第四二話 ディートリヒの動き
晩餐会の日、その後の会合を経て。
その夜更け、ディートリヒは一番足の速い舟に乗り、王都からゼーミュンデへとルフトブラウ川を下った。
朝日が昇る前にゼーベルク商会本館に到着するとすぐに、ギュンターの寝室の扉を叩いた。
「うるさい。出直せ」
枕か何かが扉に当たった音がした。ディートリヒは扉を開けて部屋に入る。途端に枕が投げつけられ、片手で受け止めた。
「おはよう、すまない親父殿。緊急事態だ」
「出直せ坊主。俺はまだ眠い」
ギュンターは白髪頭をぐしゃぐしゃと掻くと、そのまま仰向けに寝台に倒れ込んだ。
ディートリヒは構わず言葉を続けた。
「俺の婚約のせいでゼーベルク商会にケチが付いた。申し訳ない」
深く頭を下げた義理の息子に視線を投げ、ギュンターは寝転がったまま続きを促した。
「――で? お前はどうする。婚約を破棄するか?」
「しない。いや、したくない。しないために手を打ちたい。協力を求めたい」
「違うだろう、坊主」
ギュンターは肘をついて頭を上げた。傾いた視線でディートリヒを見た。
「人に物を頼む時は、何と言うか教えたはずだぞ」
ディートリヒは目の下に皺を刻み、口を曲げた。
「――助けてください。お願いします」
ギュンターは頷くと掛布団を捲り上げ、寝台の上にどっかりと胡座をかいた。
「何が起きたかはだいたい想像がつく。癒着か? 横領か?」
「まだわからん」
正直にディートリヒは手を挙げた。
「ゼーベルク商会だけ特別価格で穀物を買っている、とかいう噂だけかもしれない。まだ掴んではいない。だが、要するにフィロメナ嬢が婚約者、つまり俺への利益供与を行ったのではないかというような話だ」
「曖昧だな。だが、わかりやすい構図だ。しかも信憑性も高い」
ディートリヒは真剣な顔でギュンターに向き直った。
「情報部を総動員した。バルトロメがブルーメンフェルト領コルンマルクト周辺で結ばれた契約を洗う。事後承諾で済まないが――」
ギュンターは溜め息を吐いた。
「坊主、俺はもう引退したジジイだ。商会はお前のものだ。活かすも潰すも好きにしろ」
ディートリヒはギュンターそっくりの仕草で溜め息を吐いた。
「職員を路頭に迷わせるわけにはいかねえだろ。頼むよ、親父殿。引退を撤回してくれ。……いや、今はそれどころじゃない」
ディートリヒは黒髪を掻き乱す。
「とにかく、俺の様子は今そんな感じだ。王都から調査が入るかもしれんが、俺は誓って不正はしていない。そこだけは信じてほしい」
「疑っちゃいねえよ」
ギュンターの即答に、ディートリヒは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、俺は王都へ戻る」
「言伝だけなら遣いで済んだろ」
呆れた様子のギュンターに、ディートリヒは少しだけ目を逸らせた。
「――少し、気合い入れてもらいたかったんだ」
可愛いことを言う義理の息子に、ギュンターは豪快に笑った。
◇
ルフトブラウ川を下るのは速いが遡上するには時間が掛かる。ゼーミュンデから王都へは馬を使った。
昼前にゼーベルク商会王都館に戻ったディートリヒは、総支配人のハインリヒからの報告を受け取った。
「バルトロメはコルンマルクトへ発ちました。現時点で把握できる契約はこちらです」
書類を一瞥し、ディートリヒは歩き出した。ハインリヒが一歩後ろに続く。
「主契約七件、その付随契約三二件か」
「関連書類は百枚を超えるかと」
「そんなものだろう。全部当たるぞ」
「現在主契約をひとつずつ洗わせております」
ディートリヒは頷いた。
「数日掛かるな」
