くした。

「よって――ブルーメンフェルト伯爵令嬢の案を採択し、制度を整えることで対応しようと思う」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。ディートリヒは顔を上げ、アルブレヒトを見た。

「婚姻によって生じるであろう歪みは、対処可能というのが、余らの結論だ」

 国王が軽やかに笑った。

「いやはや、まさかこう来るとは思っていなかった」

 フィロメナの提出した草案を、国王手ずからディートリヒへと渡した。ディートリヒは恭しく受け取り、目を(みは)った。

「ええ、本当に。今回、この場であなたたちの婚約解消を提案する予定でしたのよ」

 王妃が微笑みながら、容赦のない内容を告げた。

 フィロメナの頬が引き攣る。やはりそうだったか。

「でも、フィロメナ嬢は素晴らしい札を切った」

 王妃はフィロメナを見つめ、微笑む。

「わたくしの若い頃を見るようだわ」

 ローデリヒが咳払いをした。

「失礼ながら、あなたはもっと狡猾で容赦がなかったと思うが?」

「あら、本当に失礼ね」

 カーティスが淡々とアルブレヒトに向き直る。

「若い世代が台頭してきましたね」

 アルブレヒトは苦く頷いた。

「だが、私は大貴族と大商人の婚姻を全面的に認めたわけではない。構造腐敗は起こるものだ」

 フィロメナは顔を上げた。

「その度に対策を講じます。良き解決方法を模索し続けます。国家を脅かすことのないように」

 凛々しく言い切るフィロメナに、アルブレヒトは渋々ながらも頷いた。

「――検討しよう。だが、今回はと言い添えておく。今回の提案は考慮するに(あた)うものだった。それ故の、取り敢えずの結論だ」

 フィロメナはディートリヒを見た。どこか呆気に取られた表情でディートリヒはフィロメナを見つめている。

 言ってやりたいことはたくさんある。あり過ぎて忘れてしまった。

 フィロメナは微笑んだ。

「婚約破棄を撤回してくださいますね、ゼーベルク男爵ディートリヒ様」



 王宮を辞して、ルフトブラウ川のほとりを二人は黙って歩いていた。

「――覚悟を決めて王宮へ参内しました」

 ぽつりとディートリヒが呟いた。

「ええ。私もです」

 覚悟はあった。壁を打ち壊す方の覚悟だったが。

 冷たい風が通り過ぎ、フィロメナが少しだけ肩を震わせた。ディートリヒが風除けに立ち、フィロメナを庇った。

 フィロメナが顔を上げた。

 ディートリヒの顔を夕日が縁取って、赤い。

「前言を撤回させてください」

 青い眸が光を反射して、複雑な色合いに煌めいた。

「まだ、私の婚約者でいてくださいますか」

 吐息のような問い掛けに、フィロメナは微笑んだ。泣きそうだった。でも、ここで泣いたら台無しだ。きっとひどい顔になる。

 だから、フィロメナは息を吸い、吐いた。

「条件付きです」

 震える唇を無理やり笑みの形に引き上げて、潤んだ眸を細めて、言う。

「二度とひとりで、勝手な結論を出さないことを、お約束してくださるなら」

 ディートリヒが微笑んだ。フィロメナの頬にそっと触れる手は、冷たくて微かに震えていた。

「――アイドマリアに誓います」

 フィロメナはディートリヒの胸に飛び込んだ。令嬢に相応しくない、初めての暴挙だ。

 ディートリヒは、しっかりとフィロメナを受け止め、抱き締めた。

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