どこで疑惑がわいたのかがわからない。バルトロメの言う通り、おそらくは末端だ。
「数日で片を付けましょう」
ハインリヒの言葉にディートリヒは片眉を上げた。ハインリヒは眼鏡の傾きを直した。
「悲願でしょう、坊っちゃん」
ディートリヒは鼻の頭に皺を寄せた。
「その呼び方はやめろ。――どこまで知ってる」
「あなたが上を目指す理由があの方だということだけです」
ディートリヒは顔を覆った。
ギュンターとハインリヒは長い付き合いだ。それこそディートリヒが生まれる前からの。
「――フィロメナ嬢には言うな」
「ええ。あなたがご自分でお伝えください」
ディートリヒは絶句し、耳まで赤くなった。
(あの雪の日以来、ずっと想い続けていた。恩を返したい、役に立ちたい、あわよくば笑ってほしい。その思いだけで、ここまで来た)
「……失ってたまるか」
「その意気です。ですが、続報が来るまでは別件を」
「わかっている。手抜きはしない」
「結構」
◇
運命の日がやってきた。
バルトロメが青褪めた顔でコルンマルクトから帰還した。嫌な予感がディートリヒの胸を貫く。
「――報告を」
低い声で促すディートリヒに、バルトロメはぎゅっと目を瞑った。
「不正はなかった。だが……」
バルトロメは一旦息を継いだ。
「地方役人たちの忖度が存在した。これが優先されていた三件の事案だ」
「――命令は」
「なかった。誰の命令でもなく、善意の優遇措置だ」
ディートリヒは顔を覆った。
交わされた一二四通の契約書に問題はなかった。だが三件――問題は存在していた。
「不正ではないだろう。たった三件だ。握り潰しても――」
ディートリヒは片手を挙げ、バルトロメの台詞を途中で遮った。
「構造が歪み始めている」
「だが、ディートリヒ、」
「握り潰せばそれは不正だ。言い訳もできない。フィロメナ嬢に合わせる顔もなくなる」
頭の中で幾度も計算を繰り返した。取り返しはつくか。何をすれば相殺できるか。
だが、駄目だった。
何度思考を繰り返しても、解決策は見当たらない。忖度が三件。不正ですらない。
たったそれだけのことなのに。
バルトロメは痛々しげに顔を歪めた。
「お前、何を言ってるかわかってるか?」
青い眸は絶望の淵に沈んだかのように、昏い。
「誠実でなければ、彼女の傍にはいられない」
「だが、誠実でいるなら、お前はフィロメナ嬢とは……」
ディートリヒは薄く笑った。
「――それでも、彼女が傷付くよりは良い」
彼女の家名に傷が付く。清廉潔白なブルーメンフェルト伯爵家の令嬢の名に、泥を塗る。
クローネンベルク侯爵の言った通りだった。商人風情が七大貴族の令嬢と結婚するなど、身分不相応にも程がある願いだったのだ。
(俺はあなたに相応しくない)
フィロメナのはにかんだ微笑みが眼裏によみがえる。
――お慕いしております。
柔らかい声。優しいぬくもり。曇りのない灰青色の眸。
(あの言葉があれば生きていける)
この先どれ程辛いことがあっても、フィロメナの言葉があれば乗り越えられる。
彼女はディートリヒの光だった。汚してはならない絶対の存在だった。
ディートリヒはゆっくりと立ち上がった。そして、三枚の契約書をそっと畳んで懐にしまった。
「……行くぞ、バルトロメ」
「――どこへ」
ディートリヒは顔を上げた。
絶望に沈んだ眸は昏い海のようだ。整った顔は人形めいて冷たい。
「決まっている。ブルーメンフェルト伯爵家別邸だ」
バルトロメは息を呑んで、次いで苦く顔を歪めた。
「承知、しました」
ディートリヒは外套を羽織り、歩き出した。
足が重い。鉛のようだ。
馬車までの道が、永遠のように遠く感じられた。




